桜は八重桜が満開、ハナミズキ、レンギョウ、ツツジが咲き始め黄色は菜の花の彩りで、歩いた道筋も里山の田園地帯。
揚雲雀名乗りいで、鶯のさえずりも纏わりついて離れない。
まさに時は春、すべて世は事も無し、か?

毛呂山町には旧街道が、少しの距離だが手をつけられずに残っている。
勿論使われていなかっために、杉が生い茂っているのはご愛嬌。

この辺は板碑が多いが、700年前の有名な延慶の板碑は3mもあり、典型的な青石塔婆。
鋭い主尊種子の彫り込みが鮮やかだ。

海道という地名は全国にあるが、笛吹峠への道筋に「海道端」という取ってつけたような地名があり、これもその一つ。

笛吹峠は、この場所で新田義貞の遺子の義宗が宗良親王ともに足利尊氏軍と戦い、敗戦。これ以降足利尊氏が関東を制圧した。
宗良親王が月明かりの中で笛を吹いたことから、峠の名が付いたといわれているとか。
笛吹峠の名称は日本あちこちに存在し、その名の謂れの伝説を遡ると限がなく、これも宿題で持ち越しに。

笛吹峠を下ると坂上田村麻呂に関係の深い将軍沢。
将軍神社、将軍沢は勿論征夷大将軍。追いかけてきた妻を都へ追い返した縁切橋も残り、歴史の香りが濃い。

大蔵に入ると今度は源義賢と忙しい。
源義賢は平治の乱で平家に敗れた源義朝の弟で、義賢の子が源義仲だ。
旭将軍木曽義仲はこの大蔵の地で産湯を使ったことになる。
源義賢の五輪塔の墓がひっそりと祀られている。

大蔵では不思議な大行院神明社にも触れない訳にはいかないだろう。
神仏混交、境内にはありとあらゆる神様仏様の像が溢れ、お堂では老若男女が溢れている。
地元の素朴な神社だったものが、口コミで評判を聞いて日本全国から人々がやってくるようになったとか。
住職のご先祖に関する透視とか、予言とかその評判の内容は表に殆ど出ていないのでよく分らないが、日本の土着的でプリミティブな宗教の原型が姿を変えて顕れているようにも感じられる。

色々な歴史が錯綜している大蔵では、何があっても不思議ではない。
都幾川を渡ると最後は、畠山重忠の菅谷城跡。
北条氏の謀略で鎌倉街道中道の鶴ヶ峰付近で討死にした畠山重忠はこの城から出征。まさに元久二年。
菅谷城跡も、兵どもが夢の跡。

鳥たちの囀り、花々の彩り、樹木の薄緑、思いもかけぬ歴史の人物の出現で、眼も耳も知識も満腹の一日だった。