箱根の道では碓氷道、足柄道に続き三番目に古く初めての箱根越えの道とされる。
十六夜日記の阿仏尼や伊勢物語の在原業平も通ったといわれるが、伊勢物語のどこかに記載があるのかは不明。
坂は上りたくなるが、今回精進池から下り始める。
この辺は箱根駅伝の最高地点で、登り坂を苦しみながら走り切ったランナーが下りの走法にギアチェンジして一気に転がるように走り下る転換点。
そしてこの池の周辺は賽の河原で、様々な石造物が残されており、「この山には地獄とかやありて、死に人常に人に行きあひいて」の世界を髣髴とさせる。

六道地蔵の壁銘文には正安2年(1300年)と書かれており、平成4年の発掘調査までは下部座は埋もれていたとの事。復元された覆屋に収められており良いお顔の地蔵様だ。
十六夜日記の阿仏尼は弘安2年(1279)に出立しているので、その時はない。

精進池の周りに次々に石造物が現れる。
次は「宝篋印塔残欠 八百比丘尼の墓」なぜ八百比丘尼かこれも不明。復元されている。
「応長地蔵」、「多田満仲の墓」。



二十五菩薩。 みな良く残されていて美しい。
「曽我兄弟・虎御前の墓」などは、伝承としても何故ここに。



芦之湯で、再建された東光庵を見る。
茅葺屋根の上に草やアヤメが咲いており、いまどき珍しい「芝棟」となっている。
この庵は蜀山人、安藤広重、本居宣長も遊んだといわれ、敷地内には文筆に関する碑などが整備されている。
いまの庵主は中曽根康弘で、あちこちにあると思われる「くれてなお命の限り蝉しぐれ」の句碑がある。
昨年の「東光庵句会」では庵主として「長命を畏れかしこみ朴の花」と詠んだそうで、枯れてきた。



国道から湯坂道への入口に標識があり、最初は気楽なハイキングコース、鷹ノ巣山などを越えると石畳の道も現れ、結構歩きにくい。
この石畳は、旧東海道のものと違い、鷹ノ巣山付近のものは明治時代、浅間山から湯本に掛けての石もまだ新しいものは昭和期のもので、郵政省が敷設したケーブルの保護のために設置し、旅人のためではなかったようだ。
してみると阿仏尼は土の道を歩いたか。



鷹ノ巣山には秀吉の小田原攻めに備えた鷹ノ巣城跡があるというが、その城跡については位置、規模など不明の点が多い。湯本近くの湯本城跡は土塁を路がかすめている。
十六夜日記は「いとさがしき山を、くだる人のあしもとゞまりがたし。ゆさかとぞいふなる、からうじてこえはてたれば、・・・」と記されているが、湯本城跡からはその通りのきつい下りなり、阿仏尼の苦労が思いやられた事だった。
