2013年11月25日

日光東往還(その2:野田〜境宿)

野田市役所脇を通る街道は16号線を越え、千葉カントリー野田コースの正門へ向かいゴルフ場を横切っていた。
ゴルフ場の敷地内に馬頭観音があり、街道の存在を示しており、棄却されなかっただけでも有難い。
ゴルフ場の敷地なりに再び16号線を越えて中里宿に入る。
西岸寺、満蔵寺などに庚申塔が大量に残されている。国道を作ったときに移設したのだろうか、例によって青面金剛が多い。

20131121ゴルフ場馬頭観音s- .jpg  20131121西岸寺庚申塔s- .jpg  20131121満蔵寺庚申塔s-.jpg


中里宿には宿場らしい風景は無く、僅かに米屋が古い建物で残っているが営業はしていない模様だった。
この店の前が名主の染谷家だが、面影は無い。

20131121平井米店s-.jpg


街道は珍しい地名の東宝珠花に入る。
宝珠は境界標を示すホウシ(傍示)の転,花は端で突き出した台地状の地形の鼻から来ているとも言われるが、ずいぶん持って回った説で怪しい。
西宝珠花は江戸川のを挟んだ向かいの埼玉県にある。

旧関宿町役場のいちいホールに、将棋の関根名人記念館が設置されており、見学。対局室も用意され、プロの棋戦も行われているようだった。
関根名人が揮毫した書が沢山展示されており、癖字だが良い字だった。

20131121関根名人記念館s-.jpg  2013112関根名人書s- .jpg  20131121対局室s- .jpg


ホールのすぐ傍に関根名人の生家があり銅像が建っている。
裏手の墓地に将棋の駒を模した記念碑と墓があり、墓には「覇王院伝棋道大成大居士」と刻まれており、物々しい。

20131121関根名人像- .jpg  20131121関根名人記念碑s- .jpg  20131121関根名人墓s-.jpg


この辺は千葉県の北端で、盲腸のように江戸川と利根川に挟まれたごく幅の狭い地域で、街道は江戸川に突き当たる。
江戸川は、護岸の緩傾斜工事が行われていたが、いくらでも理屈をつけて行われる公共工事の種は尽きない見本のようでもある。
宝珠花橋の際に高瀬舟のモニュメントがあり、何の説明もないが、この地域が河川交通で栄えた土地あることを偲ばせている。

20131121江戸川s-.jpg  20131121高瀬舟s-.jpg 


ライオンズクラブが建てた「日光東街道の松並木について」と言う碑があり、この道が「五街道其他分間見取延絵図」で関宿通多功道と記されていることと、松並木を復活させるために若木を補植したたことが説明されている。
この街道は、行政からは冷淡に扱われているが、地域にこういう取り組みがあることはまだ捨てたものでもない。

20131121松並木s-.jpg


しばらく歩くと県道から旧道に別れ、そこには「旧日光街道東往還関宿多功道」と言う看板があり、詳しい説明がされている。
この旧道沿いの旧家らしい家に関宿城埋門が移築されている。千葉県で城の構造物が残されているのは関宿城のものが二つあるだけで、これはその一つで貴重なものらしい。
なぜそれが私有物となっているかは、記述がなかった。

城下に入るもう一つのルートが江戸川沿いにあり、そちらが大手門に通じており本道というが、時間の余裕がなく省略。

20131121街道説明版s-  .jpg  20131121埋門s- .jpg


関宿出身の終戦時の総理大臣だった鈴木貫太郎記念館があるが、関宿城博物館に先を急ぐ。
江戸川と利根川の分流点の台地に立つこの博物館は城を模した復元もので場所も異なっているが、周辺の景観とよく調和している。
何とか日の入る前にたどり着き、意外なことに南は富士、北は日光白根、男体山、女体山が、北東には筑波山が夕暮れの中にシルエットを見せて目を楽しませる。

20131121関宿城.JPG  20131121関宿城1s-.jpg  20131121富士.JPG


普通なら、ここで歩き終わるのだが、千葉県の先端のここは交通が陸の孤島。
既にバスは無く、やむを得ず利根川を渡って茨城県に入り次の宿場の境宿で歩き終えた。

20131121境大橋s-.jpg
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2013年11月19日

日光東往還(その1:南柏〜野田)

日光に通じる街道を日光街道、日光例幣使街道、壬生道、御成道と歩きこれが5つ目の日光への街道になる、
日光東往還は、水戸街道の南柏付近の追分から分岐して、石橋宿と雀宮宿の間で日光街道に合流する。行程は80km程度と近場の街道としては手ごろな距離だ。

南柏で6号線との交差点に「旧日光街道入口」の交通標識がある。
この辺は幕府の馬の放牧地の小金牧の一部で、水戸街道との分岐付近にも新木戸というバス停がある。
地名は町村合併などで昔日の名前を残していないものも多いが、バス停や道路標識で街道を確認出来る事は少なくない。

20131113旧日光街道標識s-.jpg


街道沿いの稲荷神社に豊四季開拓百年記念碑があり、明治維新後の失業・窮民対策としての原野開拓の歴史が記されており、今は初富から始まって、二和、三咲、豊四季、五香、六実、七栄、八街、九美上、十倉から十余三まである町々がその美称と裏腹に苦難の連続であったことが知れる。

街道沿いはあまり見るべきものがないが、流山おおたかの森駅そばのきらら公園に一里塚の碑があり、これはと思わせた。
しかし説明を見ると、付近に一里塚があったと言う史実はないが、それをイメージした築山を造ったと書かれている。造るのは結構だが、誤解を招きそうだ。

この公園には放射能測定数値の掲示があり、福島以外ではすっかりニュースから消え去っている原発事故や放射能のことを改めて思い出させる。
柏、流山、松戸、三郷は高濃度放射能汚染があったホットスポットとして知られるが、報道されなくなったからといってその事実が消えた訳ではなく、事故の影響は今も深く進行している。他の多くの公園でも測定数値が掲げられていた。
除染した土壌は国による最終処分場が決まっておらず、多分公園敷地内に暫定的に埋められているだけのようだ。解決には程遠い。

20131113豊四季記念碑s-.jpg  21131113一里塚s-.jpg  20131113放射能測定値s-.jpg  


常磐道と交差する橋が「日光街道大橋」と言う名称で、傍らの公園の名前が「日光橋公園」となっている。
道路公団の手にかかると、日光街道の本街道も脇往還のこの東往還も一つの日光街道になってしまう、

20131113日光街道大橋s-.jpg  20131113日光橋公園s-.jpg


先ほどのきらら公園付近や、江戸川台駅手前に見事な枡形があるが、城下町でもないのになぜ枡形なのかはよく分からない。野馬土手を避けるためとか、村境がそうなっていたとか諸説あるようだ。
江戸川台駅を過ぎて流山街道と合流する手前にまた枡形があり、「旧日光街道」と記されたこの街道で初めて見かけた説明版がある。
街道自体の存在証明を探すことも、興味の対象になる。

20121113旧日光街道説明版s-.jpg


歩道上に道標を兼ねた立派な青面金剛塔があるが、何の説明もない。この辺はずっと流山市だが、こういう史跡に全く無関心なようで、行政の姿勢がうかがわれる。

お雇い外国人のムルデルによって明治23年に開削された、利根川と江戸川を結ぶ利根運河を越え流山市から野田市に入る。
利根運河というものも知らなかったが、陸上交通網の発達によって昭和16年に政府に買い取られて使命を終えた。

運河の前の道端に、福の神と彫られたビリケンさんがいる。
アメリカから日本に渡来して、通天閣のものが有名だが、関東で見かけたのは初めてだ。

20131113青面金剛塔s-.jpg   20131113利根運河s-.jpg   20131113ビリケンさんs-.jpg


この街道の最初の宿場の山崎宿に入ると、民家の塀の一部に良いお顔の地蔵が祀られているが、説明が見当たらない。
その先に立派な塀を持った、いかにも旧家らしい家がある。
本陣の吉岡家の前の歩道には、木製の常夜灯が残っているがこれも説明が見当たらない。

20131113地蔵s-.jpg  20131113旧家s-.jpg 20131113木製常夜灯s- .jpg


花井神明神社には青面金剛の庚申塔が林立している。この街道には、由緒正しい青面金剛が多い。

20131113青面金剛s- .jpg


街道を離れ、野田のキッコーマンで有名な醸造家の茂木家が屋敷が集まる地域に寄り道。
これらの屋敷は公開されていないが、明治から昭和にかけての様々な塀や建物の外観だけでも楽しめ、醸造家が設立した興風会館と言う建物も興味深かった。

20131113茂木家1s-.jpg  20131113茂木家2s-.jpg  20131113興風会館s-.jpg


ジャスコが経営している「もりのゆうえんち」が街道沿いにあり、場違いな巨大な観覧車が回っている。それに乗れば利根川が見えるだろうか。
この辺から、野田市役所に掛けて街道右側には昔ながらと思わせる林が続き、かなりの長さで野馬土手が残存している。野馬土手に関しては水戸街道沿いのあちこちでも説明板があったが、これほど明確なものを見たのは初めてだ。
いかにもバブルの残骸と思われる野田市役所の前に、野馬土手の説明と少し所在なさげに掲示されたに日光東往還の説明板があった。流山市の単に「旧日光街道」と示されていたプレート比べれば的確な説明だ。

20131113観覧車s-.jpg  20131113野馬土手s-.jpg  20131113街道説明版s-.jpg


日暮れも早く、野田で寄り道をしたこともあり距離は少なめだが、愛宕駅で歩き終える。
posted by 遊戯人 at 21:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日光東往還 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月07日

秋葉街道(その1:相良〜掛川)

少し前に塩の道の一つの杖突街道を茅野から南行したが、今回は南の相良から北行してみた。
ここは家康の頃から塩田が奨励されていたと言うが、遠州灘沿いには塩田の適地になりそうなところが数多く、なぜ相良が塩の道の出発点になったのかはかなり謎だ。

相良は相良藩があり有名な田沼意次も藩主となり築城したが、意次の失脚後城は破却されていて見当たらない。
本丸跡は牧之原市資料館があるが、パスしてまずはスタート地点へ。

街道の起点には塩の道の碑があり、この碑はこれから先も街道の要所要所に建っており旅の道連れとなったが、モニュメント的意味合いでなく、もう少し情報を加えてもらえば有難かった。

市街地の街道沿いには、塩の道案内所もあったが、平日なので資料や人は見当たらない。

園坂から見返すと茶畑越しに相良の町並みと太平洋が見え、なにやら巨大な建築物が見える。
これは萩間川相良水門で、水門には全く不必要な立派な屋根がついており、公共事業いの無駄使いの典型がこのようなところにも見受けられる。

20131030塩の道起点s- .jpg  20131030塩の道案内所s-.jpg  20131030園坂からの見返しs- .jpg


平坦な牧之原台地を一直線に進んでゆく街道は、一面の茶畑しか見当たらない。牧之原台地自体が明治以降の新興開拓地なので当然ながら由緒ある社寺は殆ど存在しない。

街道の迷いがちな分岐点には、「秋葉道・塩の道踏査研究会」と記された案内標識があって心強い。
しかしこの標識の矢印が曲者で、見る位置によってどのルートを示しているのか曖昧な事も多く今回は助けられもしたが、かなり悩まされもした。
これが秋葉山を過ぎて逆方向からも付いているだろうか。

また、真新しい小ぶりな塩の道の石碑も要所要所に設置されている。これは裏面に「平成十年度小笠町郷土研究会」とあり、色々な研究会が競っている。

20131030台地上の道s-.jpg  20131030案内標識s-.jpg  20131030塩の道石碑s-.jpg


これだけ標識があっても何故か、道迷い、
謂れありげな名前の塩買坂を過ぎてから、塩の道踏査研究会の案内標識に従って茶畑の中の旧道に入ると道筋が不明となり、掛川までの数少ない寺の名刹正林寺を見落としてしまったのは悔やまれる。

杉森と言う場所にある応声教院は、山門が重文だ。
境内には雑多な石像が多数あり、酒樽を模した堂の中にのんべえ地蔵なるものもある。
これと同じようなものを秩父巡礼の札所十六番西光寺でも見かけたが、そちらは大黒様、こちらはお地蔵様。
梵鐘の龍は、その両眼は純金、爪と牙は純銀で日本唯一との説明があった。

20131030応声教院山門s-.jpg  20131030のん兵衛地蔵s-.jpg  20131030応声教院鐘s-.jpg 


あちこちで幟立てに木の枝を差しているものを見かけたが、どういう風習だろうか。

20131030幟立てs-.jpg


家康が掛川城攻めのときに陣地にしたという陣場峠へ茶畑の中を上ってゆくと、ようやく掛川市街を見下ろすことが出来る。
峠を下り、キリシタン灯篭のある大日寺を過ぎる頃は日もとっぷりと暮れ、刻まれているのがマリア様か如来かは定かでなかった。

20131030陣場峠 (2).JPG  20131030キリシタン灯篭s-.jpg  20131030大日寺s-.jpg
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2013年09月12日

杖突街道(その1)

塩の道は、相良、掛川から塩尻までの南塩、塩尻から糸魚川までの北塩とその距離も350kmに及び、派生しているルートも多く興味津々の街道だ。

しかし何せ、足の便が悪く、一筋縄では行きそうに無い。
取っ掛かりとして、塩尻から南下する塩の道の一部として、茅野から高遠までの杖突街道を歩いてみた。

杖突街道の入口は諏訪大社上社本宮と前宮の間にあり、道標がある。
道標には「従是北 高島江 一里二十丁 東 金沢宿 二里ニ丁 南 御堂垣外宿二里二十丁」と刻まれている。
高島は甲州街道の上諏訪の高島、金沢宿も甲州街道だ。
南に向かう杖突街道は、高遠の御堂垣外宿を通る。
二里二十丁は意外と近いが杖突街道はバス便も何もないので、今日は行っただけ戻らなければならない。何処まで行けるか。

20130910杖突街道道標s-.jpg


高部遺跡や塚屋古墳を過ぎると、道は下馬沢川沿いの道となり、急な上りが続く。
諏訪はフォッサマグナの糸魚川・静岡構造線と中央構造線が交わり、杖突峠までの登りは正に中央構造線沿いに登って行く。
登り口の標高は770m、杖突峠は1,247mなので標高差は500m弱にもなる。近くの中山道の塩尻峠は標高は1,050mなのでそれを遥かに上回る。

小袋石が森の中にあり、小山のような巨石の姿だ。
磐座信仰遺跡の一つという説明書きがあり、別名舟繋ぎ石とも言い、古代の舟繋ぎ石として言い伝えられていると。確かに頂上部が舟を繋ぎやすい形のようだ。
このような山中に舟繋ぎ石も不思議だが、太古は諏訪湖の水は標高900m付近まで水を湛えた巨大湖で、その一部が決壊して縄文の頃は標高800m程度の水面になったと言う。
巨大湖は石器時代以前の先住民もいない太古の時代で辻褄は合わないが、ロマンのある話。
ミシャクジ神やら、守矢氏やら、何があっても不思議と思われない諏訪では、何となく納得してしまう説明だ。

20130910小袋石-.jpg


街道は数箇所分岐があるが、勿論何の標識も出ていないので紛らわしい。
所々に小さな祠や、苔生した石碑があり、街道だと確認できる。

20130910杖突街道1s-.jpg  20130910小祠s-.jpg   20130910石碑s-.jpg


道は川の源流を過ぎると、大曲、七曲という方向感覚が狂う曲がりくねった道筋となる。
眺望は殆ど無いが、一箇所だけ茅野方面を見下ろして八ヶ岳が遠望できる地点がある。

20130910八ヶ岳遠望s-.jpg


街道は程なく国道152号線に合流し、杖突峠に達するが何の標識も無い。
峠を越えると伊那市の高遠になり、杖突街道の標識が初めて現れる。

古屋敷に入ると、今度はまた小袋石が現れた。
説明には『四丈四方(12メートル四方)の袋形をしていることから「小袋石」と言われている。』と書いてあったが、せいぜい1.2mくらいの石で四尺四方の間違いだろう。

20130910杖突街道碑s-.jpg  20130910高遠小袋石s-.jpg


古屋敷に守屋神社があり、蘇我馬子と争って破れた物部氏の落人が定住し物部守屋を祀った神社という。
古屋敷自体が物部氏の居住地で、守屋山もあり、諏訪の神長官守矢氏と関係があることも間違いない。
この辺の絡み合いは、複雑怪奇で街道歩きの話題としては悩みが多すぎる。

20130910守屋神社s-.jpg


この先も面白そうだが、バスもないので、ここから戻る事にする。
4月の桜の頃だけバスが運行されるので、歩き継ぐのはその時だろうか。

152号線で茅野まで戻ったが、信州三大展望と言われる峠の茶屋から見晴るかす、八ヶ岳から塩尻峠までのパノラマビューが素晴らしい。
日本武尊が杖を突いて休んだ事から杖突峠と名付けられたというが、日本武尊もこの景観を楽しんだだろうか。
山に挟まれた地形を眺めると、太古の時代は巨大な湖があったことも間違いないように思われる。

国道を下ってゆくと細い脇道があり、「古代の交通路こかい峠口」の説明板と石碑がある。
説明板には、この道は古代の東山道で「こかい」は「小飼」とも「小海」ともいわれ、坂上田村麻呂や伝教大師も通ったと書かれている。
隣には比較的古い石碑があるが、「志つか雲山一夜道」と刻まれている様に見え、東山道とは無関係のようだ。

20130910峠の茶景観s-.jpg  20130910東山道碑s-.jpg


縄文人、出雲族、大和族、物部氏、守矢氏、東山道と慣れぬ歴史で混乱しながら、歩き終えた。
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2013年08月14日

初期中山道

現在の旧中山道は、下諏訪宿から木曽に出るには塩尻峠を越えて塩尻宿を経由するが、中山道開設時にはそのルートより南側の、小野峠(三沢峠)、小野宿、牛首峠を通る道筋が中山道となっており、1601年から1613年までの間利用された。
これを通称初期中山道と言っており、下諏訪から木曽桜沢まで全長20数キロで気軽に歩くには手頃な距離なので辿ってみた。

本筋は下諏訪宿の追分からだが、少し省略して岡谷からスタート。
ここには金唐紙などで有名な重文の旧林家住宅があるので、それを見学してから街道へ。

街道は県道の一筋上を辿るが、あちこちに石造物が多く、程なく江戸より五十七里の三沢一里塚。
桜沢までに4つの一里塚がある。

20130807林家住宅s-.jpg  20130807御嶽社横石造物群s-.jpg  20130807三沢一里塚s-.jpg


小野峠へまず結構急な坂を上るが、振り返ると富士が見える。
塩尻峠へのルートは、峠へ上り詰めるまでは諏訪湖、八ヶ岳、南アルプスそして勿論富士も見え、上り詰めたら西に北アルプスの眺望も楽しめるのだが、こちらの初期中山道は景観の楽しみは殆ど無い。
塩尻峠は標高1055m、小野峠は標高1075mなので僅かに高い。

20130807富士遠望s-.jpg


林道の分岐に、万治の大仏に似ているという石がある。要所要所には初期中山道の案内標識が設置されて心強い。
真新しい堰のところで舗装路は消滅し、その先は踏み跡の殆ど無い荒れた草藪の道になる。肝心のこの部分には標識が無く、正しい道かどうかとかなり疑心暗義。

20130807宿返しの石s-.jpg  20130807草藪道s-.jpg


程なく切通しの小野峠(三沢峠)に着くが、中部北陸自然歩道の標識があるだけで肝心の峠の掲示が見当たらず、注意しないと通り過ぎてしまう。
街道と直交するこの中部北陸自然歩道を少し上ると、三郷の辻があり、ここに夫々の村の方向を向いて建てられている三つの小さな石祠がある。
峠からほんの少し下ると塩嶺王城パークラインに出て、初期中山道の案内看板と旧中山道小野峠の碑がある。さらに下ると入会地の分割を記しているという楡沢の割石。風化していて読めない。

20130807小野峠s-.jpg  20130807三郷の辻s-.jpg  20130807楡沢の割石s-.jpg


天然記念物のシダレグリ自生地があり、白骨化した樹形が緑の中で一際印象的だ。
周辺はしだれ栗森林公園となっており、色々な施設が散在している。
くぼみの水が絶えると雨が降ると言われる、日本武尊縁の沓掛石が道端にある。
快晴だったが、水が溜まっていた。

五十八里目の楡沢の一里塚は両塚が残っており、本来の道筋を見ることが出来る。

20130807シダレ栗自生地s-.jpg  20130807沓掛石s-.jpg  20130807楡沢の一里塚s-.jpg


単に石が基壇上になっているだけの、珍しい様式の富士塚がある。
登ってみても、勿論富士は見えないが、方向は合っているのだろう。

20130807富士塚s-.jpg


小野宿に入ると本棟造りの町並みとなり、立派なスズメおどしのある県宝指定の旧小野家住宅や、現役の小野酒造店などの豪壮な家が残っている。旧小野家住宅は年に数回は内部公開されているようだった。
小野宿は塩の道の一つの伊那街道の宿場でもあるので、今度は南北方向の街道も気掛かりだ。
南塩終点の地の真新しい碑があった。

20130807小野家住宅s-.jpg  20130807小野酒造s-.jpg  20130807南塩終点の碑s-.jpg


小野宿を横切ると、牛首峠への緩やかに上る長寛な道になる。田畑はイノシシの被害がひどいらしく、高圧電流を流しているところが多かった。
五十九里目の飯沼塚原の一里塚跡の碑が畑の際に建っている。
石造物も相変わらず多く、石祠型の珍しい庚申石祠がある。

20130807長寛な道s-.jpg  20130807飯沼塚原一里塚跡s-.jpg  20130807庚申石祠s-.jpg


道筋に屋号入りの蔵が多いが、屋号を妻壁のセンターに、何故か窓をセンターから外すのがこの辺の流儀らしい。

20130807蔵s-.jpg


飯沼集落を過ぎて牛首峠への峠道から振り返ると、夏草の中に遥かに富士が見える。
峠手前に前山の一里塚、牛首峠の名前の謂れの牛首塚がある。
峠には、中部北陸自然歩道のそっけない標識があった。

20130807富士遠望s-.jpg  20130807牛首塚s-.jpg  20130807前山の一里塚s-.jpg


峠を過ぎると、沢沿いに林道をひたすら下り、桜沢で木曽側の中山道と合流し、終着点の日出塩駅へ。
日出塩駅前を通っている中山道は丁度10年前に歩いているが、勿論記憶から綺麗に消え去っている。
駅前に勿論何も無く、打ち上げビールは御預けに。

20130807牛首峠からの下りs-.jpg  20130807日出塩駅s-.jpg


ところで、中山道は開設者の大久保長安が亡くなった翌年1614年に、初期中山道から塩尻峠のルートに変わったが、その理由として説明看板などでは二つの峠越えで、谷川沿いの難路であったからと記されている。
しかし、そればかりではなさそうだ。
難路が理由なら、1696年に標高1522mの地点を通る木曽谷と伊那谷を結ぶ権兵衛街道が、開削された事などの説明が難しい。
こういうものは、物資の運搬の容易さなどもさることながら、結構ルートからの眺望なども大きな要素ではないか。
塩尻ルートは諏訪湖が眼下に見え、塩尻峠では八ヶ岳、富士、さらに北アルプスの闊達な景色が楽しめるが、初期中山道は、眺望が開ける所は殆どない。
風景も打上げビールと同様に、街道の楽しみの大きな要素なのは今も昔も変らない。

来年は中山道の街道ルート変更400周年と言う事で、関係市町村の下諏訪、岡谷、塩尻で合同で記念事業が計画されているようだ。
旧中山道と初期中山道のどちらがメインなのか分らないが、歩き終わって初期中山道にもスポットが当たれば良いと思った事だ。

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2013年07月02日

北国街道(その6:鯨波宿〜出雲崎宿)

街道は、鯨波駅の横の坂を上って行く。この坂が戊辰戦争の激戦地となった嫁入坂らしい。
直ぐに御野立公園。戊辰戦争の東軍の司令部が置かれ、明治天皇が巡幸の折、野立をしたところ。

柏崎宿手前で、日蓮が赦免され佐渡から無事着岸した事を感謝して、三十番神を祀ったという彫り物が見事な番神堂に立ち寄る。
三十番神という神を知らなかったが、神仏習合のもので日蓮宗では特に熱心に信仰されたらしい。
堂の裏手からは、日蓮が着岸したという岩場に木の標識が立っているのを見下ろせる。

20130702御野立公園s-.jpg  20130702番神堂s-.jpg  20130702日蓮着岸の地s-.jpg


柏崎宿は良寛の弟子となった貞心尼の縁のものが多い。剃髪の地と言われる閻王寺の跡は順之木稲荷神になっている。
街道沿いに喬柏園という、由緒がありそうな施設があった。土地の方に伺うと昔の公会堂で今は市民施設として使われているという。
十分な維持管理がされている気配はなく、調べて見ると国の登録有形文化財にもなっているが、その標識も解説も見あたらなかったのは残念だ。

20130702閻王寺跡s-.jpg  20130702喬柏園s-.jpg  


昔は街道の中央にあったという、ねまり地蔵。明治天皇の巡行の折りにこの場所に移らされた。
「ねまり」とは「根埋」で、「昔市街の中央に南向して立てり半身土中に埋もれたるを以て「根埋地蔵」と名付く」と言う事らしい。
これと対の物が、すぐそばにある立地蔵。実際は地蔵でなく薬師三尊と。
二つとも大きな地蔵で、しかとは判別できないがおおらかさを感じられる。

20130702ねまり地蔵s-.jpg  20130702立地蔵s-.jpg


ふるさと人物館の前に移設された道標が二本ある。補強された古い方は「右 三国街道 小千谷十日町道」「左 奥州道」、三国街道も現れてきた。もう一本は新しい。
田中角栄は西山町出身で今は柏崎市なので、この人物館にも当然展示されているのだろう。

20130702ふるさと人物館庭道標s-.jpg


ソフィアセンターという図書館敷地に貞心尼の像がある。御付の犬もいて、どういう縁なのだろうか。
この像は遠く、良寛の故郷の出雲崎のほうを向いているという。
ここには貞心尼の「蓮の露」の直筆本があるが、まだ開館時間前で見れないのは何時もの事。
貞心荷の辞世の歌は、
 来るに似て 帰るに似たり おきつ波
               立ち居は風の 吹くにまかせて
良寛との相聞の下の句の「あきらかりけり君がことのは」の本歌取り。こういう世界もある。

ソフィアセンターはRIAの設計で、かなり異質の外観だ。
柏崎市は言わずと知れた東電の柏崎刈羽原発が立地して、その電源開発交付金で様々な整備が行われており、1978〜2009年度の32年間に柏崎市にもたらされた原発財源の総額は2,364億2,480万円にものぼるという事だ。
この図書館も交付金で作られた箱ものの一つ。その他にも柏崎市には金に飽かせた珍妙な博物館が多いらしい。

20130701貞心尼像s-.jpg  20130701ソフィアセンターs-.jpg


市内の路地の気の利いたペイブや、メインストリートのアーケードの柱が御影石で覆われていたり、ストリートファニチャーが多かったりと、あれもこれも原発のおかげだろうか。

20130702柏崎ペイブs-.jpg  20130702ストリートファニチャs-.jpg  20130702柏崎アーケードs-.jpg


宿場の外れに閻魔堂がある。
中越地震で向拝は倒壊したが、堂内部の閻魔様や十王は何の被害も受けずに無事だったという。向拝は真新しく復旧していた。

柏崎市は越後バスが走っているが、どうも東急バスに瓜二つと思ったら、昔は東急グループだったと云う事で、東急の中古の車両も沢山現役で走っているからという。なるほど。

20130702閻魔堂s-.jpg  20130702閻魔堂内部s-.jpg  20130702越後交通s-.jpg


鯖石川に昔悪田の渡しがあり、安政年間に安永橋が架けられた。
「柏崎から椎谷まで間に荒浜、荒砂、悪田の渡しがなきゃよかろ」と唄われた。
現代の安政橋の袂に田中角栄が揮毫した渡しの碑がある。意思の強い筆致だ。

20130702安政橋s-.jpg  20130702悪田の渡し碑s-.jpg


荒浜砂丘に植林された松林を見ながら単調な道を歩くと、東電の原子力や放射能の広報施設のアトミュージアムがある。
館内に入ってみると誰もおらず、職員も手持ち無沙汰のようだった。
街道は再稼動で紛糾している東電柏崎刈谷原発に突き当たり、大きく迂回する。
迂回地点に温排水資料展示館があり、屋上から刈谷原発の6本の煙突が遠望できる。

20130702アトミュージアムs-.jpg  20130702刈谷原発s-.jpg  


道の傍らに広報施設の子供を対象とした東電サービスホールがある。上階からは刈谷原発の展望施設もあるが、館内に利用者はいないようだった。
敷地全域に張り巡らされたフェンスや、侵入防止の有刺鉄線がものものしい。
長い迂回路を終えて、ようやく海に出る。振り返ると原発越しに二本木宿辺りからずっと寄り添ってきたような米山が見える。

20130702東電サービスホールs-.jpg  20130702原発フェンスs-.jpg  20130702原発遠望s-.jpg


宮川宿手前に不動明王を祀る堂があるが、風除けのために綺麗な塀で覆われている。これも珍しい。
宮川宿から、少しずつ特徴のある妻入りの家が現れて来る。
宿の外れに、生活用水として使われているという湧水があるが、藻なども生えていて、残念ながら既に見捨てられている気配だった。

20130702不動明王堂s-.jpg  20130702宮川宿s-.jpg  20130702宮川宿湧水s-.jpg


原子力災害時コンクリート屋内退避施設という標識があり、美しい景観が放射能と一蓮托生の場所である現実に立ち戻らされる。

20130702原発避難施設標識s-.jpg


椎谷宿に入ると、ここも出雲崎ほどではないが、味のある妻入りの家が多い。
「歴史と文化の町椎谷」の幟が立っている。歴史は多分この町の椎谷藩、文化は不明。
椎谷藩は喜連川藩の5千石の次に小さな藩だったと云い、陣屋の跡が部分的に整備されている。
越後柏崎・七街道の標識があり、七街道とは何かと気に掛かったが、北国街道、綾子舞街道、からむし街道などを云うらしい。
ここも越後三大馬市の一つで、馬喰宿の跡に石碑が立っている。

20130702椎谷宿s-.jpg  20130702椎谷陣屋跡s-.jpg  20130702椎谷宿馬市跡s-.jpg 


街道沿いの民家の塀が、風化した砂岩状のもので作られていて良い味が出ているがどういう石だろうか。

20130702椎谷宿塀s-.jpg


宿場を出て観音崎の夕日が丘公園の方へ街道は続くが、ここも中越地震の被害で道筋が被害を受け、修復を諦めて、上り切った所で通行止めとなっている。
北国街道で地震のために無くなってしまった、二つ目の道筋だ。

20130702観音崎通行止めs-.jpg


トンネルで岬を抜けると、杖立観音堂跡があり、様々な石碑が集められている。
ここも中越地震で崩壊し、再建を断念した。見えないところで地震の被害は深い。
この付近から、風当てといわれる海の強風から家を守るための塀が見られる。竹であったり板塀であったり様々だが、冬場の辛さが思いやられる。

20130702杖立て観音堂跡s-.jpg  20130702風当て2s-.jpg  20130702風当て1s-.jpg


石地宿に、沖合いに延びるフィッシングセンターがある。これも原発交付金で出来ている。
道を挟んで反対側に、羅石尊がある、金精様だが本物は沖合いにあったが船が衝突して頂部だけここに移したとか。
ここには観音堂や閻魔堂もあって賑やかだ。

20130702フィッシングセンターs-.jpg  20130702羅石尊s-.jpg  20130702閻魔堂s-.jpg


昭和2年に新聞社が選定した新潟の海水浴場に、石地海水浴場の一等当選の碑が立っている。
今も夏場は海水浴で賑わうのだろうか。

20130702海水浴場一等碑s-.jpg


宿場に大庄屋の内藤家の久寛荘がある。日石の初代社長内藤久寛の生家。
北国街道の日本海沿いでは全く庄屋らしき門構えを見かけなかったが、ここはよく維持されていて、未だに臨海学校として使われているらしい。

20130702久寛荘s-.jpg


出雲崎宿の外れに蛇崩の丘があり、ここに旅立ちの丘という標識が立ってる。
ここからは良寛の気配が濃い。
傍らには、草生した中に戊辰戦争の松代藩士の墓も見受けられる。地震も戊辰戦争も傷が残る。

20130702旅立ちの丘s-.jpg  20130702松代藩士碑s-.jpg


以前出雲崎に来てから5年経った。
其の時は良寛の縁の良寛記念館、良寛堂などを訪ね、良寛が出家した光照寺まで脚を延ばしたが、それから西の街並みは訪れていない。今回でようやく西側が繋がる。
町の西の入口の尼瀬獄門跡には真新しい北国街道の碑がある。出雲崎は奥州道でなくて、北国街道の終着点と言う事で統一されているようだ。
出雲崎は江戸時代は幕府直轄地で、代官所が置かれた。獄門跡には多くの地蔵堂と供養の石塔が立っている。

20130702北国街道碑s-.jpg  20130702獄門跡s-.jpg


天瀬油田は日石初代社長の内藤久寛が日本最初に石油機械掘りに成功した油田で、その櫓と採掘機が保存されている。

20130702尼瀬油田跡s-.jpg


シルエットが面白い妻入りの街並みを歩き、良寛堂へ出た。

20130702街並みシルエットs-.jpg


以前は冬で、堂の扉は閉まっていたが今回は良寛の文字が刻まれた碑と、良寛が愛好したという小さな石地蔵を見ることが出来た。

 いにしへに変らぬものは荒磯海と向いに見ゆる佐渡の島なり

20130702良寛堂s-.jpg  20130702良寛堂内碑s-.jpg 


二度目の出雲崎の5年間は、その間に中越沖地震があり、勿論東日本大震災があり、日本も人も大きく変わったのだろう。

良寛71歳の時の三条の大震の時の書状に、
「災難に逢時節には、災難に逢がよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候。」
とある事を思い出した。
1828年の三条の大震からほぼ百年が経った。次の百年で出雲崎も勿論大きく変貌し、北国街道も、勿論日本も変転するだろうが、いにしへに変らぬものは何なのか。
明るい空の下に過去からの、そして未来へ向けての長い時間を掛けた崩壊感がぬぐえない。
しかし、佐渡を見据えて座り続ける良寛が残したものは変らないだろう、と思って北国街道の旅を終える。

 御かへし             師
  うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ

20130702良寛像s-.jpg
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2013年07月01日

北国街道(その5:黒井宿〜鯨波宿)

月日の流れは速いもの、10ヶ月ぶりに北国街道へ向う。
犀潟に向ったほくほく線は、六日町から先は誰一人乗っておらず貸し切り状態。
犀潟からの北国街道も、人っ子一人見えないのは何処となく同じ印象。

黒井宿の円蔵院に木喰上人の毘沙門天と不動明王があるが、本堂は開いていなくて、外からそれらしい像を窺う。

20130701ほくほく線s-.jpg  20130701黒井宿s-.jpg  20130701木喰上人毘沙門天s-.jpg


潟町宿に米山道・左奥州道と彫られた道標がある。ここでも北国街道でなくて奥州道。
少し前まで昭和25年まで生活用水としていて使われていたという、どんどん湧くからというどんどの石井戸はまだ健在。
ここには鵜の浜温泉という温泉があり、これは帝国石油が石油・ガスを試掘した時に温泉が噴出したらしい。
石油施設は見当たらないので、本命は出ずに、温泉が出たということか。

20130701米山道道標s-.jpg  20130701どんどの井戸s-.jpg


鵜の浜海水浴場からは、残念ながら佐渡は見えないが、南を見ると黒井宿の上越火力が偉容を見せている。
ここにも小川未明の「赤い蝋燭と人魚」にちなんだ人魚像と、少し先には人魚塚がある。
海岸沿いに松林が列なり、240年前に地主の藤野条助が苦労して植林をしたとの説明板がある。
とても240年経ったものとは思えないが、海風で生育が阻まれているのか。

20130701鵜の浜海水浴場s-.jpg  20130701上越火力s-.jpg

20130701人魚像s-.jpg  20130701人魚塚-.jpg  2013070松林s-.jpg


柿崎宿の手前光徳寺に、ライオン創始者の小林富次郎を讃える石碑があり、少し歩くとまた藤野条助の植林の顕彰碑がある、これは個人が建てているようだった。藤野条助はこの辺ではよほどの著名人。

20130701小林富太郎顕彰碑s-.jpg  20130701藤野条助顕彰碑s-.jpg


柿崎宿に入ると、日蓮縁の妙蓮寺、パゴダ風の奇妙な外観の親鸞縁の浄善寺と続く。
浄善寺にはしぶしぶ宿の詠歌碑が立っていて、親鸞に最初は宿を貸さなかった扇谷の主はあまりほめられた話ではない。
 柿崎にしぶしぶ宿をかりければ あるじの心熟柿なりけり

20130701妙蓮寺s-.jpg  20130701浄善寺s-.jpg


宿場の外れの枡形に、「右山みち 左奥州道」と刻まれた指で方向を示した石碑がある。指の線画のものは何回か見たが、このように浮彫りのものはかなり珍しい。
山みちは米山道だろうか。

20130701柿崎宿道標s-.jpg


難所の米山三里の入口の鉢崎宿に入り、芭蕉の泊ったたわら屋と、鉢崎関所跡を見る。
それぞれ、看板と碑が立っているが、関所跡は以前は空き地だったのがつい最近民家が建ってしまい、軒先に石碑と定の看板があるだけで、何の説明もなくかなり残念な状態。
聖ヶ鼻への上り道からは、鉢崎宿がよく見え、その景観は中山道の碓氷峠への途中で見える坂本宿と雰囲気が良く似ている。

20130701たわら屋跡s-.jpg  20130701鉢崎関所跡s-.jpg  20130701鉢崎宿s-.jpg


聖ヶ鼻からは、褶曲地層で有名な牛ヶ首が遠望できる。
本来は聖ヶ鼻から岬沿いに旧道が続いていたが、中越地震で道筋が崩壊して通れない。国道に戻り米山トンネルで抜けて上輪集落へ向かう。

20130701牛ヶ首s-.jpg


上輪集落から牛ヶ首までは、新道ははるか空中を飛んでいるが、旧道は曲折して案内もなく、上り下りも結構な道だ。
明治天皇北陸巡航の御宿処の六宜閣は今は料亭のようだが、国の登録文化財。
牛ヶ首では褶曲地層がよく見える。500万年前に出来たものとの説明。

20130701上輪集落辺りs-.jpg  20130701六宜閣s-.jpg  20130701牛ヶ首1s-.jpg


米山三里の標識が出ている狭い道を下ると青海川駅。
この駅は浜芝浦駅などと同じに海に一番近い駅とも云われ、日本海に夕陽が沈む光景は、日本一美しいと謳われる。
でも、この辺は潟町宿の夕日の森、椎名宿の夕日が丘公園、出雲崎宿の日本海夕日公園、夕日の丘公園ととにかく混乱するほど夕日にちなんだ公園が多い。
よく見ると、少しずつ言葉が違っているのはご愛嬌。

20130701青海川への坂道s-.jpg  20130701青海川駅s-.jpg


ここから旧道は消失し、谷根川沿いに少し上流に戻りそれらしい道で迂回して恋人岬方面へ向かう。
建設当時日本一高さ橋脚と言われた米山大橋が豪快で、夕陽の中のシルエットが美しい。

20130701米山大橋1s-.jpg  20130701米山大橋s-.jpg


鯨波宿はその地名の由来が気に掛かるが、鯨が浜に打ち上げられた事からという説や、昔は「桂波」だったが、鯨の大漁があったので鯨波というようになったとか、「鯨」は、「くずれ」から転訛したもので崩壊地を示し、鯨波というのは「波で崩れた崖が並んでいること」とか諸説あるようだ。

駅前に何もない鯨波駅には鯨の絵が描かれており、海水浴で有名な海岸には美しい夕日が沈もうとしていた。

20130701鯨波駅s-.jpg  20130701鯨波海岸夕日s-.jpg   
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2013年05月03日

大山街道糟屋道

この街道は平塚の須賀湊から北上し、上谷で柏尾道に合流、更に下糟屋で青山道を合わせて大山へ達する。
中原街道や、田村道と交錯するのも中原豊田道と同じで、兄弟ルートともいえるが、地方からの舟便を利用した人向けの参詣ルートといえる。

須賀湊の外は馬入川で、河口直ぐに太平洋の景観が広々と。
舟を下りると直ぐに大山の姿が見えて、古の旅人も心が弾んだろう。
今は平塚漁港が設けられており、近所の魚屋には活きのよい地物の魚が売られているが、これからの旅の時間を考えると持ち帰れないのが残念。

20130503馬入川河口s-.jpg  20130503須賀湊s-.jpg  20130503魚屋s-.jpg

 
札の辻から、平塚駅までは直線的に他の道と45度の方向に交差する道筋となっており、昔からそうだったようで、その理由は不明。

20130503札の辻s-.jpg


真新しく立派な長楽寺で四臂青面金剛の庚申塔を見る。ニ猿を従えており神奈川県内に6体しかないと言う珍しいもの。
少し先の三嶋神社は大山祇命・事代主命が祭神で事代主命はえびす様。本殿の前に大きな像がある。
ここも戦災で消失し、木材の入手が困難な折に大山から苦心の末に調達して仮社殿を建てたと言う碑があった。

20130503青面金剛s-.jpg  20130503三嶋神社s-.jpg


平塚駅を越えて、駅前交差点には一等地の道の両側二区画を同じデザインの東横インが占拠していて、残念な景観だ。

20130503東横インs-.jpg


直ぐに平塚八幡宮に突き当たる。
ここはHPではトップページに「相模國一國一社の神社」を標榜しているが、奇異な感もする。
「一国一社の八幡宮」ではあるが、相模の国の一宮は言わずと知れた寒川神社と鶴岡八幡の筈。この辺の事はよくわからない。
五月五日がここの相模国府祭で、僅かのところで見逃すことになる。

20130503平塚神社s-.jpg


あまり見所もなく淡々と歩いて、気掛かりな地名の真土でお馴染みの中原街道と交差する。
真土神社の参道を中原街道が横切っており、立派な碑が建っている。7年前にさらりと中原街道を歩いたの時もあったに違いないのだが。
真土神社の鐘楼に珍しい四神の蛙股があり、”西の白虎は女性に子宮と安産を授けて夫婦円満を導く、(この白虎はおなかが大きい)”との説明がある。
女性に子宮と安産と言うのは、子宝と安産の間違いだろう。確かにおなかが大きいが、どの白虎もそうなのだろうか。

20130503中原街道碑s-.jpg  20130503真土神社説明版s-.jpg  20130503真土神社蛙股s-.jpg


横内で新幹線を過ぎると、大山の景観が開ける。

20130503大山s-.jpg


明後日が端午の節句なのに、この街道で一つも見かけなかった鯉幟。ようやく元気にはためく姿を見てほっとする。
少子高齢化の日本とはいえ、北関東の街道ではあちらこちらで見かけたが、南関東はすこし風習が違うのかもしれない。

20130503鯉幟s-.jpg


歌川を源氏橋を渡ると、前面に大山が広がる畑の中の気持ちの良い道筋となる。
そばに「あやめの里」があるので立ち寄ってみた。
あやめと言いながら実際は花菖蒲を植えており、6月にあやめ祭りが開かれて賑わうようだ。
ここは減反政策の一つとして、昭和60年から米作を止める替わりに花菖蒲を植えて観光農業をしている。
まだ菖蒲には早いが、手入れをしていている方に話を伺うと、手入れをする人も高齢化して、放棄している部分も出始めており、市の助成も減って毎年の2週間のあやめ祭りが今年から1週間に縮小されたとの事。
ほんの一筋向こうが渋田川だが、渋田川の芝桜も話のついでに出て、やはり最近は手入れもお座なりになり貧相になってしまったという事だった。

あやめ園から見える大山は、人さまの事情に関係なく素晴らしかったのだが。

20130503中原豊田道合流点道標s-.jpg


道筋は渋田川に突き当たり、道標が建っている。ここが先日歩いた中原豊田道との合流点になる。

20130503あやめ園s-.jpg


あれもこれも、五月晴れのなかの日本の姿と思いながら、先日と同じに、愛甲石田駅まで歩いて旅を終えた。
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2013年04月29日

大山街道中原豊田道

大山街道中原豊田道は平塚から北上し、伊勢原の上谷で柏尾道と糟屋道に合流、更に下糟屋で青山道に合流する。
平塚では、部分的に中原街道とも重複し、この日も昔歩いた道に数多く懐かしく出会った。

平塚駅から東海道を西に向う。この道を歩くのは2001年以来で、その時の様相を全く覚えていない。
見付跡、脇本陣跡や高札場跡の碑が残る。
見附台公園横に、崇善公民館‎があり威容を放っている。昭和25年に建てられて議事堂として使われた建物だが、残念ながら平成27年までに解体されてしまうようだった、

20130429江戸見附s-.jpg  20130429高札場跡s-.jpg  20130429崇善公民館s-.jpg


大山街道に入る手前バス停に、豊田道という停留所名が残っている。
地名は町村統合で、全く無味乾燥な歴史を伝えないものに変わってしまうが、バス停は昔の名前のものが残っていること多く、辛うじて歴史を伝えてくれる。

道は東海道を離れて中原豊田道になるが、少し道筋を離れ平塚の塚に立ち寄る。
桓武天皇の三代孫高見王の娘政子が天安元年この地で逝去し、墓が築かれたがその塚の上が平らになったのが平塚の地名の由来という。
塚の付く地名の由来には、赤塚もそうだが墓に起因するものが多い。

20130429豊田道バス停s-.jpg  20130429平塚の塚s-.jpg


街道は直ぐに大山街道矢崎道と重なり、更に中原街道とも重なる。
中原街道の高札場跡を過ぎると、家康が中原御殿鎮護のために作った日枝神社がある。

20130429中原街道高札場跡s-.jpg  20130429日枝神社s-.jpg


日枝神社の真新しい絵馬に、中原御殿の家康の鷹狩りの由来が描かれていた。
ここには東照大権現もあり、さすが家康の歴史の色が濃い。
境内には「平塚ステーンショ道」と刻まれた、大山街道の道標を兼ねた珍しい庚申塔もある。

20130429絵馬s-.jpg  20130429東照大権現s-.jpg  20130429庚申塔s-.jpg


渋田川を渡ると、見慣れた大山が姿を現す。

豊田に入ると「豊田本郷駅」と表示されたバス停がある。
神奈川中央交通が国鉄と連携輸送を行っていた時はこのバス停で国鉄の切符も販売していたとの事で、駅という名称が残っている。これも歴史を残すバス停名称の一つ。
神奈川には他にも大山駅、愛甲田代駅が残っているそうだ。

20130429大山s-.jpg  20130429豊田本郷駅バス停s-.jpg


端午の節句が間近なので、祝う幟が舞っている。
今の季節は街道を歩いても、風にはためく鯉幟を見かける事がめっきりと減り、地方でも子供が少なくなっている事を如実に感じる。

20130429幟s-.jpg


新幹線手前の青雲寺は、家康鷹狩りの折のお茶を入れた名水で有名と言い、「おちゃやてら」の石碑がある。
境内には見慣れた不動明王の大山街道道標もあり、やはり大山は不動明王だ。

20130429おちゃやてらs-.jpg  20130429不動明王道標s-.jpg


この辺の畑では、時たま懐かしいれんげ畑を見ることが出来る。
散発的にしか見かけないのは、農家の方が趣味的に残しているのだろうか。

20130429れんげ畑s-.jpg


小鍋島の八幡神社は、震災の被害だろうか、鳥居が単管で補強されていて悲しい姿となっていた。

20130429小鍋島八幡神社s-.jpg


渋田川手前で、少し前に歩いた大山街道田村道に交差する。ここからは渋田川沿いの道となる。
下谷に八幡神社があり、立派な不動明王道標と珍しい「衜祖神」と彫られた道祖神がある。

20130429八幡神社不動明王道標s-.jpg  20130429八幡神社不動明王s-.jpg  20130429道衜神s-.jpg


渋田川は芝桜の名所で、なかの橋あたりから河畔に植えられており、花の盛りは終わっていたが何とか残り花を楽しむ事が出来た。

20130429芝桜1s-.jpg  20130429芝桜2-.jpg


ここの芝桜は、地区の故鈴木健三氏が奥多摩から一株の芝桜を持ち帰って植えた事が始まりとされている。
関東には秩父の羊山公園や本栖湖の富士の芝桜、秦野の引地川の芝桜など多くの芝桜の名所があるが、自治体が整備したり、民間の施設が有料で公開してるものが多い。

渋田川の芝桜は、愛好会が管理している様だが、原則は自分の家の前のものはその住人が整備するという事になっているらしく、いかにも土地に根ざした良い方法に思える。
そのためか、逆にあまり人気のなさそうな家の前の芝桜の手入れはおざなりだったような気配もした。
数年前よりも、芝桜が貧弱になっているというネットでの書き込みも見受けられ、美しく咲く花の裏にも良くも悪しくも人の営みが見えてくると考えさせられる。

今は有名になった相模原新戸芝桜は、渋田川の芝桜の苗を譲り受けて育てた事が始まりとされて、渋田川の芝桜も栄枯盛衰しているようだった。

渋田新橋で柏尾道に合流し、少し先の柏尾道道標をやり過ごしてから何時ものように青山道で愛甲石田駅まで戻って歩き終えた。

20130429柏尾道道標s-.jpg


沢山の大山街道と出会ったが、あと何百年先にも残るものは道標かなと思いながらの、春の一日ではあった。
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2013年04月18日

大山街道田村道

大山から江ノ島に繋がる田村道は、大山に参拝した人々が帰りに使うことが多かった。
この道は江ノ島弁財天を詣でるが、それは片詣を避けるためとも言われている。
今までは大山街道は大山方向へ歩いたが、今回は慣わし通りに大山に背を向けて石倉橋からスタートした。ここは青山道との追分になる。

石倉橋周辺は県道603号線の整備のために仮囲いが設けられており、石像も移設されている。
腰掛不動と額の掛かった真新しい建物に、彩色も鮮やかな不動尊が祀られている。移築の際に新たに着彩されたのだろうか。

20130418石倉橋仮囲いs-.jpg  20130418石倉橋石像群s-.jpg  20130418腰掛不動尊s-.jpg


青山道との追分を過ぎて二の鳥居があり、鳥居を通して真正面に大山が見える。
この鳥居は関東大震災で倒壊し再建されているが、鳥居の向きが現在の道でなく、旧道に沿った方向となっており、交差点先の山王中学校沿いにその道が残存しているらしかった。

20130418青山道追分s-.jpg  20130418二の鳥居1s-.jpg  20130418二の鳥居-.jpg


直ぐ傍に国指定の登録有形文化財の旧代官の山口家住宅があり、旅人のために門を開放して水を供したという巽の井戸や、雨岳文庫資料館も敷地内にある。
日曜しか開館しておらず、外観を見る事しか出来なかったのは残念。

20130418山口家s-.jpg  20130418巽の井戸s-.jpg


伊勢原駅に近づくと歩道がレンガタイルとなり、花の鉢のための気の利いた支持台や綺麗に手入れされた花が植えられており、環境に対する市の姿勢が垣間見える。
 
20130418花鉢用台s-.jpg


伊勢原大神宮を詣でる。
伊勢原の地名は、伊勢の国の山田曾右衛門が大山詣の後、そのままこの地に住み着き、故郷の伊勢神宮を勧請・奉祭し、そのため地名も伊勢原となったと言う。

この神社には、銀杏、楠、欅の3本の御神木がある。
その一本の欅の枝が無惨に伐られており、境内をご奉仕で掃いていた方に伺うと、落ち葉のせいと言う。
落葉樹の落ち葉は当たり前の事だが、敷地外の住宅の樋に詰まるものを、ご奉仕の人が掃除していたが、皆高齢化して樋に取り付く高所作業が出来なくなって宮司が伐ることに決めたとの悲しい話を聞かされた。
人の寿命はせいぜい100歳だが、何百年も生き永らえるだろう御神木は無惨な姿と成り果てた。

20130418伊勢原大神宮s-.jpg  20130418伊勢原大神宮の欅s-.jpg


伊勢原駅前に立派な鳥居があるが、これは一の鳥居でもなく、この鳥居から伸びる道が大山道でもないと言う少し不思議な鳥居。

20130418伊勢原駅前の鳥居s-.jpg


駅を抜けて直ぐの、三福寺の子の権現社には草鞋が。八重桜の散る鉢には大賀ハスが植えられていた。

20130418山福寺子の権現s-.jpg  20130418三福寺蓮s-.jpg 


日向道との分岐の直角に折れるT字路に、地蔵が載った珍しい道標がある。
普通は大山道は不動の筈だがと思ってよく見ると、首から上が挿げ替えられている。この道筋で同じような道標を数点見たので地蔵信仰が強いのだろうか。

20130418地蔵道標s-.jpg


傍の八坂神社には入口に田村道の道標があり、境内にはご神木だった天王松の巨根が、往時の写真と共に屋根を掛けて保存されている。
目通り6Mの巨木だったそうだが、惜しくも昭和49年に枯れたとの事。まだ生きているのに枝を無惨に刈り払われた伊勢原大神宮の欅とは大違いだ。

20130418田村道道標s-.jpg  20130418天王松s-.jpg  20130418天王松写真s-.jpg


東円寺にある「こがの渡し舟つなぎ松」の碑を見る。
大きな川もないのに不思議に思えるが、この辺は今も水田のある低湿地で、昔は舟でないと渡れなかった事から東西に舟繋ぎの松があり、西が東円寺、東が小鍋島の長島にあったらしい。

レンゲ畑を眺めながら、下谷で豊田道と交差してから渋田川の自然堤防の上をのんびりと歩く道は長寛だ。

20130418舟繋ぎ松跡s-.jpg  20130418れんげ畑s-.jpg  20130418渋田川s-.jpg


旧田村十字路に十王堂や田村道の道標がある。
田村の地名は坂上田村麻呂がここに一時逗留した事から来ているといわれるが、この由来の地名も日本全国にある。
田村の渡跡碑を見てから、相模川を渡り寒川町に入る。

20130418田村の渡し跡s-.jpg  20130418相模川s-.jpg


一宮緑道として旧相模線支線が緑地化され、西寒川駅跡が八角広場として整備されている。
街道の左右に軌道跡もかなりの長さで残存して、少し前まではお祭りの時に列車も走らせたそうだが、今は何の説明版もなく置き去りにされていた。
枕木が一本一本割れを防ぐために、鉄輪が打ち込まれているのが興味深い。

20130418一宮緑道s-.jpg  20130418軌道敷s-.jpg


この先少しの区間、中原街道とラップしているが、勿論記憶にない。
新湘南バイパスを越えて暫く行くと、赤羽根神明神社があり、参道が新湘南バイパスと地上道に挟まれた空中参道となっている。

四ツ谷辻に大山不動一の鳥居が、更にお堂に大山不動の道標があり東海道方面から大山を目指す人には心強い。ここからは藤沢橋までは旧東海道と同じルートとなる。

20130418赤羽根神明神社空中参道s-.jpg  20130418大山不動一の鳥居s-.jpg  20130418不動道標s-.jpg


交通量の多い道を進み、メルシャンの少し先におしゃれ地蔵がある。
道祖神だが、女性の願い事を叶え、叶った時は白粉を塗ってお礼をすると言う事で、心なしかやや化粧が剥げ落ちている気配ではあった。

20130418おしゃれ地蔵s-.jpg  


藤沢の市街地に入ると、マンションの敷地に隣接して源義経首洗い井戸がある。
首実検した後、鎌倉打越の海岸に打ち捨てられた義経の首が境川を遡り、この付近で村人に拾われてこの井戸で首を清めたという。奥州街道平泉の高館と、藤沢は一繋がり。

20130418首洗い井戸s-.jpg


藤沢駅を越えると道も江の島道となり、杉山検校が立てた道標が要所要所に立っている。
一切衆生、二世安楽。

諏訪神社上社の長い階段からは、江の島方面が良く伺える。
密蔵寺は新四国霊場を創設しようと88体の弘法大師像を作ろうとしたが、関東大震災で中断。
それまでに製作された像が26体境内に並べられており、壮観だ。

20130418江の島道道標s-.jpg  20130418諏訪神社上社石段s-.jpg  20130418密蔵寺弘法大師像s-.jpg


さらに、常立寺にはフビライ・ハーンの国書を持って渡来した元の使者が処刑された事を弔う供養塔があり、その前には青い布が巻かれた五輪塔がある。
モンゴルは白と青の色を大切にして、青は英雄を意味するらしく、モンゴル出身の力士が巡業の折りにこの寺を訪れ青い布を巻いていると。

20130418元使者供養塔s-.jpg


江の島付近は見所が多く、日もとっぷりと暮れようとしているがようやく弁天橋に辿り着く。
この橋の歩行者専用部分は、最近強風時に係留していた漁船が衝突して橋桁を損傷して修復中で通行止だったが、橋からは遥々歩いて来た大山が薄っすらと眺められる。

20130418江の島s-.jpg  20130418弁天橋s-.jpg  20130418通行止s-.jpg


夜の帳も降りようとする頃、それでも最後はやはり江島神社の辺津宮に参拝して、風も強く見所多くて予想外の時間が掛かったが、今日の無事の街道歩きをお礼した。

20130418江の島弁天-.jpg
posted by 遊戯人 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 大山街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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