2011年02月09日

川越街道(その1:板橋宿〜大和田宿)

川越街道は日本橋から川越までの13里と言われているが、これは「栗(九里)より(四里)うまい十三里」の、川越名産サツマイモの宣伝から来ているとも言われ、実際には十一里程度らしい。
いずれにせよ、二日かけてのんびり歩くには手ごろな街道だ。

中山道でも歩いた板橋駅前で、近藤勇の墓を再見して出発する。
板橋宿は平尾宿、中宿、上宿で構成され、商店街も平尾宿のペナントが掛かっている。これ以降、板橋区内の商店街はどこもペナントがあり、これは板橋区の方針なのだろうか。

中山道との分岐の平尾の追分は風情はなく、首都高の下の四ツ又通りは少し前は四ツ又ワインロードと言い、Zを表現したペナントだったようだ。
今はアルファベットも180度変えて「Aロード四ツ又」とイメージチェンジした。

20110205近藤勇墓s-.jpg  20110205平尾宿s-.jpg  20110205平尾の追分s-.jpg  20110205四ツ又商店街s-.jpg


山手通りを越えると、遊座大山と名付けている大山商店街に入る。
道筋は賑やかさを増し、東上線を渡ると商店街はアーケードのあるハッピーロード大山になる。どちらも元気一杯で、今時の日本では珍しい地元に根付いた昔ながらの良さを持つ活気のある商店街だ。

大山の名称の謂れは、この板橋で大山詣でが盛んでそれが地名になったと言うことで、どこにでもありそうな平凡な地名に思えるが、実は奥が深い。

20110205大山商店街s-.jpg  20110205ハーッピーロード大山s-.jpg


商店街の外れにある、大山福地蔵尊を拝んで、しばらく行くと鎌倉街道中道が交差する。
変哲のない道に見えるが、一度歩いているので懐かしい。

20110205福地蔵s-.jpg  20110205鎌倉街道交差点s-.jpg


下頭橋通りに入ると上板橋宿になる。
東上線の中板橋駅付近が上板橋宿で、東上線の上板橋駅はまだ二駅先にあるので街道の宿場名と整合しておらず混乱する。

宿場の趣はないが、昔説教強盗に入られたと言う三春屋が古さを保っており、その向かいの鳶の会社の前に「日本橋二里二十五町三十三間」の私設標識がある。好事家の方のようだ。
消防団の資材置場も粋だ。

20110205三春屋s-.jpg  20110205道標s-.jpg  20110205消防団倉庫s-.jpg


色々な名前の由来の書かれている下頭橋で石神井川井を越えて少し歩くと、今度は上板南口商店街。
工事中の環八に、大山街道の道標が移設されている。

20110205上板南口銀座商店街s-.jpg  20110205大山道標s-.jpg 


街道は下練馬宿に入り、北一商店街、きたまち商店街、ニュー北町商店街とあわただしく名前を変える。

20110205北一商店街s-.jpg  20110205北町商店街s-.jpg


きたまち商店街のシンボルは馬のようで、なぜ馬かと言うと、これは商店街にある浅間神社の説明に
 ・・・下練馬宿は「川越道中ノ馬次ニシテ、・・・」と書かれているような事からだろう。
ボラードも鋳鉄性の馬だった。
浅間神社には富士塚があり、少し先の北町観音堂には良いお顔の聖観音、珍しい石製の仁王などが祀られている。

20110205馬のボラードs-.jpg  20110205浅間神社富士塚s-.jpg  20110205聖観音s-.jpg


大山から続いた長い長い商店街を歩き終えて、国道に出て地下鉄赤塚駅横ではこれも以前歩いた鎌倉街道中道のバリエーションルートの騎馬像を再見。この日二つ目の鎌倉街道だ。

20110205鎌倉街道碑s-.jpg


成増駅を過ぎて新田坂を下ると、白子川には半生を白子で過ごしたという清水かつら作詞の「くつが鳴る」の歌詞が刻まれている。この川を渡ると白子宿。

20110205白子橋s-.jpg


白子宿で鎮守の熊野神社に立ち寄る。
ここはまことに東京とは思えない異次元のパワースポットのような不思議な場所。
境内には富士塚があり、隣接した清龍寺不動院は伊賀忍者の監督を務めたとも言われ、乃木大将が日露戦争のときに参籠修行したという不動の瀧がある。当日も水垢離の修行をしている人が見受けられた。
更に開運利益洞窟めぐりというものもある。洞窟の中にはお稲荷さんが鎮座していた。

20110205熊野神社s-.jpg  20110205熊野神社富士塚s-.jpg  20110205清龍寺洞窟s-.jpg  20110205洞窟内稲荷s-.jpg


白子中宿本陣冨澤家は郵便局に変わっているが、大坂の途中には立派な旧家がありこれも冨澤家。
くらやみ坂を下ると、今度は代官だった旧家の柳下家。隣には場違いなデザインのアパートが建てられているがこれにはDaikanとプレートがつけられていた。

20110205白子宿旧家s-.jpg  20110205柳下家s-.jpg


白子の地名の由来は、新羅が変化したと言われる
奈良時代、武蔵国には高麗郡、新羅郡が置かれ、新羅は志楽・志楽木・志羅木、志木、新倉などとも表記し平安時代の頃には新座郡と記された歴史を持っている。
この辺はこれらの地名が様々な形で残っている。

膝折宿に入ると一乗院には、案内に今度は高麗由来の建立が記されている。

・・・716年駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野ノ7国ノ高麗人、1799人ガ武蔵国(現在の入間付近)ニ移住シ、高麗郡ガ置カレタ。ソノ後戦乱アリテ高麗ノ城陥レリ時、主将某ハ敵ノ為ニ討レ畢ヌ。家臣5人遁レテ落人トナリ此ノ膝折ノ地ヘ来レリ、其頃ハ只原野ナリ。彼ノ5人ノ者力ヲ合ワセテ遂ニ家ヲ作リ居住ノ地トセリ、高麗氏ヲ家号トセル者アリ、ソノ時乱世ノ平和ニ立チ還エル事ヲコイ希イ、且世ノ人々ノ後生ト縁者ノ菩提ヲ願イテ守リ本尊タル11面観世音菩薩ヲ勧請安置シ一宇ヲ建立ス・・・

膝折宿には現在も高麗の姓を名乗る人が多く、脇本陣跡の村田屋も高麗姓だった。
隣接した二つの宿が、一方は新羅由来、一方は高麗由来と言うことになるのがまことに不思議で、調べると疑問が次々沸き起こりそうだ。

20110205一乗院s-.jpg  20110205村田屋s-.jpg


宿場を抜けると野火止に入り「横町の六地蔵」を過ぎると、紅葉を見に来た事もある名刹平林寺の寺号石がある。

20110205六地蔵s-.jpg  20110205平林寺寺号石s-.jpg


比較的短い距離だったが、元気な商店街、新羅と高麗の渡来人の今に繋がる歴史の深さなど噛み締めながら、これも新羅由来の新座駅で打ち止めた。


posted by 遊戯人 at 17:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 川越街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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