2009年10月30日

水戸街道(その6:府中宿〜小幡宿)

府中宿で常磐線を渡る橋から、水戸街道の宿場のタイルが埋め込まれている。

一里塚のあたりからは、昔は杉並木で、確かに地名も杉並、杉の井とある。道は大名専用で旅人は並木の両側にあった側道を歩いたとか。
一里塚を眺めていると、土地の郷土史家のような人が丁寧に説明してくれた。

知らずに歩けば変哲のない県道だが、単なる県道にしては歩道が格段に広く、急に歴史が顕れる。

20091017街道タイルs-.jpg  20091017府中一里塚s-.jpg


竹原宿手前の行里川の集落は豊かな家が多い。この辺も果樹と園芸か。
休耕田のコスモスも眼を楽しませる。

20091017長屋門の家s-.jpg  20091017コスモスs-.jpg


片倉宿も、立派な旧家が多い。
この宿で街道は直角に折れるが、その角に昔の旅籠の「かど屋」が今も健在。

20091017片倉宿旧家s-.jpg  20091017かど屋s-.jpg


街道は六号線を縫うように進むが、水戸光圀が賞でたという千貫桜を過ぎると、巨大な道路工事が行われている。

20091017千貫桜s-.jpg

河川の改修工事にしては異と思いつつ、写真を撮らなかったのは残念だが、地元の人に聞くと来年開港する予定の茨城空港への高速道路とのこと。
国内線の就航の目処は全く立っておらず、自民党政権の無駄な公共投資の典型だが、北海道の熊しか通らないという高速道路と、閑散さを争う事になりそうだ。

前方に茨城県庁が見える奥谷で、早めに旅を切り上げた。
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2009年10月12日

水戸街道(その5:土浦宿〜府中宿)

前回時間切れで見れなかった、観光協会事務所となっている土浦まちかど蔵「大徳」を再訪。
江戸時代の呉服屋だが、見世蔵には商人の粋な遊びが、あちこちに仕掛けられていて見ていて飽きる事がない。。
普通は決して眼に入らない、床の間天井のねじれ竿縁なども驚嘆。
江戸っ子の、肩裏の粋にも通じるものがある。
障子の桟の意匠も凝りに凝って、欄間には近江八景が。

20090923ねじれ竿縁s-.jpg  20090923障子桟s-.jpg  20090923欄間s-.jpg

立派な観光資源だが、観光協会自体のやや冷淡な扱いが不思議だった。

繰り返される枡形を抜けると、鹿島街道との追分にある善応寺。昔から枯れた事が無く、土浦城にも引かれたという照井の井戸の名水を味見。甘露だったかどうか。

この辺は鎌倉街道も平行して走っており、何時か再訪したい所。

20090923照井の井戸s-.jpg


重文のゴシック風の旧土浦中学校本館(現土浦一校は)を見学。設計者駒杵勤冶。
今もエリート校らしく生徒が、躾正しく挨拶してくれるのには恐縮した。

20090923旧土浦中学校本館s-.jpg


足を進めると、水戸街道唯一残存という板谷地区の松並木。江戸時代のものではないようで、何代目か。
しかし道の上空を完全にふさぐ松は珍しく、切らないのは道路管理者の心意気。

20090923板谷松並木s-.jpg


中貫宿に入ると、水戸街道に三つ残るうちの一つの立派な門構えの本陣。
引き続き次の稲吉宿では、やはり残る本陣の一つの稲吉宿本陣。
旅籠皆川屋だった、木村家住宅の連子格子も健在だ。

この辺は果樹と植木の栽培で豊かな立派な構えの家が多く、国道から一本入った気持の良い道が続く。

20090923中貫宿本陣s-.jpg  20090923稲吉宿本陣s-.jpg  20090923皆川屋s-.jpg


これもまた、美しい名前の恋瀬川を越えると今は石岡の府中宿。
日本武尊命がこの川を渡ろうとした時、嵐が吹きおこり、相模の走水の海での嵐に、后の弟橘媛が自ら命に替わって入水し海を鎮めたことを事を思い起こし、彼女を恋慕する情のもと、川面を見ながら「君恋しい、君恋しい・・・」と呟いた事が川の名前の由来とか。

20090923恋瀬川s-.jpg

川面から見える筑波山の景色は、上代と変わろう筈もなく、さもありなん。


府中宿は昭和4年の大火で、古い建物は殆ど残存しないが、逆にそれ以降作られた昭和初期の看板建築の宝庫だ。登録文化財指定されたものも数多い。
丁子屋、福島屋、久松商店、十七屋、森戸商店など等。スケッチ心をくすぐるが先を急いで、国分寺へ。

20090923丁子屋s-.jpg  20090923看板建築s-.jpg  20090923すがやs-.JPG


常陸国分寺跡は、国の特別史跡に指定されているにも拘らず、意外と小さな寺域で、総国分寺の奈良の東大寺に次ぐ規模だったと言われる、昔の大伽藍の面影は全くない。
僅かに七重の塔の心礎の大きさが往時を偲ばせる。
伽藍の礎石らしいものはあまりにも小規模で、標識が一本づつ立つのみ。
礎石自体も往時のものかも不明で、現代からはその価値を見捨てられた寂しい常陸国分寺だ。

20090923国分寺七重の塔心礎s-.jpg  20090923国分寺s-.jpg


国分尼寺は、今まで訪れたものと異なり、かなり国分寺と離れて存在する。
こちらは渺渺たる風景の中、法華滅罪之寺の碑に古からの風が吹き付けていた。

20090923常陸国分尼寺s-.jpg
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2009年09月27日

水戸街道(その4:藤代宿〜土浦宿)

藤代宿から牛久宿へは曲がりくねった、かなり不思議な経路を辿るが、きっと昔は牛久沼がもっと大きくてその縁を通っていた道か。
その途中の若柴の金竜寺。一見変哲もない寺だが新田義貞の墓があるというので立ち寄った。
残念ながら、それらしいものは見つからず、後になって堂の裏手にひっそりと佇んでいたことを知る。
寺にも何の案内もなく、それも一つの見識だが、歴史上の有名人への扱いとしてはやや疑問。

この寺の昔の住職智雲が食後寝る習慣があって牛になり、恥じて沼に沈み、その沼が牛喰沼さらには牛久沼、というあまり有難くない由来もあるので遠慮しているのか。

牛久宿は小川芋銭の河童でも有名だが記念館はパスして、昔は牛久シャトーと言われた、シャトーカミヤに足を伸ばす。
シャトーカミヤの記事は→こちら

20090827金竜寺s-.jpg  20090827牛久河童s-.jpg


名前の由来が不思議な荒川沖宿では、屋根の曲線が美しい藁葺きの民家が残っている。中村宿を過ぎその名もゆかしい桜川を渡ると土浦宿。
彼方には筑波山も迎えてくれる。

 つくばねの峰よりおつるみなの川 こひぞつもりて淵となりける

20090827荒川沖民家s-.jpg  20090827桜川.JPG  20090827筑波山s-.jpg


枡形が多い土浦宿では、中城町付近に古い建物が集積している。
その活用も町おこしの一環に見受けられるが、かなり力不足だ。
平城で且水城の特徴を持つ土浦城を、思いのほか小規模な感を抱きつつ見物して、土浦を後にした。

20090827土浦町屋1s-.jpg  20090827土浦大徳s-.jpg  20090827土浦城s-.jpg
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2009年07月31日

水戸街道(その3:柏宿〜藤代宿)

柏神社を再訪して、繁華街を通り抜けると、街道には不釣合いな旧玉姫殿のマリアチャペル・マリベール柏。
結婚式のありようも変わったが、人生の門出でどちらが相応しいか、歩き始めからあらぬ事が気に掛かる。

20090725柏神社s-.jpg  20090725玉姫殿s-.jpg


我孫子宿では手賀沼に寄り道する。
この湖畔では大正年間に白樺派の志賀直哉、武者小路実篤、民芸の柳宗悦、陶芸のバーナード・リーチなどが集まって様々な活動が行われ、暗夜行路もこの地で執筆された。
志賀直哉旧宅の茶室なども残っており、また白樺文学館という小ぶりだが、白樺派のエッセンスの詰まった文学館もある。
文人達の一時代を想像する為に、脚を運ぶ価値が十分だ。

20090725手賀沼s-.jpg  20090725志賀直哉茶室s-.jpg  20090725白樺文学館内観s-.jpg


大利根橋で、風に吹かれながら坂東太郎を渡ると取手宿。

20090725利根川s-.jpg


高台には平将門が創建したといわれる長禅寺。
ここには日本一古いと言われるさざえ堂の三世堂があるが、残念ながら、内部を見る事は出来ない。

20090725三世堂s-.jpg


長禅寺のすぐ傍に本陣の染野家が修復され、公開されている。
茅葺のどっしりとした建物は、屋根が美しい曲線を描き、内部の土間の荒々しい小屋組みが対照的に剛毅な空間を作り出している。
単に格式を越えた佇まいがあり、何時までも後世に伝えて貰いたい建物だ。

20090725取手宿本陣外観s-.jpg  20090725取手宿本陣内観s-.jpg


街道には、江戸時代からの造り酒屋や、今は殆ど入手不可能な大判のレトロガラスを使った出桁造りの町屋が彩りを添える。
20090725取手宿酒屋s-.jpg  20090725取手宿町屋s-.jpg


町を離れると、藤代宿まで5kmほど全くの一直線の街道となる。
稲の緑が眼に優しいが、遮るものの無い、何処までも見通せる道は炎天下にはかなり辛い歩き旅。

20090725藤代への道s-.jpg


藤代宿では鎮守の相馬神社の祭礼だったが、祭りの賑わいは見られず、人の姿の殆ど見られない寂れ行く商店街が、陽炎の中ひときわ侘しさを感じさせる。
恒例の打上ビールも少しほろ苦い。

20090725相馬神社s-.jpg  20090725藤代宿s-.jpg
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2009年07月24日

水戸街道(その2:金町〜柏宿)

この日の街道は、神社仏閣三昧。
金町から歩き始めて、江戸のお囃子の発祥地と言われる葛西神社に詣でて、江戸川を葛飾橋で渡り松戸宿へ。

20090615葛西神社s-.jpg

葛西というと江戸川区だが、葛飾区は近世まで江戸川区の付近と合わせて葛西と言われていたのでややこしい。

葛西神社は土地の豪族葛西三郎清重が建立と言われているが、地名から名をとったようで地名が早い。

松戸宿には古い建物もちらほらと。

20090615松戸旧家s-.jpg


馬橋の萬満寺。
重文の仁王があり、この寺へ行くために街道の道筋が曲がっているが、明治時代、常磐線の機関車の煤火で主な建物が焼失という少し悲しい歴史も。

小金宿では、もと虚無僧で有名な普化宗の関東総本山の一月寺。
今は日蓮正宗に衣替えして、跡形も無く消え行く歴史。

20090615萬万寺s-.jpg  20090615一月寺s-.jpg


又お寺、東漸寺。
浄土宗関東十八壇林の一つで、赴きある参道の佇まいで、紅葉のころはさぞやと思わせる。
本堂前に鶴亀の松、鶴は枯れたそうだが亀は健在。

下屋が道まで張り出している、旅籠の玉屋は千本格子が美しい。

20090615東漸寺s-.jpg  20090615亀の松s-.jpg  20090615旅籠玉屋s-.jpg


道は北小金駅前の前で大きく曲がるが、これも昔は名刹があってそれに立ち寄る為の道曲がり。
いまは大型ショッピングセンターが作られて跡形も無く、歩道に水戸道中の碑のみが、埋もれていた。

20090615水戸道中碑s-.jpg


紫陽花と花菖蒲で有名な本土寺に脚を伸ばす。

昨年亡くなった住職の河上日順上人が、「寶樹花果多くして、衆生の遊楽する所なり」を実現する為、荒れ果てていた寺にモミジと紫陽花を植え続け一代で、紅葉と花の寺に作り変えた。

花菖蒲は終わりかけていたが、紫陽花はしっとりとした空気の中に七変化の色を味わわせてくれた。
花の色の裏側には、花を通じて何かを伝えたい人の心が見えているようだ。

20090615本土寺1s-.jpg  20090615本土寺2.jpg  20090615本土寺3s-.jpg

一本道を辿り、今は大都会となった柏宿で旅を終える。
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2009年07月22日

水戸街道(その1:千住宿〜金町)

近場の街道として手ごろな水戸街道。

日本橋から水戸までの117kmで、昔は二泊三日だが梅雨と夏の暑さの合間にのんびりと。

日光街道で親しんだ千住宿で、見逃していた金蔵寺の遊女供養塔に手を合わせ、鴎外の旧宅も確認。
遊女供養塔は童女と彫られているものも多く、涙を誘う。
馴染みの道を、角に碑が建てられている荒川手前の分岐から水戸街道に入る。

20090610遊女供養塔s-.jpg  20090610水戸街道碑s-.jpg


直ぐに槍掛けの松で有名な清亮寺。山門の中村不折の字が味わい深い。

20090610不折書山門s-.jpg


荒川に行く手を阻まれるが、川向こうには新築なった東京拘置所(旧小菅刑務所)が巨体を晒している。
蒲原重雄が設計し、表現主義の傑作と言われる旧館は保存されているものの、巨大な新館の間に挟まっていかにも肩身が狭そうだ。

20090610東京拘置所s-.jpg  20090610旧小菅刑務所s-.jpg


小菅では煉瓦工業が盛んで、小菅刑務所の前身の小菅囚治監で作られた煉瓦は、明治時代の銀座、丸の内の建物に大量に使用された。
その時のものか、小菅刑務所の塀として今も存在し続けている。
シジフォスの神話のようだ。

20090610小菅刑務所塀s-.jpg


綾瀬川を水戸橋で渡る。
水戸街道唯一の橋ということで水戸橋と名付けられたそうだが、他の川は全て船渡りか、徒歩渡りというのもやや頷けないところ。

20090610水戸橋s-.jpg


亀有上宿の一里塚碑が、かなり勘違いの黄門様のご一行と共に建てられている。

20090610亀有一里塚碑s-.jpg


新宿を過ぎて、柴又帝釈天へ寄り道し、矢切の渡しで江戸川を渡り埼玉県へ。
又取って返して東京都。
東泉寺南蔵院の縛られ地蔵、水元公園の今が盛りの花菖蒲は、少し街道を離れたが旅の道連れ。

この日は、寄り道づくしの水戸街道。
しかし寄り道が本筋に味わいを一層添えるのは、人生も街道も同じこと。

20090610柴又帝釈天s-.jpg  20090610縛られ地蔵s-.jpg  20090610水元公園花菖蒲s-.jpg
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2009年07月17日

出し桁造りの民家

街道:奥州(松前)街道
場所:津軽半島東海岸各集落

20090628出桁造り1s-.jpg  20090629出桁造り2s-.jpg


松前街道のあちこちで、軒先の母屋や垂木を突き出した出し桁造りの民家を沢山見かける事が出来る。
それも二重三重と重ねられ、構造的な意味から離れて過剰な装飾性を持っている。

あまり古いものは無い様だが、漁業で比較的裕福に見受けられる街道沿いの家々の、家道楽の表現なのか、それとも受け継がれた伝統なのか。
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2009年06月30日

禁断の奥州街道(エピローグ:龍飛岬)

旅の終わりは旅の始まり、感慨と共に早速次の旅に思いを馳せるのは、旅人の業でもあり本能だ。
奥州街道は三厩が終着点だが、「風の岬」の龍飛岬まで足を伸ばした。
これは、新しい旅の始まりだ。

司馬遼太郎が「街道をゆく―北のまほろば」に太宰治の「津軽」から本歌取りして、龍飛岬をこう書いている。

・・・江戸時代の千住を出発すると奥羽街道が、関東と奥洲をながながとつらぬき、ついに津軽半島にいたって松前街道と名がかわり、半島の先端の三厩村(竜飛崎)で尽きる。古街道としては、墨痕一筋というべき雄大さをもっている。・・・ 日本中の道という道の束が、やがて一すじのほそいみちになって、ここで尽きるのである。・・・

「街道を行く」全43巻の中でも、津軽の土地と奥州街道を、僅かな言葉で示しきった畢竟の名文と言える。

本歌である太宰治の「津軽」の
「ここは,本州の袋小路だ。・・・そこに於いて諸君の路は全く盡きるのである」の一文が刻まれた碑を見て、盡きた路から反転して、日本唯一の階段国道を上り詰めると、風の岬の名前に相応しい強風が迎えてくれる。

20090630竜飛港s-.jpg  20090630階段国道s-.jpg  20090630竜飛灯台s-.jpg

龍飛崎は龍が飛ぶかの如く、1年中強い風が吹いている事から名付けられたとも言われるが、まさにその通り。

チベットには空中歩行が出来る「風の行者」と言う修行僧がいて、矢の様に早く歩きながらも、無意識的に周辺の全てを捉え、そこに新しい意識状態が形成され、ひいては、世界についての考え方が変わる修行をしていると言う。

風の行者の域に辿り着けないが、また新しい旅を始め、歩くことを通じて、何時までも爽やかな風を感じていたいものだと、風の岬で海峡の潮の流れを見つめつつ思いを込めた。

20090630竜飛岬俯瞰s-.jpg
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禁断の奥州街道(その26:三厩宿)

三厩の街中を歩くと直ぐに、厩石公園になる。

ここは義経伝説があり、義経寺や厩石にその伝説が残る。
三厩の地名自体も、義経が蝦夷に渡るときに天候回復を祈念すると三匹の竜馬が現われ、それがつながれた場所と言うことで三馬屋と言われ、更に三厩に変わったという。
松前街道最終地点の碑がある傍には「源義経 渡道の碑」も建てられていた。

20090630松前街道碑s-.jpg  20090630義経碑s-.jpg  20090630義経寺s-.jpg 


これで五街道は完歩だが、特にこの奥州街道は800kmほどあり、その長さと共に道中の様々な光景、出会い、町々の持っている歴史等を思い出し、一際感慨深いものがある。

最終地点の碑は何処にでもある変哲のないものだが、旅の終わりの一抹の寂しさを感じながら、その前にしばし佇んだ。
 
20090630三厩宿s-.jpg
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2009年06月29日

禁断の奥州街道(その25:蟹田宿〜三厩宿)

津軽半島の奥州街道は、蟹田から今別までは鉄道と街道は全く離れるので、その間を一気に歩かねばならない。
「風のまち」の案内板を横目に、風のように足早に歩き出す。

蟹田町もご多分に漏れず、町村統合で町名は廃止され、外ヶ浜町になってしまった。
風のまちの交流プラザ、トップマストもなにやら侘しく改修中。

200906029トップマストs-.jpg 


平舘宿では、1847年オランダの捕鯨船員が上陸した事に端を発して、幕命で作られた台場が残っている。
道には出来ても、海に関所は作れない。

20090629平舘台場s-.jpg


淡々とした海岸沿いの道が続くが、突如として巨大なコンクリートの構造物が出現。石崎無線中継所。
NTTがマイクロウェーブで、北海道へ電話回線を繋いでいたときの遺物とか。
時代は変わり、海底ケーブルの設置で使命を終え、不思議な巨体を晒し続けている。巨大構築物マニアには喜ばれそうだ。

20090629海岸の道s-.jpg  NTT電波塔s-.jpg


今別町に入ると、岩屋観音、だるま滝、赤根沢のベンガラを採った赤岩、景勝の高野崎などがあり、見ものは海岸だけの単調な旅路を少し慰める。

20090629岩屋観音s-.JPG  20090629だるま滝s-.JPG  20090629赤岩s-.jpg 

20090629高野崎s-.jpg


アイヌ語由来か不思議な響きの袰月(ほろづき)集落では、伊能忠敬が二度の蝦夷地測量で泊ったという標柱がある。
第一次測量は、三厩まで23日間で歩ききっているので、測量しながらという事を考えるとその速さに驚く。

20090629伊能忠敬宿泊碑s-.JPG

伊能忠敬効果か、予定の今別宿を過ぎ、「風の岬へようこそ」と迎えてくれる三厩宿まで、軽々と歩き着く。
最終地点への僅かな距離を翌日の楽しみに取り置いて、風のまちから風の岬へ、寸止めでこの日を終えた。

20090629風の岬へ看板s-.jpg  20090629三厩駅s-.jpg
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