本陣の表門と、まだ住まわれている脇本陣の長屋門が保存されている。較べると格の差を表して微妙に表現が異なっている。


大門宿を出ると、東北自動道手前の大興寺の葺鐘楼が珍しい。

歩いていると「南部領辻」という不思議な地名がある。南部藩の飛び地だったのだろうか。

街道から外れて見沼代用水の方へ足を伸ばす。
埼玉の緑のトラスト保全第一号地見沼田圃周辺斜面林という地域があり、土地の方が手を竹林の植栽管理に汗を流しておられた。

国昌寺には開かずの門と、欄間に左甚五郎作と伝えられる龍の彫刻がある。
この辺は何故か伝左甚五郎の彫刻が多いようだ。
境内の市指定天然記念物の、センダンバノボダイジュも珍しい。



見沼代用水は閘門式運河として日本最古のものといわれているが、今は水緑のヘルシーロードとして整備されていて、良い散歩道になっている。

街道に戻り膝子一里塚。
町村合併で文化財指定から外されたという情報があったが、後世に伝えてゆくべきものの価値観が行政では正に逆行しているという、寂しい話だ。

人形の町岩槻宿に入る。
宿の手前で街道は大きく回りこむ。
昔の川筋でも城郭跡でもなく、昔の崖に沿っているという説もあるようだが理由不明。
町は景観に配慮された街づくりが行われているようで、古いものも適度に残り、新しい建物も町並みを意識した外観となっているのは好ましい。



「岩槻に過ぎたるもの児玉南柯に時の鐘」といわれた、時の鐘を見て、旧岩槻城へ足を伸ばす。
ここは運動公園となっていて、面影は殆ど無く、僅かに岩槻城黒門と裏門が移築保存されている。



その名も出口町という所を通って岩槻宿を出る。
元荒川を渡り相野原の一里塚を探す。
この一里塚は道路拡幅で削り取られ、昔はあったという標識もなく、工場敷地の一角に気持だけの姿を哀れにとどめていた。
御成道ではここだけに残るという杉並木が、ふるさとの並木道として残っている。


埼玉県で唯一両側に残っている下野田の一里塚を見て、次は片側だけの下高野の一里塚を見る。


岩槻宿を出てからは見ものも少なく、一里塚だけが目当てのような街道だったが、幸手宿の手前で懐かしい日光街道と合流する追分に辿りつく。
これで日光に繋がる街道は、日光街道、日光例幣使道、日光壬生道、そしてこの日光御成道と全て歩き終えた事になる。


これからも五街道のあちこちで見た追分を、そこから先へと繋ぎたくなる悩ましい病気に取り憑かれたようだ。