この道は、名前のとおり将軍が日光へ参る折に使われた道で、東大前の本郷追分で日光街道から分岐して、距離は日本橋から幸手で日光街道と合流するまでの50km程度と気楽に歩くにはお手ごろだ。
本郷追別から六義園あたりまでは、驚くほど社寺が多い。まず正行寺の「とうがらし地蔵」、唐辛子風の被り物がユーモラスで、喉にご利益とか。
とうがらし地蔵は他にも、都内あちこちにあるようだ。
南谷寺は江戸五色不動の一つの赤目不動で有名で、今まで街道沿いに目白不動、目青不動を見ているのでこれで三つ目。肝心の不動様は目は赤くないが迫力のある風貌だ。


立派な山門を持つ吉祥寺には「お七吉三比翼塚」がある。
駒込近辺に社寺が多い訳は、天和・明暦の大火後江戸市中諸所の神社仏閣をこの地に移したからとか。
八百屋お七は天和の大火で焼け出されたのが話の始まりなので、それが塚がここにある理由かと思ったが、井原西鶴が「好色五人女」の中でお七と吉三の出会いの場を吉祥寺としたことがその訳とか。
二宮尊徳の墓も、日本全国にあるが、何故かこの吉祥寺にも存在する。



六義園を通り過ぎ、旧古河庭園に立ち寄る。
西洋庭園には薔薇の二番花が咲いていて、日本庭園には菖蒲が彩りを添えている。
コンドルの設計した建物は、旧岩崎邸と違って無骨な石積みの外観だが、敷地のレベル差を生かした庭園と相俟って思いのほかピクチャレスクな景観を創り出していた。


飛鳥山公園手前には西ヶ原の一里塚。
渋沢栄一が保存に尽力し、生き残る事が出来た。
都内で残っている一里塚は、志村の一里塚とここだけなので貴重な史跡。
何度か来た飛鳥山公園で、いつも外観だけしか見ていないので気が引ける晩香廬と青淵文庫に御挨拶。



王子の手前の音無橋は御茶ノ水の聖橋と同じRCのアーチ橋で、その構造が美しい。
昭和五年竣工で聖橋は設計は山田守だが、こちらは増田淳。

王子を過ぎて暫く行くと、鎌倉街道中道が合流する。というか御成道が昔の鎌倉街道を使っている。
下の写真の右側が鎌倉街道中道。最近は横尾忠則のY字路では無いが追分が気に掛かる。

鎌倉街道で歩いた部分を省略して、再び赤羽の宝幢院の道標に対面する。「南江戸道」「東 川口善光寺道 日光岩付道」「西 西国冨士道 板橋道」と刻まれている。
ここは鎌倉街道上道も合流するので、立ち寄ったのは3回目。

荒川を渡ると、エルザタワー55がまだ威容を誇っている。
鎌倉橋の碑が荒川の袂の小公園にある。荒川には流石に掛かっていなくてそのそばの小川に掛かっていた橋だそうだが、名を残す。


川口宿で数件の古い建物を見ながら、国道に合流。
十二月田という珍しい名前の交差点近くで、味噌醸造業・材木で財を成した田中徳兵衛邸を見学。
大正12年の建物だが、昭和年代の和館も合築されていて、別棟に茶室もある。
色々な催しも行われているようで、建物が活きているのは嬉しい事だ。



鳩ヶ谷宿は最近設置された立派な街道に碑が設置されている。
街中には古い建物も散見され、史跡の標識も多く、街道が町おこしに役立っているようだ。



鳩ヶ谷宿を抜けるとまた川口市になる。
地図を見ると、鳩ヶ谷市は一部を東京都の足立区に接しているがあとは周辺ぐるりと川口市に囲まれている。
このような市域になっている経緯は色々あったようだが、今は川口市との合併協議が進んでいるそうなので、川口市鳩ヶ谷町になるのも遠い事ではなさそうだ。
鳩ヶ谷宿を越えると見所は少なく、園芸農家の多い地域が続き、程なく東川口駅に着く。
位置的には東川口でなくて北川口が相応しいが、この名称も何故だろうかと思いつつ、駅前のこれも不思議な親子の獅子の像を見て歩き終えた。
