また江戸の方から歩くと当然、追分というよりは合流点のイメージだ。
「綿の湯」前広場が「甲州街道と中山道の合流点」となっており、合流点の碑と、もう一つ問屋場跡の碑を兼ねた甲州街道終点の碑が建てられており、甲州街道として「右江戸より五十三里十一丁」中山道として「左江戸より五十五里七丁 正面京都へ七十七里三丁」の文字が刻まれている。


追分宿とは言われているが、甲州街道が終着点のため分岐の場所自体はそれぞれ先に行く道を暗示するようなY字路でなくて、中山道のほうが京都方向には分岐点から直角に曲がってゆく。
中山道はここから江戸へは和田峠、笠取峠、碓氷峠と三つの峠越えがあり、甲州街道は笹子峠と小仏峠の二つでその厳しさも中山道のほうが大きい。
勿論距離も、甲州街道のほうが短い。
皇女和宮は中山道を使ったが、昔の旅人が京都から下諏訪まで中山道を歩きそこから甲州街道で江戸に出たという記録をあまり見かけないのは何故だろうか。
街道の整備状態が中山道よりも貧弱だっただからという説もあるが、やや頷けない。
分岐点自体の写真を撮っていなかったのは残念だ。