2011年03月05日

下田街道(その1:三島〜修善寺)

東日本大震災といまだ全く終息の気配の見えない原発問題で、街道の記録も手付かずなままだったが、少し書く気力も戻り始めた。

何一つ解決しない原発問題だが、季節は巡る。

下田街道は東海道の三島宿の三嶋大社前から分けれて、下田まで68kmほどの街道で、富士を背に春先に歩くにはもってこいの街道だ。

三島は三島溶岩流の先端下から湧きでた富士山の被圧伏流水の湧水の町で、三島駅から三嶋大社への道は町の人々が協力して川をさらっている風物が見られた。
柿田川もそうだが、ここでも水に対する誇りが感じられる。

 富士の白雪ノーエ  富士の白雪ノーエ
  富士のサイサイ  白雪朝日でとける
 とけて流れてノーエ  とけて流れてノーエ
  とけてサイサイ  流れて三島にそそぐ

20110305三島湧水s-.jpg


伊豆一の宮の三嶋大社でまずは旅の安全祈願をし、珍しいたたり石を見る。この石は神社前の東海道に置かれていて、行きかう人の流れの整理をしていたと。
街中の下田街道は整備されており、歩行者に優しい道となっている。

20110305三嶋大社s-.jpg  20110305s- たたり石.jpg  20110305三島の下田街道s-.jpg


手無し地蔵の境内に唯念名号塔がある。何となく愛嬌のある書体だが下田街道では頻見し、唯念は生涯に一千を越す碑を建てたといわれている。

20110305唯念名号塔s-.jpg


大場川では振り返れば流麗な富士。

20110305富士s-.jpg


間宮の廣渡寺に侠客大場の久八の墓を詣でる。
久八は江川太郎左衛門が品川沖にお台場を造営したとき、東海一の親分として数千人の人夫を指揮して完成させた。今は臨海副都心の一部となっている台場も伊豆由来という訳だ。

原木駅付近で寄り道をして、「吾妻鏡」に出てくるという、頼朝が山木兼隆襲撃に際し通った道の牛鍬大路を見る。区画整理されて農道となっているがいかにもそれらしい道だ。

姫型道祖神を見つける。
これも唯念名号塔と同じで伊豆半島では数限りなく現れるが、なぜ姫型なのかは不明。

20110305大場久八墓s-.jpg  20110305牛鍬大路s-.jpg  20110305姫型道祖神s-.jpg


韮山では、街道を外れると江川邸、蛭が小島、反射炉などがあるが以前訪れたので今回は省略し先を急ぐ。

北条政子産湯の井戸、足利政知の伝堀越御所跡、北条時政の墓のある願成就院など韮山付近には見所が多い。親の時政と子の政子の生死の史跡が期せずして殆ど同じ場所にあるのは不思議。
政子の墓は鎌倉の寿福寺にあり、これは尼将軍として権勢を誇った政子のものとも思えない粗末なやぐらだが、ある意味産湯の井と対峙している。

20110305北条政子産湯の井s-.jpg  20110305北条時政墓s-.jpg


直ぐ傍の狩野川沿いには北条氏邸宅跡があるが、調査途上のようで荒れたまま放置されている。
「夏草や兵どもが夢の跡」の鎌倉幕府版だ。

20110305北条氏邸宅跡s-.jpg


田方郡は田方条里という条里制の痕跡が残っており、田京駅付近の六角堂跡では下田街道は不可思議に直角に折れ曲がり、現道と見事に45度で交差する。
これはこの条里そった道で、律令時代の痕跡を知るのも街道歩き。

20110305条里制の道s-.jpg


広瀬神社からは富士が美しい。

20110305広瀬神社からの富士s-.jpg


大仁駅を過ぎ、狩野川を渡ると大仁金山の看板が見える。この金山は昔は瓜生野金山で五街道を整備した大久保長安によって開かれ、金山奉行であり伊豆奉行でもあった長安のもう一つの顔。

立派な長屋門を過ぎ、暗殺された二代将軍源頼家縁の笠を被った横瀬愛童将軍地蔵を見て、狩野川を渡り返し、修善寺駅で初日を終えた。
鎌倉幕府に関係した史跡が多い一日だった。

20110305大仁金山s-.jpg  20110305長屋門s-.jpg  20110305横瀬愛童将軍地蔵s-.jpg


posted by 遊戯人 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 下田街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。