2012年06月15日

大山街道柏尾道

大山を目指す大山道は数多くあり、関東近辺の街道を歩くとその名残にしばしば遭遇する。
柏尾道は、その中でも比較的メジャーで、東海道戸塚宿手前の柏尾の不動坂で東海道から分岐して下糟屋で矢倉沢往還と合流する。

取り掛かって放置状態の大物の北国街道や、三国街道をひとまず置いて、この大山街道のバリエーションルートを歩いてみた。

柏尾道に入る前に、東海道沿いの益田家のモチノキに再会する。ここを歩いたのは既に11年も前になり一際懐かしい。

直ぐに柏尾不動堂が現れ、多くの道標が残されている。
堂の前には休憩のための桟敷が設けられているのが有難く、カラーコーンに「柏尾町大山年参講」とあり、町内にまだ講中が残っている事を窺わせた。

20120615モチノキs-.jpg   20120615柏尾不動堂s-.jpg  20120615柏尾町カラーコーンs-.jpg
 

東海道線を大山跨線橋で越えるが、付近には大山と言う地名はなく、この名前は道が大山街道であった事を示しているに違いないが、それに気づく人は殆どいないだろう。

20120615大山跨線橋信号s-.jpg 


阿久和川沿いの旧道は、車の入らない緑道となっていて気持ちが良い。
不動橋で向導寺裏の富士塚に立ち寄る。結構立派な塚だが残念ながら手入れされている気配は全くなく、雑草の生い茂るにませていた。

20120615阿久和川緑道s-.jpg  20120615富士塚s-.jpg


不動橋を渡った永明寺別院の前には、不動明王を戴いた道標。
大山街道では有名な三軒茶屋の道標を始めとして、不動道標はありふれているが、他であまり見た記憶がないので大山街道独特のものだろうか。

20120615永明寺別院前庚申塔s-.jpg


中川地区センターの駐車場に、石碑群が集められている。この街道はとにかく石碑が多い。
道は泉区総合庁舎付近で長後街道と合流し、その付近に珍しい蚕御霊神塔がある。。
蚕神碑は結構あちこちで見かけるが、蚕御霊神塔は霜害で桑が枯れて蚕を育てられなくなり、蚕を埋めてしまったことの供養と言う。

20120615石碑群s-.jpg  20120615蚕御霊神塔s-.jpg


道端の空き地の中に庚申塔がある。
元々は街道沿いにあったものが移設されたのか、そもそもこの庚申塔の前が街道だったのか。

20120615空き地の庚申塔s-.jpg


境川手前で鎌倉街道上道と交差する。鎌倉街道上道を歩いた時のおぼろげな記憶が蘇る。
境川はその名の通り相模と武蔵の境の川で、この辺は横浜市と藤沢市の行政境となっていて、河岸は瀬谷駅付近から江の島まで辿る事が出来るサイクリングロードがある。
どうという事のない川だが、自転車でも走っているのでここも懐かしい。

20120615境川s-.jpg


小田急江の島線を越えると仙元塚がある。仙元塚は浅間塚で、富士塚とされている。
富士塚自体は、宝永の噴火の灰を集めて造ったと言われるが、今は笹に覆われ、富士塚とは言いがたい低さとなっている。

少し歩くと長後市民センターで、ここにも多くの石碑が集められている。

20120615仙元塚s-.jpg  20120615石碑群1s-.jpg


引地川を渡って棚を上り返し、旧長後街道に入ると工場の塀の一部が透明になっていて、内部に御所見塚の説明版と石碑がある。何故説明版を道路に出さないのかは不思議。
本来は桓武天皇の桓武天皇の第二皇子、葛原親王が葛原の地に下向された際に造られた御所を眺める事が出来た円墳があったと言うが、今は整地されて跡形もない。

20120615御所見塚跡s-.jpg


中原街道と交差する用田の辻に不動道標がある。ここがこの日に出会った歩いた事のある街道三つ目。
不動は良い表情だが、道標の「右大山道」と言う文字は落剥して殆ど判別出来ない。

20120615用田の辻不動道標s-.jpg


居合橋への道筋には、光背が赤く彩られた不動道標や美しい苔に囲まれた道祖神がある。

20120615赤の大山道標s-.jpg  20120615苔の道祖神s-.jpg


相模線を越えると渋谷神社がある。神社と言いながら鐘楼があり、神仏混淆の名残りだろう。
海老名市の重要文化財の本殿は彫刻が部分的に彩色されており、異彩を放って見える。

20120615渋谷神社鐘楼s-.jpg  20120615渋谷神社本殿s-.jpg


道は相模川の戸田の渡しに向っていく。
河川敷に入る手前に銀杏の木に守られるように、道路の真ん中に不動道標があり、交通の邪魔この上ないが移築されずに良く残ったものだと感激する。
さがみ縦貫道が建設中の相模川を渡ると大山も間近。

20120615戸田の渡し不動道標s-.jpg  20120615戸田の渡し不動道標1s-.jpg  20120615さがみ縦貫道s-.jpg

渋谷川沿いからは大山が良く見える。
小田急を越えた下糟屋で、矢倉沢往還と合流する。
矢倉沢往還を歩いて、大山阿夫利神社まで登ったのは5年前になる。この道はいつか来た道、もう一昔前の感慨が新た。

20120615大山s-.jpg  20120615下糟屋青山道合流点s-.jpg

流石に一日で大山に登るのは難しく、下糟屋の追分から、矢倉沢往還を逆に辿り愛甲宿まで歩いて今回の街道を終えた。
5年前は、何のために阿夫利神社に行ったのかと思い出しながら。


posted by 遊戯人 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 大山街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月07日

鎌倉三十三観音巡り(その1:金沢街道付近)

観音巡りは街道歩きとは趣旨が異なるが、道を辿りながらの仏を参るのは、街道歩きにさも似たり。
鶴岡八幡から一番札所の杉本寺さらに光触寺への道は金沢街道で、朝比奈切通しを越えて六浦へ続く。
これは取りも直さず、鎌倉街道下道そのもの。

■杉本寺(第一番札所)
一番札所の杉本寺は天平6年(734)建立で鎌倉一の古社といわれるが実際は坂東三十三観音巡りの札所第二番の岩殿寺のほうが古いらしい。
開山は行基、本尊も行基、慈覚大師円仁、恵心僧都源心の三人が作った言われる三体の十一面観音でいわゆる三尊同殿。その有難さは言わずもがな。
行基のものは、寺の前を不信心者が乗馬したまま通ると、必ず落馬するので、それが十一面観音に覆面をさせることで収まったという言い伝えのある覆面観音でお顔を御拝むことは出来ない。
本堂内は撮影禁止。

杉本寺は坂東三十三観音霊場の発願寺でもあるので、信心深い方々が今も巡礼装束に身を固めてお参りしている姿が見うけられた。

本堂横に五輪塔群があり、南北朝時代、南朝側の北畠顕家との戦乱で敗れた足利側の斯波一族の供養塔と。
今はもう上る事の出来ない、苔生した階段がいつも美しい。

20120509杉本寺1s-.jpg  20120509杉本寺2s-.jpg  20120509杉本寺3s-.jpg


ご朱印には「鎌倉最古佛寺地杉本寺」と捺されているが、どうだろうか。

20120509杉本寺御朱印s-.jpg


■報國寺(第十番札所)
永享の乱で足利持氏の嫡子、足利義久がここで自害し関東足利公方終焉の悲劇の寺とされるが、今は昔の歴史は忘れ去られ、竹の寺として有名だ。
真新しい薬医門を入ると、整えられた庭と苔が迎えてくれ、宝暦七年(1757)創建の茅葺の鐘楼が見事な存在感。
呼び物の竹の庭では、中に茶席休耕庵があり御抹茶も頂けるが、以前その風情をじっくりと拝見したので今回は遠慮した。

20120509報国寺本堂s-.jpg  20120509報国寺鐘楼s-.jpg  20120509報国寺庭s-.jpg


ご朱印が、報國寺でなくて報国寺と記されていたのは、少し残念だ。

20120509報国寺御朱印s-.jpg


■浄妙寺(第九番札所)
鎌倉五山の一つで七堂伽藍を備えた大寺院だったが、今はその面影はない。
だが、周辺の地名は文字は異なるが、この寺にちなんだ浄明寺で昔日の勢力が窺える。
今は江戸中期に再建されたむくりの美しい本堂があり、つい最近復興された茶室の喜泉庵には枯山水の庭もある。
本堂裏手には、足利尊氏の父の足利貞氏の墓とされる宝篋印塔。

この寺の裏山に藤原鎌足が鹿島詣での際に鎌槍を埋めたという事が、「鎌倉」の地名のいわれという説もある事を後で知った。

20120509浄妙寺宝篋印塔-s.jpg  20120509浄妙寺s-.jpg  20120509浄妙寺御朱印s-.jpg


■明王院(第八番札所)
杉本寺と同じに古びた茅葺のお堂が本堂だ。
寺域は小さいが風情がある。以前訪れた時は、境内は撮影可能だったが、今は禁止となってしまっていた。
話を伺うと、マナーをわきまえないアマチュア写真家が処かまわず踏み入って、三脚を立てるので住職が禁止にしたとの事。
浄妙寺でも中高年の男女のグループが本堂前の石段にどっかりと腰掛けて弁当を広げており、常識のない行動に驚いた。
こういう方達は遊園地も社寺仏閣もその差はなく、多分ビジネス以外の世界の常識を知らずに仕事から引退したのだろう。
団塊の世代の本格的なリタイアが始まっているので、宗教の世界もおちおちしていられない。

鎌倉幕府の鬼門を守り、鎌倉将軍発願によって建立された市内に残る唯一の寺とされる。
鎌倉三十三観音札所の事務局のお寺とも言うが、どのような事をしているのかは不明。

20120509明王院s-.jpg  20120509明王院御朱印s-.jpg


■光触寺(第七番札所)
本尊の阿弥陀如来は、盗みの疑いがかけられた法師の身代わりになり、顔の左に火印があるという「頬焼阿弥陀」という由来があるそうだが、確認は出来なかった。

境内に塩嘗地蔵がある。
これはもとは金沢街道沿いにあったものが移されたということで、六浦の商人が鎌倉に塩を売りに来た時に塩を地蔵にお供えしていたところ、いつも帰りにはなくなっていたという。
塩の道とも言われる、金沢街道の歴史を伝えている。

20120509光触寺-.jpg  20120509光触寺本尊s-.jpg  20120509塩嘗地蔵s-.jpg


ご朱印は住職ご本人が書かれ、このような寺は余りないという事を仰っていた。

20120509光触寺御朱印s-.jpg


■永福寺跡(番外)
瑞泉寺へ辿る二階堂の道筋に永福寺跡がある。
頼朝が義経や藤原泰衡らの供養のために建て、平泉の中尊寺二階大堂を模した大寺され、二階堂の地名もそれに由来する。

応永12年(1405)に焼失し、ここもつわものどもの夢のあとだったが、発掘調査がされ復元整備の準備がされている。
池と橋、基壇が復元されるようで、そのための新しい礎石が準備されていた。
鎌倉は世界遺産への登録を目指しているので、作業の進捗が楽しみだ。

20120509永福寺跡碑s-.jpg  20120509永福寺礎石s-.jpg


■瑞泉寺(第六番札所)
二階堂の奥、錦屏山を背景に紅葉ヶ谷にある瑞泉寺は、その取り巻く地名だけでも風雅の極み、山門を入っての参道の美しさもおそらく鎌倉随一ではなかろうか。

夢窓疎石により開山され花の寺として有名だが、今は残念ながら花は端境期。
本堂裏の庭は夢窓疎石の作庭で、国指定の名勝。鎌倉に残る鎌倉時代唯一の庭園とされるが、この庭は旧来のものではなく、昭和になって発掘復元整備されている。
祠のある凝灰石の岸壁を背景とし、池も岩盤を刳り抜いた岩の庭だが、緊張感や構成の妙を感じる事はなく、感慨を与えるものは少ない。

20120509瑞泉寺参道s-.jpg  20120509瑞泉寺本堂s-.jpg  20120509瑞泉寺庭s-.jpg


この寺は鎌倉公方足利家の菩提寺でもあり足利基氏の墓などがあるようだが、見る事は出来ない。
寺には多くの人が足跡を残しており、吉田松陰もその一人。
寛永6年(1853年)の六月、ペリーの一回目の浦賀への黒船来航を見た後に伯父の住職竹院和尚を訪れている。二人は何を語らったのか。
翌、安政元年(1854年)にペリーの再訪時に密航を企てその結果獄死したのは周知の事実。
境内には「松蔭吉田先生留跡碑」がある。

20120509吉田松陰碑s-.jpg


水戸光圀も関連が深く、札所本尊の千手観音を奉安しており、確かお手植と言われる冬桜もあった筈。
本堂は僅かに開かれており、千手観音は阿弥陀如来の左に安置されていた。

20120509瑞泉寺千手観音s-.jpg


鎌倉は協定があるのか、御朱印料はどこでも300円だが、瑞泉寺は志納となっていて爽やかだ。

20120509瑞泉寺御朱印-.jpg


■来迎寺(第五番札所)
くわしい寺史不明とされ、真新しく新築された本堂はコンクリート造でやや味気ない。
本堂は閉ざされており、北条政子の持仏とされる如意輪観音は拝むことは出来ない。

20120509来迎寺s-.jpg  20120509来迎院御朱印-.jpg


■宝戒寺(第二番札所)
萩の寺として有名だが、今はその季節ではない。
北条氏が九代に亘り屋敷を構え、その滅亡後、後醍醐天皇が菩提を弔うために足利尊氏に建立させたという。

札所本尊は准胝観音像で、このような観音を初めて知る、十一面観音と混同されることも多いという。
ここは鎌倉二十四地蔵第一番でもあり、本尊の地蔵菩薩は坐像でこれも珍しいが、本堂内は撮影禁止。
本堂の隣に聖天堂があり、ここには秘仏で日本最古の木造聖天といわれる歓喜天像が安置されている。
さほど大きくない境内に、興味深い仏様が横溢している。

20120509宝戒寺s-.jpg


参道には大振りな八角形の石が敷かれており、豪快なデザインだ。萩の頃もう一度訪れてみたい。

20120509宝戒寺参道s-.jpg  20120509宝戒寺御朱印s-.jpg

この日に訪れた寺は来迎寺と宝戒寺以外は再訪だが、勿論見えてくるものは異なって、知らざる事のみ多かりき。
御朱印の裏に透けてくる寺の姿も様々だが、次の観音巡りが楽しみだ。
posted by 遊戯人 at 22:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉三十三観音霊場巡り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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