2011年11月22日

品川道・筏道(その2:二子玉川〜大井)

二子玉川は大山街道が通っており、以前歩いた折に筏道の碑を見た記憶があった。
続きを歩く前にまず、その碑を確認に。

碑は次大夫掘(六郷用水、丸子川)の次大夫橋の袂にあって、「右 むかし筏みち むかし 大山みち」と彫られている。
二子玉川郷土史会が建てていて、大山道が前面の通り、碑に向って次大夫掘沿いの道を右に行くと筏道に繋がると言う意味なのだろうか。かなり趣旨不明だった。

246号を越えると六郷用水沿いの道は国分寺崖線沿いに続き、「左西赤坂道、南大山道、右東目黒道」と彫られた大山街道の道標がある。

横に玉川地団協が建てた「南大山道道標」と彫られた石柱があるが、本物の道標の「南」は単に方角を示しているだけで南大山街道と言う街道はなく、石柱の「南」は余分。
この用水沿いの気持ちの良い道は以前歩いた鎌倉街道中道でもあり、途中で鎌倉街道は上野毛方面へ分岐する。

2011112筏道碑s-.jpg  20111112大山街道道標s-.jpg  20111122六郷用水沿いの道s-.jpg


用水の北側に面する住宅には接道がなく、自費で掛けたらしい橋が一軒ごとについている。
そこが軒並み駐車場代わりに使われているのも、不思議な光景だ。

20111122駐車橋s-.jpg


川沿いにある善養寺に詣でる。
善養寺は都内でも有数のカヤの巨樹があるが、境内は意味不明の石像が沢山あって不思議感が横溢している。
ここで「みきハ京三ち」と刻まれた道標を発見する。
この道標の文字は、前回歩いた時に砧南小学校の寝の石碑に刻まれているものと同じで、善養寺のものは下部で継いでいるのでいるので本物らしい。
誰が砧南小学校前に、碑を建てたのか、そもそも何故善養寺に本物の碑があるのかも謎のまま。

20111122善養寺s-.jpg  20111122善養寺カヤs-.jpg  20111122善養寺道標s-.jpg  


真新しく立派な五重塔のある、伝乗寺に立ち寄る。
道端の壁に塗り籠められた、庚申塔も愛らしい。

20111122伝乗寺s-.jpg  20111122庚申塔s-.jpg


宝莱山古墳、多摩川台古墳群、亀甲山古墳などを見学。
一番大きく、国の指定史跡でもある亀甲山古墳が発掘されていないのは何故か不思議。
多摩川台公園の一角に古墳展示室があるが、人影は見られなかった。

多摩川園駅の傍の、北条政子縁の浅間神社も古墳の上に作られている。

20111122発掘品s-.jpg  20111122浅間神社s-.jpg  20111122多摩川3s-.jpg


街道はここから中原街道を戻って洗足池へ繋がり、そこから東に向かい大井へ至る。
洗足池は色々な史跡があって興味深いが、中原街道を歩いた時に見ているので省略して先を急ぐ。

この道は典型的な尾根道で、昔ながらの心地よいスケールの地元の商店街が続き、荏原駅のそばに、天保二年銘の品川道の道標がある。

街道沿いに伊藤博文の墓所があるが、公開されておらず敷地には入れない。

20111122商店街s-.jpg  20111122品川道道標s-.jpg  20111122伊藤博文墓s-.jpg


池上からの鎌倉街道下道を歩いた時に見逃した、光福寺の「大井の井」に脚を伸ばす。
了海上人の産湯の井と言われ、地名の大井はこの井戸に由来するとも言う。

寺には善福寺の逆さ銀杏の一枝を植えた兄弟銀杏があり、明治時代までは漁民の航行の目印ともなっていて、区随一の巨樹という。
これを見て歩き終えた。

20111122大井の井s-.jpg  20111122光福寺s-.jpg  


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2011年11月15日

品川道・筏道(その1:府中〜二子玉川)

品川道・筏道は府中の国府から、品川へ至る古道で「品川道」の名称は大國魂神社の祭礼に使う清めの水を品川の海から運んだ事によるといわれている。
この祭礼は暗闇祭りで、今も品川の海で水を汲む行事は「品川海上禊祓式」として受け継がれている。

筏道の名称は、近世多摩川の筏乗りが、多摩川上流から材木を運びその帰りに使ったという事から名づけられており、帰りには、長い竿を担いで戻ったということだ。

古来から府中といわれていながら、武蔵国府跡が特定されたのは比較的最近で昭和50年以降の発掘調査により、大國魂神社とその付近が跡とされている。
現在は国衙部分が史跡となっており公開されている。
まず、ここを見てから大國魂神社へ。

大國魂神社は起原が西暦111年といっているので、国府の設置よりもはるかに古いことになり、この辺はどうだろうか。

随神門が新築されていて白木が美しいが、以前はどのような門だったのか記憶がない。
11月は酉の市が行われているため、周りも何となく賑々しい。

20111115国衙跡s-.jpg  20111115随神門s-.jpg


京所道という道を歩き始める。
京所道は”きょうづみち”と読み、国府の写経場があった経所(きょうしょ)の名残という。

府中競馬場を過ぎると、八幡道といわれる武蔵国府八幡宮への道になる。八幡宮は「一国一社の八幡宮」だが、小ぶりで広い境内の中にひっそりと佇んでいる。

20111115京所道s-.jpg  20111115武蔵国八幡宮s-.jpg


京王線をわたると「品川街道」と表示されたの標識が現れ、すぐに常久一里塚跡。
案内板に古地図が掲載され、「古道但し品川海道」と記載されている。
さらに説明には「この常久一里塚跡は、江戸初期に整備された甲州街道の日本橋から七里のところに設けられた一里塚の跡と伝えられているものである」とあって、かなり混乱する。
この説明だと、品川道は旧甲州街道と同じものということになるが、旧甲州街道は一筋北のルートを通っていて、整合しない。
五街道の整備以前に既に一里塚はあったので、多分府中市の説明は誤解に基づくものだろう。

20111116品川街道標識s-.jpg  20111115常久一里塚s-.jpg  20111115説明板s-.jpg


府中第四小学校の敷地の角に東品川道、西府中道、北車返村と刻まれた庚申塔がある。
「車返」という地名が珍しいが、頼朝の奥州征伐のときの藤原秀衡の持仏の移動時のお告げによって乗せていた車を返した事に由来するというから侮れない。

20111115庚申塔s-.jpg


調布市に入ると道路標識が「旧品川みち」に変わる。
調布の地名自体が租庸調の調として苧麻などを原料として織った布を生産したとこから由来し、この辺は飛田給という地名もあり、これも悲田院の給田の「ひでん」が飛田と変わって、更に読みが「とびた」となったという説がある。
いずれにせよ、曰くのある地名が続いている。

20111115旧品川みち標識s-.jpg


旧道と新道の分岐もいかにも旧街道で、なぜか楽しい。

伊豆美神社に寄り道する。伊豆美は付近の地名の和泉の美称という。
狛江市の石造鳥居では一番古いという珍しい背の低い鳥居があり、領主の一族の石ヶ谷貞清が、由井正雪・丸橋忠弥らを討伐した奉斎として寄進したものという。丸橋忠弥の墓は鎌倉街道沿いの都内の金乗院で見た事を思い出した。

29111115街道分岐s-.jpg  20111115伊豆美神社鳥居s-.jpg


狛江市では道路標識は更に「品川道」に変わる。
世田谷区に入ると、今度は史跡などでの表記はまたまた「いかだ通」に変貌する。
夫々の自治体の見識があるのだろうが、他と変えたいという、狭い了見ばかりが鼻に付く。

20111115品川道標識s-.jpg


世田谷通りを越えると、文政4年に女念仏講中によって建てられたという珍しい念仏車がある。車には「南無阿弥陀仏」と彫られていた。

20111115念仏車s-.jpg


砧南小学校の前に不思議な道標があった。
真新しい碑に「みきハ京ミち ひ多りハふしミみち」と彫られている。
何の解説版もなく、何故ここにこのような碑があるのか全く不明。

日も暮れて二子玉川へ急ぎ、以前大山街道を歩いた時に「筏道」と記された碑があったこと思い出し探したがこれも闇にまぎれて不明。

煌々と明るい二子玉川のライズで一気に現代に戻り、トリビアなことで興味が湧いた今日の街道を終えた。

砧南小学校前碑s-.jpg  二子玉川ライズs-.jpg


ところで、この街道は、荻窪圭という方が書いた「東京古道散歩」という本を参考にして歩いていた。
念仏車の先の喜多見付近で道迷いし、本を片手に通りすがりの人に道を聞いていると、「その本は私が書きました」といって、ビアンキに乗った荻窪圭ご本人が忽然と現れたのには驚いた。

立ち話をして、街道と同時にT系も堪能ということも知ったが、「古地図と巡る東京歴史探訪」という本も書かれているということで早速購入。
笑顔の素晴らしい方で、きっとまた面白い視点の街道の本を出してくれるのではないかと期待している。
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2011年11月12日

三国街道(その1:高崎宿〜渋川宿)

中山道を歩いた時、鎌倉街道上道を歩いた時に夫々立ち寄った高崎の城址公園の櫓に挨拶し、暫くは中山道を歩く。
繁華街の駐車場に中山道絵巻の看板が設置されている。
ここは2002年4月に歩いており、看板は同じ年の3月に設置されているので見ている筈だが記憶にない。思えば遠くに来たものだ。

20111212高崎城櫓s-.jpg  20111212中山道看板s-.jpg


中山道との追分の本町一丁目には中山道高崎宿の貧弱な標識があるが、三国街道はさらに冷遇され見当たらない。
県道表示も渋川街道となっており、信越本線の踏切でようやく三国街道踏切の表示に出会うことができる。

20111212高崎宿標識s-.jpg  20111212渋川街道標識s-.jpg  20111212三国街道踏切s-.jpg


飯塚町から旧道に入り、下小島町の先に「右越後」と刻まれた立派な道標があり、ようやく旧街道らしくなる。

20111212三国街道碑s-.jpg


豪壮な畔見邸、立派な三ッ寺公園、群馬町中央公民館にある県内最古と言う三国街道標識など確認しながら歩く。

21111212畔見邸s-.jpg  20111212三ッ寺公園s-.jpg  20111212県内最古三国街道道標s-.jpg  


高崎宿から最初の宿場の金古宿に入ると、道は再び県道25号線となるが、道の左右には昔の養蚕農家と思われる旧家が散在する。
代官所だった神保家は荒廃しているが、まだ人が住んでいるようだった。栄枯盛衰世の習い。

20111212神保家s-.jpg  20111212金古宿旧家s-.jpg 


清野町に入ると道の東側の住居は道に面して土蔵が多いが、榛名山からの西風を防ぐためにそういう配置となっているという。

20111212金古宿蔵s-.jpg


再び旧道は県道を外れ野田宿に入るが、これは伊香保街道の宿場。
伊香保街道との交差点には、東を向いて比較的新しい感じの双体道祖神があるが、意外にも安永2年のもの。
多分道の拡幅で移設されたものだろう。この辺は双体道祖神が多い。

吉岡町付近では左に榛名、右に赤城と二つの山塊が目を楽しませる。この景観は今も昔もこれからも変わらない。

20111212双体道祖神s-.jpg  20111212榛名山s-.jpg  20111212赤城山s-.jpg


三国街道で始めて眼にする、野田の一里塚は二代目。

20111212野田の一里塚s-.jpg


見事な防風垣のある立派な旧家を過ぎて、馬頭峠で四頭の馬が守っている珍しい馬頭観音を見る。江戸時代に篤志家が寄贈したと。
ここからは日の入る前の残照の赤城を眺めながら、利根川の河岸段丘を下って渋川駅は一息だった。

20111212旧家s-.jpg  20111212馬頭観音s-.jpg  20111212赤城夕時s-.jpg
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