石の上の溝が蛇の形で、そこに溜まっている水が枯れると旱魃になるという蛇地蔵。幸いなことに水は枯れていない。


街道は長閑な景色を楽しみつつ稲梓川沿いに進み、箕作(みつくり)に戻り着く。
箕作という地名は、謂れがありそうだ。
案の定、礪杵道作(ときのみちつくり=大津皇子の家来)が、大津皇子事件の際に朱鳥元年(686年)に謀反の罪でこの地に流罪となり、その後、居住したことが由来してついた地名と。
途中、道作八幡宮もあったようだが、立ち寄らなかった。
伊豆は源頼朝、日蓮や文覚など流罪の地だが、礪杵道作は伊豆の国へ流罪を受けた最初の人。1300年前の流刑人が地名に蘇る。


箕作を抜けると、行基の開山とされる米山薬師がある。
日本三大薬師の一つと謳っているが、とてもそのような気配は見えず、残りは越後と伊予の薬師というがこれも諸説ある。

この辺に、廻国塔や巡拝塔が多い。
廻国塔は全国六十六箇国を巡り大乗妙典を奉納、巡拝塔は西国・四国・秩父・坂東の観音霊場を廻った記念なのでいずれにせよ、気楽な街道歩きとは違った苦労が偲ばれる。
下田に近づくと、唐人お吉が身投げしたというお吉ヶ淵に御堂と、お吉を悼んで新渡戸稲造が建てたお吉地蔵がある。新渡戸稲造が何故、お吉を殊更に悼んだのだろうか。
から艸の浮名の下に枯れはてし 君が心は大和撫子


向陽院は枝垂桜が美しく、風待ちの港として栄えた下田に全国の船頭が安全を祈願したという夥しい地蔵が奉納されている。

下田富士を眺めながら、街中に入り、下田街道の終着点の「みなと橋」で旅を終える。


お決まりの、ペリーの碑や吉田松陰にまつわる史跡、唐人お吉の墓や坂本竜馬由来を売り物にするあざとい宝福寺など見て散策。
稲田寺の安政の東海地震の犠牲者を供養する津なみ塚が、東日本大震災後だけに心に重く響き、下田駅前は休日にもかかわらず震災の影響で火の消えたような寂しさだった。



流刑の地の歴史を背負った伊豆半島は、たおやかな自然とは裏腹に、震災の影響ばかりではない温泉地の衰退は見るも無惨で、その中を貫く下田街道に拡がる光景は、震災の前と後で季節の歩み以外は何一つ変化のある筈もないが、見る者の心は大きく揺らぎ、刻み付けられる記憶も変転する。
春の陽光にもかかわらず、どこか冷めやかに見える光景は、行く末も決して同じものではあり得ず、その時の心はどう移ろふか。
移ろいは「うつろひ」であり、うつろひは「虚ろひ」でもあり「空ろひ」だ。
小野小町は花の色はうつりにけりなと詠い、藤原定家は本歌取りをするが、どちらも「身はいたずらに」だ。
たづね見る花のところもかはりけり 身はいたづらのながめせしまに(藤原定家)
いたずらにでも、移ろいを確かめに、まだ少し先に進んでみる。