2011年12月21日

品川道・筏道(その2:二子玉川〜大井)

二子玉川は大山街道が通っており、以前歩いた折に筏道の碑を見た記憶があった。
続きを歩く前にまず、その碑を確認に。

碑は次大夫掘(六郷用水、丸子川)の次大夫橋の袂にあって、「右 むかし筏みち むかし 大山みち」と彫られている。
二子玉川郷土史会が建てていて、大山道が前面の通り、碑に向って次大夫掘沿いの道を右に行くと筏道に繋がると言う意味なのだろうか。かなり趣旨不明だった。

246号を越えると六郷用水沿いの道は国分寺崖線沿いに続き、「左西赤坂道、南大山道、右東目黒道」と彫られた大山街道の道標がある。

横に玉川地団協が建てた「南大山道道標」と彫られた石柱があるが、本物の道標の「南」は単に方角を示しているだけで南大山街道と言う街道はなく、石柱の「南」は余分。
この用水沿いの気持ちの良い道は以前歩いた鎌倉街道中道でもあり、途中で鎌倉街道は上野毛方面へ分岐する。

2011112筏道碑s-.jpg  20111112大山街道道標s-.jpg  20111122六郷用水沿いの道s-.jpg


用水の北側に面する住宅には接道がなく、自費で掛けたらしい橋が一軒ごとについている。
そこが軒並み駐車場代わりに使われているのも、不思議な光景だ。

20111122駐車橋s-.jpg


川沿いにある善養寺に詣でる。
善養寺は都内でも有数のカヤの巨樹があるが、境内は意味不明の石像が沢山あって不思議感が横溢している。
ここで「みきハ京三ち」と刻まれた道標を発見する。
この道標の文字は、前回歩いた時に砧南小学校の寝の石碑に刻まれているものと同じで、善養寺のものは下部で継いでいるのでいるので本物らしい。
誰が砧南小学校前に、碑を建てたのか、そもそも何故善養寺に本物の碑があるのかも謎のまま。

20111122善養寺s-.jpg  20111122善養寺カヤs-.jpg  20111122善養寺道標s-.jpg  


真新しく立派な五重塔のある、伝乗寺に立ち寄る。
道端の壁に塗り籠められた、庚申塔も愛らしい。

20111122伝乗寺s-.jpg  20111122庚申塔s-.jpg


宝莱山古墳、多摩川台古墳群、亀甲山古墳などを見学。
一番大きく、国の指定史跡でもある亀甲山古墳が発掘されていないのは何故か不思議。
多摩川台公園の一角に古墳展示室があるが、人影は見られなかった。

多摩川園駅の傍の、北条政子縁の浅間神社も古墳の上に作られている。

20111122発掘品s-.jpg  20111122浅間神社s-.jpg  20111122多摩川3s-.jpg


街道はここから中原街道を戻って洗足池へ繋がり、そこから東に向かい大井へ至る。
洗足池は色々な史跡があって興味深いが、中原街道を歩いた時に見ているので省略して先を急ぐ。

この道は典型的な尾根道で、昔ながらの心地よいスケールの地元の商店街が続き、荏原駅のそばに、天保二年銘の品川道の道標がある。

街道沿いに伊藤博文の墓所があるが、公開されておらず敷地には入れない。

20111122商店街s-.jpg  20111122品川道道標s-.jpg  20111122伊藤博文墓s-.jpg


池上からの鎌倉街道下道を歩いた時に見逃した、光福寺の「大井の井」に脚を伸ばす。
了海上人の産湯の井と言われ、地名の大井はこの井戸に由来するとも言う。

寺には善福寺の逆さ銀杏の一枝を植えた兄弟銀杏があり、明治時代までは漁民の航行の目印ともなっていて、区随一の巨樹という。
これを見て歩き終えた。

20111122大井の井s-.jpg  20111122光福寺s-.jpg  
【品川道・筏道の最新記事】
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2011年12月05日

品川道・筏道(その1:府中〜二子玉川)

品川道・筏道は府中の国府から、品川へ至る古道で「品川道」の名称は大國魂神社の祭礼に使う清めの水を品川の海から運んだ事によるといわれている。
この祭礼は暗闇祭りで、今も品川の海で水を汲む行事は「品川海上禊祓式」として受け継がれている。

筏道の名称は、近世多摩川の筏乗りが、多摩川上流から材木を運びその帰りに使ったという事から名づけられており、帰りには、長い竿を担いで戻ったということだ。

古来から府中といわれていながら、武蔵国府跡が特定されたのは比較的最近で昭和50年以降の発掘調査により、大國魂神社とその付近が跡とされている。
現在は国衙部分が史跡となっており公開されている。
まず、ここを見てから大國魂神社へ。

大國魂神社は起原が西暦111年といっているので、国府の設置よりもはるかに古いことになり、この辺はどうだろうか。

随神門が新築されていて白木が美しいが、以前はどのような門だったのか記憶がない。
11月は酉の市が行われているため、周りも何となく賑々しい。

20111115国衙跡s-.jpg  20111115随神門s-.jpg


京所道という道を歩き始める。
京所道は”きょうづみち”と読み、国府の写経場があった経所(きょうしょ)の名残という。

府中競馬場を過ぎると、八幡道といわれる武蔵国府八幡宮への道になる。八幡宮は「一国一社の八幡宮」だが、小ぶりで広い境内の中にひっそりと佇んでいる。

20111115京所道s-.jpg  20111115武蔵国八幡宮s-.jpg


京王線をわたると「品川街道」と表示されたの標識が現れ、すぐに常久一里塚跡。
案内板に古地図が掲載され、「古道但し品川海道」と記載されている。
さらに説明には「この常久一里塚跡は、江戸初期に整備された甲州街道の日本橋から七里のところに設けられた一里塚の跡と伝えられているものである」とあって、かなり混乱する。
この説明だと、品川道は旧甲州街道と同じものということになるが、旧甲州街道は一筋北のルートを通っていて、整合しない。
五街道の整備以前に既に一里塚はあったので、多分府中市の説明は誤解に基づくものだろう。

20111116品川街道標識s-.jpg  20111115常久一里塚s-.jpg  20111115説明板s-.jpg


府中第四小学校の敷地の角に東品川道、西府中道、北車返村と刻まれた庚申塔がある。
「車返」という地名が珍しいが、頼朝の奥州征伐のときの藤原秀衡の持仏の移動時のお告げによって乗せていた車を返した事に由来するというから侮れない。

20111115庚申塔s-.jpg


調布市に入ると道路標識が「旧品川みち」に変わる。
調布の地名自体が租庸調の調として苧麻などを原料として織った布を生産したとこから由来し、この辺は飛田給という地名もあり、これも悲田院の給田の「ひでん」が飛田と変わって、更に読みが「とびた」となったという説がある。
いずれにせよ、曰くのある地名が続いている。

20111115旧品川みち標識s-.jpg


旧道と新道の分岐もいかにも旧街道で、なぜか楽しい。

伊豆美神社に寄り道する。伊豆美は付近の地名の和泉の美称という。
狛江市の石造鳥居では一番古いという珍しい背の低い鳥居があり、領主の一族の石ヶ谷貞清が、由井正雪・丸橋忠弥らを討伐した奉斎として寄進したものという。丸橋忠弥の墓は鎌倉街道沿いの都内の金乗院で見た事を思い出した。

29111115街道分岐s-.jpg  20111115伊豆美神社鳥居s-.jpg


狛江市では道路標識は更に「品川道」に変わる。
世田谷区に入ると、今度は史跡などでの表記はまたまた「いかだ通」に変貌する。
夫々の自治体の見識があるのだろうが、他と変えたいという、狭い了見ばかりが鼻に付く。

20111115品川道標識s-.jpg


世田谷通りを越えると、文政4年に女念仏講中によって建てられたという珍しい念仏車がある。車には「南無阿弥陀仏」と彫られていた。

20111115念仏車s-.jpg


砧南小学校の前に不思議な道標があった。
真新しい碑に「みきハ京ミち ひ多りハふしミみち」と彫られている。
何の解説版もなく、何故ここにこのような碑があるのか全く不明。

日も暮れて二子玉川へ急ぎ、以前大山街道を歩いた時に「筏道」と記された碑があったこと思い出し探したがこれも闇にまぎれて不明。

煌々と明るい二子玉川のライズで一気に現代に戻り、トリビアなことで興味が湧いた今日の街道を終えた。

砧南小学校前碑s-.jpg  二子玉川ライズs-.jpg


ところで、この街道は、荻窪圭という方が書いた「東京古道散歩」という本を参考にして歩いていた。
念仏車の先の喜多見付近で道迷いし、本を片手に通りすがりの人に道を聞いていると、「その本は私が書きました」といって、ビアンキに乗った荻窪圭ご本人が忽然と現れたのには驚いた。

立ち話をして、街道と同時にT系も堪能ということも知ったが、「古地図と巡る東京歴史探訪」という本も書かれているということで早速購入。
笑顔の素晴らしい方で、きっとまた面白い視点の街道の本を出してくれるのではないかと期待している。
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2011年09月23日

北国街道(その2:柏原宿〜二本木宿)

柏原宿の最寄は黒姫駅。駅前には一茶の碑があり、「蟻の道 雲の峰よりつゞきけん」。
この碑には、黒姫で自然保護に取り組んでいるC・W・ニコルの英訳も刻まれていた。
  The ant's path
  Doe's it not reach
  To yonder cloudy peak

黒姫山はその俳句の通り、残念ながら雲の中。

一茶通りを歩き、駅に程近い小丸山公園に。
ここには一茶記念館や、小林家代々の質素な墓があり、一茶もここに葬られている。
直ぐ隣には、立派な「俳諧寺一茶翁墓」と記された碑があるが、真新しく、一茶の菩提寺である明専寺住職の名前も記されている。
これは質素な一茶の墓としてはいかにも不似合いで、墓というよりか記念碑というべきか。

 辞世:露の世は 露の世ながら さりながら

20110910一茶句碑s-.jpg  20110910一茶通り.JPG  20110910一茶墓s-.jpg


街道を戻り、前回見逃した一茶の旧宅に足を運ぶ。小さな土蔵で明り取りの窓が一つある。
一茶は、俳句からイメージされる好々爺とは違い、腹違いの弟の仙六と遺産相続で12年間争い、最終的には遺言通り親の遺産を折半することで落着した。
受け継がれた家も、真中で仕切って弟と二家族が住むという徹底振りだった。

一茶の再晩年の6月に柏原で大火があり、一茶は焼け出され仮住まいの土蔵に移った。
小さな土蔵は地面に直接造られている囲炉裏一つでは、冬はさぞ辛かっただろうが、本当の寒さを迎える前に11月に亡くなった。享年64歳。

  是がまあ つひの栖か雪五尺

20110910一茶住いs-.jpg  20110910一茶住い囲炉裏s-.jpg


柏原宿には、村の鍛冶屋の歌そのままの仕事ぶりを、平成5年まで続けていた中村家の住宅が保存されている。
そこから少し行くと、信州打刃物の里らしく、今度はその歌のモデルとされているらしい方の子孫が建てた碑があり、傍らにこの歌の作者に関する情報を求める看板もある。
有名な歌だが、作者不詳ということだ。

20110910中村家s-.jpg  20110910中村家鍛冶場s-.jpg  20110911村の鍛冶屋碑s-.jpg


柏原宿を抜けると標高が700mを越えて、北国街道で一番高い地点になり、雲の峰の黒姫山を眺めながら歩くと、両塚が残る野尻一里塚。
「あとどもはかすみ引きけり加賀の守」の一茶の句が添えられていた。

20110910黒姫山s-.jpg  20110910野尻一理塚s-.jpg


野尻宿では、夏が過ぎて閑散としている野尻湖に立ち寄る。
扶養の花に似ているので、扶養湖とも言われるそうだが、どうだろうか。
ここはナウマン象が発掘されたことでも有名だが、発掘現場にには象の大きさとは裏腹の可愛らしいプレートが立っているだけだった。

20110910野尻湖s-.jpg  20110910ナウマン象掘地s-.jpg


宿のはずれの安養寺には、境内に御金蔵跡があり、中勘介が27歳の明治44年と翌年滞在して「銀の匙」の前編を書いた部屋が残されている。
寺からは、杉の木立で湖は見えないが、境内にいた方に話をうかがうと昔は杉も小さく湖面が良く見えたとの事。

20110910安養寺s-.jpg


国道のバイパスは信越大橋で一飛びに関川を越えるが、スノーシェードがある旧国道で関川に降りてゆくと、復元された木の太鼓橋があり、信越国境の関川の関所となる。
ここは道の歴史館となっていて、関所も復元されている。
丁度今年は北国街道400年ということで、あちこちで催しも行われている事をこの歴史館で知った。

20110910関川関所入り口s-.jpg  20110910関川関所s-.jpg  


関川神社の国の天然記念物の大杉や、スキー神社を見る。
日本で最も古いスキー神社だそうで一之宮を名乗っているが、ほかは何処にあるのだろうか。
消火栓も、とにかく雪に埋もれないように背が高い。

20110910天神社大杉s-.jpg  20110910スキー神社s-.jpg  20110910消火栓s-.jpg


白田切川を越えて田切宿に入る。妙高山から流れ出すこの辺の川は土地を深く侵食する田切地形を作り出し、同時に土地の名前にもなっている。
妙高からの湧水が多いせいか、街道沿いに水の音が絶えない。

妙高山の名前の言われも、諸説あって面白い。
「越の中山」と呼ばれていたものが、「名香山」あるいは「妙香山」と当て字されて妙光、妙高になったという説と、妙高山は別名須弥山とも呼ばれ、これはもともとサンスクリット語のスメールの音写で、その漢訳が「妙高山」「妙光山」という説がある。

豪雪地帯なので、建物の形が独特だ。1階がRC造の倉庫や車庫、二階以上に居住部分があり、屋根も殆どが切り立った落雪屋根となっている。
風土には適合しているのだろうが、決して美しいものではない。


20110910白田切川s-.jpg  20110910落雪建物s-.jpg


関山宿の関山神社は元関山権現で、関山宿自体がこの門前町だった。しかし町並みには古いものはあまり見当たらない。
妙高市と上越市の境の、上部だけ枝がある松の大木が珍しい。

20110910関山神社s-.jpg  20110910北沢一本杉s-.jpg


上越市に入ると、道路に融雪装置が備え付けられている。
この辺は消火栓も全て背が高く、あらゆるものが豪雪を前提として作られていて、表日本では想像出来ない冬の暮らしが思いやられる。

20110910散水設備s-.jpg


二本木宿の白山神社には石柱があり、「従是内、口附無之、小荷駄乗通るべからず、邑の内、咥きせる無用、二本木宿」と刻まれていると言うが判読できなかった。

珍しい現役のスイッチバックの駅となっている二本木駅は、レールを使った構造材と気の利いたピンクの色使いが美しい。
ここで打ち止めたが、黒姫からは殆ど下る一方で、日本海までなだれ落ちて行く気分がした旅だった。
日本海まであと僅か。

20110910二本木宿石柱s-.jpg  20110910二本木駅s-.jpg
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2011年08月25日

北国街道(その1:善光寺宿〜柏原宿)

北国街道は中山道の追分宿から、善光寺宿を通り高田城下を抜け日本海沿いに出雲崎に至る、230km程度の街道だ。

追分から善光寺宿までは善光寺街道とも言われ、ここは既に歩いており、今回はその先の150km程度を歩く旅になる。

何度か来た善光寺にお約束の道中安全を祈願してから、街道へ入る。善光寺の前の長野市道路原標から右へ曲がる道が北国街道だ。

20110705善光寺s-.jpg  20110705長野市道路元標s-.jpg


新町宿までには街道の雰囲気を残す建物も散見され、吉田神社では全国68箇所の一宮を境内に祀っている。
街道筋の街路灯には、北国街道の表示がされているのも心が和む。

20110705新町宿付近s-.jpg  20110705吉田神社一宮s-.jpg  20110705街路灯s-.jpg


田子池手前では明治天皇の巡行のために、わざわざ旧飯山城の裏門を移した御小休所跡がある。
この付近は二重化粧垂木を付けた家が散見された。津軽地方では格式の象徴のようだったが、長野ではどうだろうか。

20110705旧飯山城裏門s-.jpg  20110705化粧垂木s-.jpg  20110705田子池s-.jpg


夏の青さの宇佐美沢一里塚跡は、石の上の地蔵と無縁仏が仲良く。
この付近で、農家の方がリンゴの剪定を行っていて、一つのリンゴは葉50枚とか。
谷あいには忽然とバブル残骸と思しき造り掛け道路が現れる。車も走っていない道の何処と何処を繋ぐか。
この辺は標高も700mを越えて、善光寺平の景観が目を楽しませる。

20110705宇佐美沢一里塚跡s-.jpg  20110705リンゴ-.jpg  20110705建設途上の道s-.jpg

20110705善光寺平s-.jpg


一茶が15歳で江戸に奉公に出でる時に、父親と別れた場所と言う三本松。
 「父阿りて明本の見たし青田原」
この辺からは信越五岳が良く見える筈だが、あいにく雲の中。かろうじて、飯綱山の姿が見える。

20110705三本松s-.jpg  20110705三本松芭蕉碑s-.jpg  20110705飯綱山s-.jpg


道は下り始め、牟礼宿に入る。
町並みは古いものは殆ど残っていないが、近辺は鎌で有名で、昔の鎌問屋の山本家は卯建のある立派な建物。

20110705牟礼宿鎌問屋s-.jpg


枡形を左折し、十王坂を上ると十王堂がある。王と本地が示されており、合掌。

20110705十王堂s-.jpg


佐渡金山ゆかりの金附場跡を通り過ぎ、武州加州道中境碑を見る。加賀と江戸の中間地点と。
程なく小玉坂に入る。
北国街道唯一の山道とされる気持ちの良いこの峠道は、余計なお世話の「美しい日本の歩きたくなるみち500選」にも選ばれている。

20110705中間碑s-.jpg  20110705小玉坂s-.jpg


柏原宿と合宿の古間宿は鎌で有名。町並みは平凡だが一茶の碑等も増えてくる。

20110705古間宿s-.jpg


柏原宿は一茶の故郷で、諏訪神社に、一茶最古の句碑と言われる「松陰に寝てくふ六十よ州かな」
一茶の終焉の地の弟の屋敷や、一茶の像なども見受けられる。

20110705一茶句碑s-.jpg  20110705一茶弟屋敷-.jpg  20110705一茶像-.jpg


一茶もさることながら、道筋に戸隠三社へ参拝する古道の碑が残っており、これもかなり気掛かりなまま黒姫駅で打ち上げた。

20110705戸隠山道道標s-.jpg
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2011年06月20日

湯坂道

湯坂道は箱根の旧道で鎌倉古道。
箱根の道では碓氷道、足柄道に続き三番目に古く初めての箱根越えの道とされる。

十六夜日記の阿仏尼や伊勢物語の在原業平も通ったといわれるが、伊勢物語のどこかに記載があるのかは不明。

坂は上りたくなるが、今回精進池から下り始める。
この辺は箱根駅伝の最高地点で、登り坂を苦しみながら走り切ったランナーが下りの走法にギアチェンジして一気に転がるように走り下る転換点。

そしてこの池の周辺は賽の河原で、様々な石造物が残されており、「この山には地獄とかやありて、死に人常に人に行きあひいて」の世界を髣髴とさせる。

20110620精進池s-.jpg


六道地蔵の壁銘文には正安2年(1300年)と書かれており、平成4年の発掘調査までは下部座は埋もれていたとの事。復元された覆屋に収められており良いお顔の地蔵様だ。
十六夜日記の阿仏尼は弘安2年(1279)に出立しているので、その時はない。

20110520六道地蔵s-.jpg


精進池の周りに次々に石造物が現れる。
次は「宝篋印塔残欠 八百比丘尼の墓」なぜ八百比丘尼かこれも不明。復元されている。
「応長地蔵」、「多田満仲の墓」。

20110520八百比丘尼墓s-.jpg  20110520応長地蔵s-.jpg  20110520多田満仲の墓s-.jpg 


二十五菩薩。 みな良く残されていて美しい。
「曽我兄弟・虎御前の墓」などは、伝承としても何故ここに。

20110520二十五菩薩s-.jpg  20110520二十五菩薩2s-.jpg  20110620曽我兄弟墓s-.jpg


芦之湯で、再建された東光庵を見る。
茅葺屋根の上に草やアヤメが咲いており、いまどき珍しい「芝棟」となっている。
この庵は蜀山人、安藤広重、本居宣長も遊んだといわれ、敷地内には文筆に関する碑などが整備されている。
いまの庵主は中曽根康弘で、あちこちにあると思われる「くれてなお命の限り蝉しぐれ」の句碑がある。
昨年の「東光庵句会」では庵主として「長命を畏れかしこみ朴の花」と詠んだそうで、枯れてきた。

20110620東光庵s-.jpg  20110620芝棟s-.jpg  20110620中曽根康弘句碑s-.jpg
 

国道から湯坂道への入口に標識があり、最初は気楽なハイキングコース、鷹ノ巣山などを越えると石畳の道も現れ、結構歩きにくい。
この石畳は、旧東海道のものと違い、鷹ノ巣山付近のものは明治時代、浅間山から湯本に掛けての石もまだ新しいものは昭和期のもので、郵政省が敷設したケーブルの保護のために設置し、旅人のためではなかったようだ。
してみると阿仏尼は土の道を歩いたか。

20110620湯坂路標識s-.jpg  20110620浅間山s-.jpg  20110620湯坂路石畳s-.jpg  


鷹ノ巣山には秀吉の小田原攻めに備えた鷹ノ巣城跡があるというが、その城跡については位置、規模など不明の点が多い。湯本近くの湯本城跡は土塁を路がかすめている。

十六夜日記は「いとさがしき山を、くだる人のあしもとゞまりがたし。ゆさかとぞいふなる、からうじてこえはてたれば、・・・」と記されているが、湯本城跡からはその通りのきつい下りなり、阿仏尼の苦労が思いやられた事だった。

20110620湯坂路s-.jpg
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2011年06月14日

五日市街道(その2:砂川七番〜五日市宿)

砂川は、砂川闘争の結果立川米軍基地の拡張は中止されたが、その時の拡張予定地の土地買収の結果かあちこちに空地ひろがっている。

阿豆佐味天神社の手水鉢は、唐子が担いでおり珍しい。名工飯島吉六の作と。
この神社はここに祈願すれば、迷い猫が帰ってくるというで「猫返し神社」としても有名らしい。
不思議な社名だが、梓弓などの由来とか諸説あり特定されていないようだ。

20110504砂川空き地s-.jpg  20110504唐子の手水鉢s-.jpg


大山街道の碑が草に埋もれてある。

砂川村の名主だった砂川家の屋敷は街道に面した屋敷林の欅や、前庭の刈込みは見たことの無いような立派さだ。門の前には砂川分水すら引き込まれている。
明らかに自分のためというよりも、それを目にする人のためにも維持管理されている。

20110504砂川家樹s-.jpg  20110504砂川家前庭s-.jpg  20110504砂川家用水s-.jpg


再び玉川上水を渡り、殿ヶ谷新田あたりで電線の障害物扱いされ、惨めに刈り込まれた欅並木に遭遇する。
さらに行くと、横田基地に突き当たり大きく迂回させられる。青梅街道を歩いた時も迂回させられ、街道歩きの障害物。
この基地は年明け早々にフロストバイトというマラソンが行われ、アメリカンな雰囲気で走り初めにする人が多く、何度か行ったものだった。
全くアバウトな距離表示と、お楽しみの参加賞のトレーナーが懐かしい。

20110504欅並木s-.jpg  20110504横田基地1.jpg


福生市民会館前庭にある道しるべ。
「右江戸 左きよと」と彫られているが、何の説明もなく打ち捨てられている。

多摩川に近づき、河川敷の公園に石濱渡津跡の碑がある。横には牛浜の渡の標識。
牛浜の渡は、五日市街道の渡だが、石浜は太平記に出てくる古戦場でそれが牛浜ではないかという事らしい。

20110504道しるべs-.jpg  20110504牛浜の渡しs-.jpg


多摩川を渡り二宮宿に入るが、宿場の面影はない。
あきる野市の庁舎が無意味に豪華なのは、地方行政のいつものことだが空しさが募る。

あきる野市は秋川市と五日市町の合併で出来、市名は秋川市の主張する秋留と,五日市町が主張する阿伎留で決着がつかず平仮名の名前になったと言う馬鹿馬鹿しい経緯を持つ。

坂のかなたに、奥多摩の山々が見えてくる。
道を外れて秋川のほうへ下り、サマーランドの隣の六枚屏風岩をみる。

20110503あきる野市役所s-.jpg  20110503奥多摩の山s-.jpg  20110504六枚屏風岩s-.jpg 


武蔵五日市駅で打ち止めとしたが、街道は更に秋川沿いに檜原街道を名前を変えて続く。

この辺は街道よりも山登りで楽しみたい領域で、山岳レースの長谷川恒の下見で走った懐かしい山々を思いだす。
昔を振り返る事も多かった街道だった。


20110504武蔵五日市駅s-.jpg
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2011年06月09日

五日市街道(その1:梅里〜砂川七番)

五日市街道は梅里で青梅街道から分岐して、五日市宿までの43kmほどの街道。
江戸時代は伊奈道と呼ばれ、秋川谷で焼かれた炭荷を運ぶのに使われたという。
梅雨に入る前の足慰めで歩く。

地下鉄新高円寺駅前に「五日市街道入口」の信号があるが、本当の旧道はその少し先。
少し道を外れて慶安寺に寄り、前野良沢の墓を詣でる。解体新書のもう一人の翻訳者の杉田玄白の墓は中原街道沿いの虎ノ門の猿寺といわれる栄閑院にあり、ここも詣でたものだ。

成田東で鎌倉街道中道と交差する。この道は中道のバリエーションルートで大宮八幡から練馬城、赤塚城へと抜け昨年末に歩いた道で懐かしい。

20110503五日市街道入口s-.jpg  20110503前野良沢墓s-.jpg  20110503鎌倉街道s-.jpg


この交差点から鎌倉街道を少し北上すると、天桂寺。
杉並の地名は旧田端村の領主の岡部氏が、青梅街道に杉並木を作ったことに由来するといい、天桂寺に岡部家累代の墓が祀られている。
青梅街道を歩いた時の杉並木は殆ど記憶にないのだが。

20110503岡部氏墓s-.jpg


少し先から七曲といわれる道となり、善福寺川を越えて現道を縫うように九十九折に右に左にと続く。
さほど急な地形でもないので、その理由はわからない。

環八の手前に、真新しい五日市街道の碑がある。

20110503五日市街道碑s-.jpg


大宮前の春日神社には多くの力石がある。一つ一つに重さが彫られているのが珍しい。
大宮前という地名も大宮八幡からでなく、春日神社が大宮ということで、その後杉並区が大宮八幡の大宮との混同を避けるため宮前という略称に変更したと言うからややこしい。

20110503春日神社力石IMG_6578s-.jpg


少し行くと、屋敷林だった欅の伐採痕があり、その説明が個人によって紙に書かれている。伐採は昭和56年との事なのでもう、30年の昔だ。
この屋敷林の持主だった方は、伐採を惜しみ、それ以来延々と紙でここに由来を貼り続けているのだろうか。不思議だ。
街道で伐痕が残って解説が付いているものは、日光街道の七本杉位で珍しい。

20110503欅伐採痕s-.jpg  20110503欅の説明s-.jpg


吉祥寺付近になると、人の流れが増えてきて繁華街。今度は吉祥寺村の鎮守武蔵野八幡宮。
吉祥寺には吉祥寺という寺はなく、川越街道沿いの文京区の本駒込にある。
元々駿河台にあったものが明暦の大火で類焼し、寺自体は本駒込に移るが門前の人々の行き場がなく、新たな土地を求めてこの地に移り住み吉祥寺の地名を伝承したもの。
似た話は、神田連雀町と人見街道沿いの三鷹の下連雀にもあり、同じ明暦の大火で住民が神田から移り住んだ。

境内入り口に、井之頭弁財天への道標があり、あちこち流浪の旅をした後に、当初の場所に程近いこの位置へ戻って来たとの説明がある。
人の流浪と、道標の流浪。

20110503武蔵野八幡宮s-.jpg  20110503弁財天への道標s-.jpg


成蹊大学の欅並木が素晴らしい。樹齢100年で市の天然然記念物樹齢100年。
源正寺の市の天然記念物イヌツゲは意外と低木だが、樹齢300年。

20110503成蹊大学欅並木-.jpg  20110503源正寺いぬ柘植s-.jpg


武蔵野大学正門手前で、これからの上水の旅第一弾の千川上水が現れる。
正門横には大きな道標を兼ねた文字庚申塔があり「東江戸道」「左すな川道」と彫られている。

20110503千川上水s-.jpg  20110503文字庚申塔s-.jpg


境橋の手前に玉川上水から分岐する千川上水の取水口があり、「千川上水清流の復活」の碑が建っている。
この上水は、東京都の清流復活事業で平成元年復活したと。

20110503清流復活の碑s-.jpg


境橋からは玉川上水となり、気持ちの良い散歩道が延々と続き、ジョッギングコースにも絶好だ。
上水沿いは昔は桜の名所で、吉野と常滑から2000本の苗木を取り寄せて延々6kmに亘り、植えられたという。
植えた理由は風流ではなくて、桜は水の毒を消すということらしく、してみると隅田川もそうなのか。

江戸時代の補植の経緯を伝える「桜樹接種碑」があり「さくら折へからす」と彫られている。

20110503玉川上水s-.jpg  20110503桜樹接種碑s-.jpg


海岸寺の茅葺の山門は、美しいプロポーションで市の文化財。

20110503海岸寺s-.jpg


少し寄り道して、鎌倉橋へ。
ここを通る道は鎌倉街道上道で、ここも以前歩いた道。今日の二つ目の鎌倉街道。

立川市に入り、砂川十番から一番まで砂川という地名が続く道筋になる。ここは砂川闘争の舞台だが遠い昔の物語になった。

途中「江の島」という気に掛かる交通標識がある。本来の江の島道とは関係なく地区計画をした人が勝手につけたとの説もあり、それは迷惑なことだ。

未来的なデザインのモノレール駅がある、砂川七番で歩き終える。


20110503鎌倉橋s-.jpg  20110503江ノ島道s-.jpg  20110503砂川七番駅s-.jpg

歩き終わってみると、墓と寺と樹と水と、と言う五日市街道だったが、玉川上水の印象が圧倒的。
一度取水口の羽村から、四谷大木戸まで歩いてみようと思ったものだ。
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2011年04月10日

下田街道(その4:北の沢〜下田)

蓮台寺から箕作までバスで戻り、さらにそこから先は一時間ほど歩いて前回の終着地、北の沢にたどり着く。

石の上の溝が蛇の形で、そこに溜まっている水が枯れると旱魃になるという蛇地蔵。幸いなことに水は枯れていない。

20110410蛇地蔵s-.jpg  20110410蛇地蔵溝s-.jpg


街道は長閑な景色を楽しみつつ稲梓川沿いに進み、箕作(みつくり)に戻り着く。

箕作という地名は、謂れがありそうだ。
案の定、礪杵道作(ときのみちつくり=大津皇子の家来)が、大津皇子事件の際に朱鳥元年(686年)に謀反の罪でこの地に流罪となり、その後、居住したことが由来してついた地名と。
途中、道作八幡宮もあったようだが、立ち寄らなかった。
伊豆は源頼朝、日蓮や文覚など流罪の地だが、礪杵道作は伊豆の国へ流罪を受けた最初の人。1300年前の流刑人が地名に蘇る。

20110410長閑な風景s-.jpg  20110410箕作s-.jpg


箕作を抜けると、行基の開山とされる米山薬師がある。
日本三大薬師の一つと謳っているが、とてもそのような気配は見えず、残りは越後と伊予の薬師というがこれも諸説ある。

20110410米山薬師s-.jpg


この辺に、廻国塔や巡拝塔が多い。
廻国塔は全国六十六箇国を巡り大乗妙典を奉納、巡拝塔は西国・四国・秩父・坂東の観音霊場を廻った記念なのでいずれにせよ、気楽な街道歩きとは違った苦労が偲ばれる。

20110410廻国塔.JPG


下田に近づくと、唐人お吉が身投げしたというお吉ヶ淵に御堂と、お吉を悼んで新渡戸稲造が建てたお吉地蔵がある。新渡戸稲造が何故、お吉を殊更に悼んだのだろうか。

 から艸の浮名の下に枯れはてし 君が心は大和撫子

20110410お吉堂s-.jpg  20110410お吉地蔵s-.jpg


向陽院は枝垂桜が美しく、風待ちの港として栄えた下田に全国の船頭が安全を祈願したという夥しい地蔵が奉納されている。

20110410向陽院s-.jpg  20110410向陽院地蔵.JPG


下田富士を眺めながら、街中に入り、下田街道の終着点の「みなと橋」で旅を終える。

20110410下田富士s-.jpg  20110410みなと橋s-.jpg


お決まりの、ペリーの碑や吉田松陰にまつわる史跡、唐人お吉の墓や坂本竜馬由来を売り物にするあざとい宝福寺など見て散策。
稲田寺の安政の東海地震の犠牲者を供養する津なみ塚が、東日本大震災後だけに心に重く響き、下田駅前は休日にもかかわらず震災の影響で火の消えたような寂しさだった。

20110410ペリー記念碑s-.jpg  20110410宝福寺s-.jpg  20110410津波碑s-.jpg


流刑の地の歴史を背負った伊豆半島は、たおやかな自然とは裏腹に、震災の影響ばかりではない温泉地の衰退は見るも無惨で、その中を貫く下田街道に拡がる光景は、震災の前と後で季節の歩み以外は何一つ変化のある筈もないが、見る者の心は大きく揺らぎ、刻み付けられる記憶も変転する。

春の陽光にもかかわらず、どこか冷めやかに見える光景は、行く末も決して同じものではあり得ず、その時の心はどう移ろふか。

移ろいは「うつろひ」であり、うつろひは「虚ろひ」でもあり「空ろひ」だ。
小野小町は花の色はうつりにけりなと詠い、藤原定家は本歌取りをするが、どちらも「身はいたずらに」だ。

 たづね見る花のところもかはりけり 身はいたづらのながめせしまに(藤原定家)

いたずらにでも、移ろいを確かめに、まだ少し先に進んでみる。
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2011年04月04日

下田街道(その3:水生地下〜北の沢)

水生地下からは、渓流を離れ林道となる。
程なく水生地に至り、氷室園地がある。ここに川端康成の伊豆の踊子の碑。
また、ここは松本清張の小説の「天城越え」の舞台でもあり、氷室が復元されている。

ここから分岐する道を八丁池まで歩いたことを思い出す。昔々の物語。

20110404川端康成碑s-.jpg  20110404氷室s-.jpg


天城山隧道を越える。

 走り水 迷い恋
 風の群れ 天城隧道

20110404天城山隧道s-.jpg

 
隧道を過ぎると寒天橋。さらに見返すと二階滝。

 わさび沢 隠れ径
 小夜時雨 寒天橋

20110404寒天橋s-.jpg  20110404二階滝s-.jpg


国道を渡り返して平滑の滝を過ぎると、130年ほど前植林された見事な宗太郎杉並木。

20110404平滑の滝s-.jpg  20110404宗太郎杉並木s-.jpg


河津七滝の上流にある猿田淵に下る。
観光客は足を運びにくいところだが、河津七滝の遊歩道と繋げる工事が行われており、せっかくの良質な自然にとっては迷惑な事だ。

20110404猿田淵s-.jpg  20110404遊歩道工事s-.jpg


河津七滝、まず釜滝。高さはあまり感じないが、柱状節理が見事。

20110404釜滝s-.jpg


えび滝、へび滝、初景滝、かに滝、出合滝と続く。かに滝はどれがそれなのかよく分からない。
伊豆の踊子の像もご丁寧に二組ある。

最後の大滝は温泉旅館の敷地の中を下ってゆく。あまり近づけないので迫力は今ひとつ。

20110404えび滝s-.jpg  20110404へび滝s-.jpg  20110404初景滝s-.jpg

20110404踊子像s-.jpg  20110404出合滝s-.jpg  20110404大滝s-.jpg


滝見物のあとは、巨大なループ橋。
1978年の伊豆大島近海地震で山腹の道路が寸断されて、その対応として作られたということだが、ここまでこれ見よがしにした意味が全く不明。
土木設計者がやって見たかったと言う事だろうが、自然な抗うような構造物はいずれ天罰が下る。

小さな集落の川横区は、風情のある光景が見られる。

20110404ループ橋s-.jpg  20110404川横区風景s-.jpg


小鍋神社には、髑髏木なる樫の木がある。
文覚上人が源頼朝に決起を促すため父の義朝の髑髏を見せ、その後この地に埋めたという。

20110404小鍋神社s-.jpg  20110404髑髏木s-.jpg


湯ヶ野温泉を左下に見つつ、小鍋峠への道へ入る。
この峠は標高290mだが、天城峠以南の難所とされていた。

道は荒れていて、あまり人の踏み跡がない。
峠の標識は朽ちて倒れていたが、野仏へのせめてもの供養と思い立ち起こしてきた。

20110404小鍋峠への山道s-.jpg  20110404小鍋峠1s-.jpg  20110404小鍋峠2s-.jpg


峠を下り北の沢に入ると、ハリスが見たという楠の孫木がある。

20110404くすの木s-.jpg


ようやく国道へ出て、下田まで残りの距離は僅かだが、都合よく来たバスで、北の沢バス停から次回の予習をしながら下田に出る。
二つの峠と、多くの滝と、時代を経た樹々と、そして自然を恐れぬループ橋と言う醜悪な人工物を見た一日だった。
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2011年03月27日

下田街道(その2:修善寺〜水生地下)

下田街道の一回目から、この二回目までに東日本大震災があり多くの人々の生活や考え方に変化が起きた。
千年に一度の災害は、千年前にはなかった原発災害をもたらし、震災発生から二ヶ月経つと意図的な情報操作でニュースの頻度も減少しているが事態は多分一層悪化しており、日本が元の姿になるのにまた千年かるのかもわからない。

そういう重苦しい気持ちと関係なく、伊豆の空は晴れており、透き通る若葉はあくまで清明で、渓流も滝も爽やかに日の光を反照し躍動するように煌き流れていた。

修善寺を降り立つと、レトロな姿の伊豆の踊子号のボンネットバスに遭遇する。このバスも現在は伊豆半島への観光客の大幅な減少で運行が中止されている。

20110327伊豆の踊子号s-.jpg


修善寺温泉への道を分ける湯川橋。川端康成の「伊豆の踊子」ではここで、一高生が踊子たちと出会うのだが現代の踊子はもちろん現れず。
修善寺のある地域は伊豆市で、伊豆市の隣接した北は伊豆の国市とこの近辺も紛らわしく節操の無い市名が付けられている。

20110327湯川橋s-.jpg


国道や旧道を縫いつつ、街道は柿木橋へ。ここには狩野城と狩野派発祥の地の案内標識がある。
狩野氏は祖が土地の豪族狩野維景で、狩野派の初代狩野正信は維景の十六代の孫という。狩野派発祥の地とはやや誇大宣伝か。

20110327狩野城看板s-.jpg


すぐそばに狩野ドームがある、これも以前は天城ドームといっていた筈。多分新天城ドームが出来たのでお株を奪われたようだ。これは新参者に旧家が争いに負けた構図。

20110327狩野ドームs-.jpg


月ヶ瀬で賽の神を見かける。ここ以外にも賽の神は散見した。
行事としてのどんど焼きも賽の神というが、街道の賽の神は集落の出入り口に設置されており、道祖神は道の神で賽の神は疫病神などを防ぐ神とされるが区分はかなり曖昧だ。

20110327賽の神s-.jpg


嵯峨沢で明徳院に立ち寄る。
ここは東司の神様である烏彗沙摩明王を祀っている事で有名で、建物の一角に昔風の便器と男女性器とがあり、それぞれおまたぎしておさすりするとご利益があると。
山門の横に応永の槇があり、樹齢600年で全国第二位と伊豆市のHPには出ているが、古いには古いがどこにでもありそうな槇でこの情報も胡散臭い。

20110327明徳院s-.jpg  20110327トイレの神様s-.jpg  20110327応永の槇s-.jpg


川端康成も好んだ湯ヶ島温泉に入ると震災の余波で客足が減っていることもあるが、その寂れ方は尋常ではない。
市営の立派な建物の天城温泉会館は2年前から温泉客の減少で閉鎖されており、隣の夕鶴記念館も殆ど開店休業状態だ。

20110327湯ヶ島温泉会館s-.jpg


この町が井上靖のゆかりの土地であることは初めて知る。町歩きの案内板を兼ねた「しろばんばの里」の看板があちこちに出ており、井上本家の上の家も健在だ。

弘道寺にはハリスが宿泊し、その記念碑がある。
日本滞在記の文章が彫られ、富士のことを「・・・私が1855年1月に見たヒマラヤ山脈の有名なドヴァルギリよりも目ざましいとさえ思われた。」と書いているが、ハリスがヒマラヤ近辺まで行っていたとは知らなかった。ドヴァルギリなるダウラギリの方が目覚しいと思える。

20110327上の家s-.jpg  20110327ハリス記念碑s-.jpg


浄蓮の滝で初めて踊り子に出会う。石川さゆりの天城越えの歌の碑がある。

 あなたを殺していいですか
 寝乱れて 隠れ宿
 九十九折り 浄蓮の滝

20110327伊豆の踊り子像s-.jpg  20110327浄蓮の滝s-.jpg


浄蓮の滝の前から、旧道は「踊り子歩道」の看板が建てられている。
道筋には島崎藤村や横光利一の文学碑もあり、横光利一は小説の「寝園」にちなむものというが、知らない。

踊り子歩道標識s-.jpg  島崎藤村文学碑s-.jpg  横光利一文学碑s-.jpg

街道は国道と交差して道の駅「天城越え」を過ぎると滑沢渓谷沿いに進む。
途中でハリスや吉田松陰が歩いた二本杉峠への道を分ける。そちらのほうも魅力的だが、最終バスに間に合わないので天城峠への道をとる。

20110327滑沢渓谷s-.jpg


大川端キャンプ場付近で国道に出る上り口が見つからずに迷い、一つ先の水生地下のバス停まで歩く羽目に。
着いたときはすでに最終バスは通り過ぎ、歩いたり走ったりと悪戦苦闘して何とか出発点の修善寺まで戻りつく。

伊豆半島の踊り子歩道、侮りがたし。
posted by 遊戯人 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 下田街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする