2010年10月29日

岩城相馬街道(その12:新地宿〜岩沼宿)

明けやらぬ太陽のもと、新地駅へ戻り最後の行程へ。

名前の謂れが気にかかる十三奉行溜池で県境を越え、宮城県へ入る。
この辺は溜池が多く、これも二宮尊徳士法の影響か。
上平集落では、建売でもないのに全く同じような外観を持った家が軒を連ねている。分家だろうか。

20101024日の出s-.jpg  20101024十三奉行溜池s-.jpg  20101024上平集落家s-.jpg


坂元宿は各家が全て火の用心の旗を出してるのが珍しい。他の町でも見受けたのでこの地方の伝統かとも思われる。

20101024坂元宿s-.jpg


山下宿の当護稲荷神社の鳥居の傍に、江戸浜街道についての説明があり、宮城県ではもっぱら江戸浜街道と呼ばれている。

この神社には沢山の石碑が集められており、珍しい蛇の姿が彫られていた。蛇神か。
この町も古いものはなく、唯一旧検断屋敷跡が残っている。

20101024江戸浜街道説明碑s-.jpg  20101024当護稲荷神社碑s-.jpg  20101024山下宿検断s-.jpg


間の宿といわれる横山は、また例の火の用心。
町の外れに一里塚跡があるが、ゴミ置場となっていて何の説明もなく打ち捨てられている。

20101024横山宿s-.jpg  20101024横山一里塚s-.jpg


亘理町立郷土資料館が国道越しに見える。
お門違いの城郭風だが、亘理には臥牛城といわれた城があったので、その雰囲気だけでもという事か。

亘理宿入り口の称名寺で、国の天然記念物のシイを見る。
相馬地方以北、数々の巨樹を見たがその中では存在感が圧倒的に一番。姿かたちが少し山代の神代桜にも似ているようだ。

20101024亘理郷土資料館s-.jpg  20101024称名寺シイs-.jpg


亘理宿は珍しく、町名などの説明碑が立っている。古い建物も散見され、漁港を控えているせいか、この地方では珍しく町に活気がある。
たまたまこの日は「商人祭り」が開かれていて、若い人も多く、寂れた街ばかりを見る事が当たり前だった目が驚いた。

20101024亘理宿建物s-.jpg  20101024山田屋s-.jpg  20101024商人祭s-.jpg


逢隈を過ぎると、阿武隈川越しに奥州街道を歩いたときも目にしたダイナミックな日本製紙の工場が見えてくる。
橋の手前に333kmと分り易い道路標識がある。

橋を渡って、終着点の岩沼宿に入るが、排水機場の傍にある藤場の渡跡と言われる場所に立ち寄る。
何の標識も無いが、確かに人工物の石積の跡が残っている。
江戸時代のものが水流にも押し流されずに、この姿で残っているとも俄かに信じがたいが、これも街道の夢として記憶に留める事にした。

20101024日本製紙s-.jpg  20101024排水機場s-.jpg  20101024藤場の渡しs-.jpg


岩城相馬街道は竹駒神社寺手前で、鍵の手に曲がってくる奥州街道と合流し、ここが今回の旅の終着点という事になる。
ここも何の標識もないのは真に残念だ。

交差点の角にある店の方に伺うと、以前は標識が立っていたが、8年前に道が拡幅された時に撤去されてしまったとの事。

20101024追分s-.jpg


日本三大稲荷の一つの竹駒神社を再訪し、奥州街道を歩いた時は修復中だった唐門を確認。
勿論、旅の無事をお礼参り。

直ぐ傍に、名所の武隈の松があり、ここも再訪。
芭蕉は「桜より松は二木を三月越し」と詠んだが、三月どころでなく十ヶ月も掛かった街道だった。

20101024竹駒神社唐門s-.jpg  20101024竹駒神社s-.jpg  20101024二木の松s-.jpg


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2010年10月28日

岩城相馬街道(その11:中村宿〜新地宿)

中村宿では、銀行の前にある道路元標を確認してから歩き始める。
説明碑が併せて設置されていて、日本橋まで73里17町、福島県庁まで15里11町。
道路元標に親切に説明が行われている例は比較的少なく、相馬市の余裕が感じられる。

この銀行もそうだが、この通りは切妻に建物が統一されていて、町に景観規制があるようだ。
これも町の余裕。

20101023相馬宿道路元標s-.jpg


川沿いの、のんびりした道を歩くと黒木宿。
入り口に石仏群があるが、町自体には何も残っておらず街並みも極平凡だ。

20101023黒木宿への道s-.jpg  20101023黒木宿石仏s-.jpg


長い付き合いだった相馬藩と別れ、まだ福島県だがいよいよ仙台藩の領域に入る。
このあたりは昔は相馬藩領、安土桃山時代以降は仙台藩、そして明治の戊辰戦争で仙台藩は相馬藩に破れ、今はそのまま福島県に復した。
街道は藩境のある国道の下を抜けてゆく。

20101023藩境s-.jpg


中村宿から駒ヶ嶺宿へは、なぜか黒木宿を経由してぐるりと時計回りに大回りする。
特段避けるべき山川がある訳でもなく、どのような理由か不明のまま。
こういう大曲は、蛇行切断地形の中山道大桑地区とか奥州街道の船迫宿でも見受けられた。

駒ヶ嶺宿も見るべきものはない。
駒ヶ嶺城跡があるが、これはパスして先を急ぐ。

20101023駒ヶ嶺宿s-.jpg


新地宿では、旧家の黒澤家の庭にある歌碑道標を見学。
東西の二つの碑があり、西は
 右なかむら 左津るし 志ら菊や松し満道を・・・と刻まれている。
東は 
 東都八十里 仙城十三里 
  陸奥の束稲山佐久良ばな吉野之外に可ゝ留べしとハ 西上人
  木の茂とに汁も鱠も桜可な 翁

と西行と芭蕉の歌が彫られている。どちらも桜がらみで、東の碑には慶応三年三月と刻まれているが、何故この歌かも語る人はいない。
しかし、どこにでもある道標と違って、歌が刻まれているだけで街道歩きの物好きが訪れるので、この道標も本望だろう。
たまたま庭におられた旧家のご夫妻が、親切に碑がここにある経緯などを説明してくれて感謝。

話が尽きないが、秋の陽はつるべ落とし。
予定の坂本宿は諦めて新地宿を足早に歩き過ぎ、新地駅で歩き終える。

20101023西歌道標s-.jpg  20101023東歌道標s-.jpg  20101023新地宿s-.jpg
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2010年10月22日

岩城相馬街道(その10:小高宿〜中村宿)

この日は小高宿から所謂相馬の中村宿まで。

街角に蔵造りの旧家を見て、相馬家の居城だった相馬三妙見の一つの小高神社に脚を運ぶ。
この城は紅梅山浮舟城と言う、雅な名前をも持っている。
相馬氏は鎌倉時代から明治維新まで700年以上の長きに亘ってこの地を支配し、世界でも珍しい長期統治者という事を知る。

相馬野馬追の最後を飾り、多くの馬の中から神の思し召しにかなう馬を捕らえて奉納するという神事の野馬懸はこの神社の敷地で行われるという。
馬が駆ける様が目に浮かぶ。

20101012小高宿旧家s-.jpg  20101012小高神社s-.jpg


次も街道から少し離れて、相馬三妙見の一つの太田神社に向かう。
杉の巨木の参道が心を鎮め、長い階段の上にある神社は、680年の由緒を誇り、ここも野馬追いの出陣式が行われる。
鈴の緒が、どういう謂れか真に凝った造りになっていて眼を引いた。

20101012太田神社s-.jpg  20101012鈴の緒s-.jpg


原町宿に入ると広大な野馬追祭場があるが、何とこの場所は相馬三妙見の小高神社、太田神社、中村神社の飛地境内と案内板が立っている。
確かに、馬場の入り口には結界としての柵が設けられている。

街中には昔の高札場跡に、復元した三階蔵が建てられている。特に相馬藩に特徴的なものでもなく、わざわざ「上方風」と謳っておりやや意味不明。

20101012相馬馬追祭場s-.jpg  20101012三階蔵s-.jpg


道端の稲はすっかり刈り取られているが、短い秋の陽の中で二度目の穂をつけようかという緑が、いかにもけなげに且つ美しく見える。
山の中の五本松茶屋付近に巨大なクレーター状の土地があり、東北電力の廃棄物捨て場のようだ。
人の眼に触れにくい所に、忌避される施設がいつの間にか作られる。

塩崎一里塚があるが、南相馬市の扱いは冷淡で、消えかかった文字の標識杭があるだけで、それも殆ど何も読み取れない。

20101012稲s-.jpg  20101012廃棄場s-.jpg  20101012塩崎一里塚s-.jpg


日吉神社の樹齢800年の杉を見て、坂を下り鹿島宿に入る。
鹿島宿では今度は鹿島神社の樹齢1000年の大欅。何かと巨樹が多い街道だ。
次は、またしても打ち捨てられた横手一里塚。

20101012日吉神社杉s-.jpg  20101012鹿島神社欅s-.jpg  20101012横手一里塚s-.jpg


相馬藩は二宮尊徳の二宮仕法に取り組み、「二宮御士法を伝える土樋」が今も健在だ。
これも珍しい名前の鬼越迫では、旧道の幅そのままの松並木が部分的に残存している。

20101012二宮土樋s-.jpg  20101012鬼越迫松並木s-.jpg


日下石川を渡って、しばらく行くと高根沢地区でこの街道随一と思われる立派な松並木が続き、足の疲れも癒される。
宇多川を渡ると、相馬氏の居城中村城のあった中村宿。
町はこれも電力会社関係か、かなり豊かに整備されている。

20101012松並木s-.jpg  20101012中村宿s-.jpg


今は相馬神社が建っている中村城跡と、相馬三妙見の最後の一つ、中村神社を見学。
中村神社は相馬三妙見の中で一番勢いがあり、野馬追いの元締めらしく多くの馬が飼われており、境内に馬の像が溢れている。
階段の手すりも馬ずくめだが、これもご愛嬌。

20101012相馬神社s-.jpg  20101012中村神社s-.jpg  20101012中村神社手すりs-.jpg


もっぱら、巨樹と野馬追いと相馬三妙見が主題になったこの日の旅だった。
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2010年10月11日

岩城相馬街道(その9:大野〜小高宿)

大野駅から街道に戻り、ほどなく五郎四郎の一里塚。
不思議な名前だが、五郎から生まれた四郎が住んでいた土地だろう。

前田に入り、浜通りで尤も大きい杉と自称している稲荷神社の前田の大杉を見物。
目通り幹周り7.7m、高さ22mと。然しこの後これより大きな杉を沢山見かけたので、看板にかなり偽りあり。

20101010五郎四郎一里塚ss-.jpg  20101010前田の大杉s-.jpg


新山宿に入ると、モトケンダンという名前の雑貨屋がある。勿論モトケンダンは「元検断」で、とにかく屋号として残っているのは嬉しいところ。
合宿の長塚宿に入り双葉駅前に鄙にも稀な、美しいプロポーションのヴォーリス風の建物が眼を引く。旧三宮堂田中医院で昭和4年建築と。

20101010モトケンダンs-.jpg  20101010旧三宮堂田中医院s-.jpg  


鴻草集落に江戸時代の豪商大黒屋の屋敷がある、何故このような土地にという疑問が残る。
街道を少し外れて薬師堂の磨崖仏を見る。鎌倉時代のものとされているが、かなり明瞭な輪郭を残しており、お顔も微笑んでいるように見える。

20101010大黒屋-.jpg  201010鴻草磨崖仏s-.jpg


浪江宿手間で西行も訪れた高瀬の清水に立ち寄る。判りにくい場所にあり、入り口には何の標識もなく、小さな屋根が掛かっている。

 陸奥の高瀬の清水 来て見れば あほいのくきの下にこそあれ(西行)

その風情は感じられなかった。

浪江宿は度重なる火事に懲りて高野宿から水に因んだ浪江宿に改称したが、その甲斐なく安政にまた大火にあって全焼。
ためにこの宿は二つの街道筋が残っているが、見るべきものは殆どない。

20101010高瀬の清水s-.jpg


浪江宿を過ぎると、西陽にコスモスが美しく、程なく出口一里塚跡。

20101010コスモスs-.jpg  20101010出口一里塚s-.jpg


陽も落ちてきて先を急ぎ、大悲山の石仏群に着いた時はほぼ闇の中。
ここには薬師堂石仏、観音堂石仏、阿弥陀堂石仏がある。

阿弥陀堂の石仏は剥落してよく分らない。肝心の薬師堂石仏は大杉に眼を奪われて見逃した。
大悲山の大杉は目通り幹周り8.6m、高さ45mと解説されていたので、前田の大杉の比ではない。

20101010阿弥陀堂s-.jpg  20101010阿弥陀堂石仏s-.jpg  20101010大悲山大杉s-.jpg  


観音堂石仏はかなり巨大で保護のためか鞘堂が掛けられている。しかし、闇の中で十一面観音坐像とされる姿は定かではない。

20101010観音堂.JPG  20101010観音堂石仏s-.jpg


目にはさやかに見えねども、仏様に様々祈願をして闇の中を小高宿に辿りつく。
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2010年10月02日

人見街道

人見街道は東京都府中市と杉並区大宮の大宮八幡神社を結ぶ街道で、甲州街道の裏街道にもなっている。
思い立ってぶらりと歩くには、手ごろな街道だ。

東府中駅からジェット戦闘機が展示されている航空自衛隊府中基地の横を抜け、新小金井街道との交差点が、街道の起点。

歩き始める前に、そばの浅間山に足を伸ばす。
この付近は南北朝時代の足利尊氏と新田氏の古戦場で、浅間山には浅間神社と人見街道の名称の謂れともされる戦国時代の武将、人見四郎の墓跡がある。

20101002浅間神社s-.jpg  20101002府中戦闘機s-.jpg  20101002人見四郎墓s-.jpg


街道沿いは大きな家屋敷が連続する。長い参道を辿って、人見稲荷神社へ。
勿論人見氏の氏神で、大宮の氷川神社の御旅所で、他にも色々な謂れがあるとか。

20101002街道沿い家屋敷s-.jpg  20101002人見神社s-.jpg


三鷹に入ると近藤勇の生家跡、娘婿の近藤勇五郎の道場の撥雲館などがある。そばの龍源寺には近藤一族の墓があり、近藤勇の墓も祀られている。
近藤勇の墓は日本あちこちにあり、中山道の板橋駅前、東海道の岡崎の法蔵寺でも見かけ、これで三つ目だ。

20101002近藤勇生家跡s-.jpg  20101002近藤勇墓s-.jpg  20101002撥雲館s-.jpg 


野川沿いには都指定の有形民俗文化財の峯岸家の茅葺の水車経営農家があるが、内部整備のためか閉鎖中だったのは残念。
川のほとり水車で我慢する。
不思議な名前の相曾裏橋の近くでは、今頃都内では珍しい川遊びをしている子供をみかけた。

川の反対側にほたるの里とうたった湿性花園と、崖線沿いに出山横穴墓がある。七世紀頃のものとか。 

20101002水車農家s-.jpg  20101002水車s-.jpg  20101002横穴墓s-.jpg


大沢あたりには街道沿いに欅が残り、往時を思わせる。
戦時中に焼夷弾によって被災した家の再建のために、多くの欅が切り出されてしまったという、つらい説明板があった。

20101002欅並木s-.jpg


三鷹市役所は良き時代のダイナミックなピロティで驚かされる、誰の設計だろうか。
三鷹の地名の謂れは、ここが徳川家の鷹場で世田谷領・府中領・野方領にまたがっていたことに由来するとか。
市役所敷地内に、移設された御鷹場の標石があり「従是東西北尾張殿御鷹場」。南以外は全て鷹場と言う事か。
これを見ると、御鷹が三鷹に変ったとも考えられるが。

20101002三鷹市役所s-.jpg  20101002御鷹場碑s-.jpg


下連雀に地名の解説があり、振袖火事とのあと火除地とされた神田連雀町から移ってきたそうだ。
連雀は昔は連尺で物を背負うときに用いる荷縄で、それを取り付けた背負子をつくる職人が多く住んでいたことから、「連尺町」の名前が付けられたと。
なるほど。

牟礼二丁目の交差点に道供養之塔がある。
橋供養碑はあちこちで見かけるが、道供養は甲州街道の笹塚で見た以外はあまり記憶にない。
街道歩きをする者としては何時も道に感謝。

秋祭りの季節で、そこかしこで祭礼が行なわれていた。牟礼の神明神社の祭りはやや寂しげだ。

20101002道供養塔s-.jpg  20101002牟礼神明社s-.jpg


玉川上水を渡る牟礼橋の横に、古いレンガ造りの橋が残っている。
ドンドン橋と言い、ここには橋供養碑があった。

20101002橋供養碑s-.jpg


神田川を越えて久我山を過ぎると、見所はあまりなく、程なく杉並の大宮八幡に着く。
ここは、鎌倉街道中道の一つが通っており、その探訪はまた次の楽しみとし、思いのほか時間が掛かってすっかり日が落ちた大宮八幡をあとにして、この日の街道を終えた。

20101002大宮八幡1s-.jpg  20101002大宮八幡2s-.jpg
posted by 遊戯人 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 人見街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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