2010年01月18日

岩城相馬街道(その1:水戸宿〜大甕)

水戸街道終了地点には陸前浜街道の起点の碑があって、そこが起点ならば当然その先が辿りたくなるのは、これまた旅人の性。

古来からの名称のように見える陸前浜街道という名前は、実は明治時代に付けられており、今の日本橋から水戸までの水戸街道と、水戸から先の奥州街道との合流点岩沼までの岩城相馬街道と名付けられたもの全体を指している。
ということで、水戸の本町にある起点の碑はやや街道名に疑義ありだが、ともかくも、ここが岩城相馬街道の出発点。

岩沼までは、水戸から220km程度。
歴史的に著名な史跡は少なそうだが、海風に吹かれながらのんびりと歩くのも良さそうだ。

旧町名が曲尺手といわれるあたりを、その名の通りカギの手に何度も曲がっていくと、新舟渡跡の碑があり意外と細い流れの那珂川が。
カヌーイストの好みの川だがそれはもっと上流か。

20100118陸前浜街道碑s-.jpg  20100118那珂川s-.jpg  20100118新進舟渡跡碑s-.jpg


少し街道の雰囲気を残す枝川宿を過ぎると、6号線に合流しもっぱら「日製那珂工場前」などのように日製と略称されている日立製作所の地盤が延々と続く。
日立製作所の日立は日立市の前身の日立村から取られ、日立は水戸光圀が隠居後この地方の山に登り、昇る朝日を眺め「日の立ち上るところ領内一」と言ったからとか。
かなり眉唾だが、常陸国との関係はどうなのか。

今は日立製作所も業績は不振を極め、工場内にある世界一高い200mのEVの試験塔が虚しく目に映る。
国道沿いの、閉鎖されたまま荒れ果てている店が増えているのは、今や日常茶飯事だが、この近辺はかなり有名なチェーン店も閉鎖されたり、撤去中のものが多く、改めて世の不況を痛感する。

20100118枝川宿s-.jpg  20100118EV試験塔s-.jpg


街道沿いには、何故か馬力神の碑が多い。
栃木、茨城には多いようだが愛馬精神が盛んだったのか。

20100118馬力神1s-.jpg  20100118馬力神2s-.jpg

一里塚跡の碑がある佐和宿を過ぎ、さらに石神宿を過ぎ榊橋で久慈川を渡ると、日立市だ。

20100118久慈川s-.jpg


6号線から旧道に入ると、大橋宿手前に立派な旧家があり、大橋宿ではそのものの「大橋宿」というバス停もある。
公民館に再利用されている小学校も何故か懐かしい風景で、小さな宿だが郷愁をそそる。

20101118旧家s-.jpg  20100118大橋宿バス停s-.jpg  20100118小学校跡s-.jpg


急坂の石名坂を上ると、西行の碑が。
西行は奥州へは二度旅をしてるが、何時の時の歌か。

 世の人のねざめせよとて千鳥なく名坂のさとのちかきはまべに 

少し行くと、石名坂の榎があり、説明版には
・・・古来 陸前浜街道は、72年廻り金砂神社磯出大祭礼の祭御神体が水木浜まで渡御される途上、この地石名坂祭場において神事が執行されるに当たり御神輿を安置するための台座となる厳粛な役割を担ってきている。
 72年を経た大榎は修祓執行後、地上1.2メートルから伐採され御神輿を根株の上に安置し天下泰平、五穀豊穣、万民豊楽の祈願祭事が執行される。そして再び榎の若木が72年後の未来に向けて植え継がれてゆく。・・・
と書かれている。

20100118石名坂西行碑s-.jpg  20100118石名坂榎s-.jpg

殆どの人はその木の行く末を見ることも無く、唯切られる為だけに、72年掛けて育て継ぐ人々とその思い。
金砂神社磯出大祭礼は1200年前から執り行われ、第17回目が2003年に催された。
次の2075年には日本が、どの様な国のかたちになっているのかと思いつつ大甕駅で足を止めた。


posted by 遊戯人 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 岩城相馬街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月09日

浜街道(その1:八王子〜町田)

浜街道は八王子から横浜までの40KM程度の街道だ。

八王子は古来桑都といわれ、絹織物産業が盛んだった。
開国の頃、街道の村の鑓水に生糸の商いをする鑓水商人といわれる人々が現われ、開港された横浜港に生糸を運び財をなした。

新年に相応しく、1996年文化庁「歴史の道百選」に選ばれて、絹の道という美称も持っている浜街道を歩いて見た。

八王子八日町の、懐かしい甲州街道と16号線の交差点がスタート地点。
西行も苦笑しながら、桑都商事も頑張っている。

 浅川を渡れば富士の影清く 桑の都に青嵐吹く (西行)

20100109八日町交差点s-.jpg  20100109桑都商事s-.jpg


分譲住宅地を抜けて鑓水峠入口へ。昔の道は跡形も無く急な階段が迎えてくれる。

20100109階段s-.jpg


登り切ると、高尾から奥多摩の山並が目を楽しませ、絹の道の碑の奥には鑓水商人が作った道了堂跡がひっそりと残っている。
20100109山並s-.jpg  20100109絹の道碑s-.jpg  20100109道了堂跡s-.jpg


山道の核心部は1KM弱だが、木漏れ日の中を枯葉の音が心地よく、下りきると鑓水商人八木下要右衛門の屋敷跡に絹の道資料館が建っている。
畑の、どんと焼きの準備も愉しげだ。

20100109絹の道s-.jpg  20100109絹の道資料館s-.jpg


都の有形文化財の小泉家屋敷は、茅葺屋根が懐かしい。
まだ実際に住まわれているが、玄関に架かっている、府中の大国魂神社の烏団扇が何となくユーモラス。

20100109小泉家屋敷s-.jpg  20100109烏団扇1s-.jpg

この付近に鑓水板木という地名があり、板木は「伊丹木」に由来し、これはアイヌ語の「きれいな清水が湧き出る所」の意で、この付近にはアイヌが住んでいたと思われる、との説明版があった。
南東北まではよく聞く話だが、東京にもとは予想外。

街道は、多摩ニュータウンの南大沢の一角に入る。完全に造成されて跡形も無いが、しかし、街道の痕跡を残そうという開発事業者の気持が見える。

20100109多摩ニュータウンs-.jpg  20100109タイルs-.jpg


町田街道の脇に、ストーンサークルの田端遺跡がある。
付近で発見された4500年から2800年前の、縄文中期から後期にかけた遺跡の一つ。

この場所からは南西に富士と丹沢を望み、冬至には丹沢主峰の蛭ヶ岳山頂に夕陽が落ちる。
縄文人の祭祀が行われた場所で、本物は盛土保存され、今は復元されたものを見る事が出来る。
復元物とはいえ、その不思議な造形や線状の刻印に思わず襟を正す。

20100109田端遺跡1s-.jpg  20100109田端遺跡2s-.jpg  20100109田端遺跡3s-.jpg


これも何故ここに木曽か、という地名の木曽町で奥州古道と交差し、奥州古道側に木曽一里塚がある。
徳川家康の遺骸を久能山から日光に改葬するにあたり、大久保長安によって造られたものとか。
鎌倉街道上道を歩いた時に、奥州古道とは小野路でも交差し、そこにも小野路一里塚があった。
家康は死しても、一里塚を作らせたわけだ。

20100109木曽一里塚s-.jpg


縄文から現代まで、予想外に歴史綾なす浜街道、とっぷりと日も暮れて、町田駅前の絹の道の碑を見て終わる。

20100109町田駅前碑s-.jpg
posted by 遊戯人 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 浜街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。