この街道は奥州街道の桑折宿から分岐し、山形、秋田と続いて青森の油川宿でまた奥州街道に合流する500km程度の街道だ。
奥州街道を歩いた時に、この二つの追分を通過し、いつか間を結んで歩くつもりだったがようやく思い立って出かけて来た。
上ノ山宿から先はイザベラ・バードが歩いた道筋と重なるので、明治に女性が一人で旅した時から、何が変り何が変らないのかを確かめるのも興味の一つ。
桑折宿は2007年9月に通過しており5年ぶりだ。
追分は道標、柳の木、御休所等などがこの年に復元され、手づくり郷土賞を取っているが、5年間の時間の経過を感じさせずよく整備されていて町の人々の思いが伝わってくる。
直ぐに一里塚跡の碑があるが、追分からほんの僅かで基点がどこかが気にかかる。



生野銀山、佐渡金山と並んで日本三大鉱山の一つとして江戸時代に隆盛を極めたという半田銀山跡がある。周辺には坑道も多数残存しているようだが、生野や佐渡のように観光施設として売り出す気配は皆無。
僅かに、明治天皇行幸碑や女郎橋と言う名の橋桁跡等が残る。

道筋にある旧名主の早田家などを眺めながら、追分から最初の宿の小坂宿に入る。この宿は坂道にあり少し古い雰囲気も残している。


県道に萬歳稲荷の鳥居が超法規的に建てられており、意味不明の水車などもある。水車は隣の小屋に休憩所という文字が見えるので、町が何か補助金で作ったのだろうが、良くある無駄使いの典型的パターン。


奥州山脈を横断する道筋の最初の峠が小坂峠。
登るのが産みの苦しみと同じほどと言う事から名付けられた、産坂の旧道登り口で喉を潤して、山道に入っていく。
途中小坂峠古道と慶応年間以降の小坂峠新道に更に分岐する。新道の方が緩くて上り易いようだが踏み跡が少ない。
峠は441mとさほどの高さでもないが、眼下の信達平野の景観が美しい。


峠からは、また自動車道になり、ほど無く萬歳稲荷神社。萬歳と言う信仰深い馬方が建てたという。
境内は狭いが、鳥居の連なるアプローチが長い。


上戸沢宿に入る。
羽州街道の小坂峠から金山峠までの間を七ヶ宿街道と呼び、上戸沢、下戸沢、渡瀬、関、滑津、峠田、湯原の七つの宿があったことから名付けられた。この名称は数ある街道の中でもかなり魅力的。
しかし渡瀬宿は今はダムで出来た七ヶ宿湖の水の底。
上戸沢宿に七ヶ宿街道が日本の道100選に選ばれたという碑があるが、既に25年も経っているので、街道の姿も大きく姿が変っていることは間違いない。
それでも僅かに残る茅葺屋根。


上戸沢宿から下戸沢宿までは退屈な道が続く。蒲の穂が眼を和ませる。

下戸沢宿の方が上戸沢宿よりも規模が大きく、昔の姿が多く残っているようだ。
ヒダリマキガヤという国の天然記念物のカヤがある。確かに左巻き。



七ヶ宿ダムのために街道は湖底に沈み、新しく出来た湖岸の道の方へ高巻いて大きく迂回する。
ダムは今年の渇水で、平年よりも10mも水位が下がっているが、それでも十分山の緑を映し、30分毎の噴水の演出なども行われて、眼を楽しませる。
しかし、渡瀬宿の標識が「湖底」と記されているのに心が痛む。



湖周辺には、水源地域対策特別措置法による金をばら撒くためだけの目的で作られたような、広大な公園や施設、更には補償金で建てたのかお城のような住宅があり、違和感を感じるのはいつもの事。


関宿に入るが、特段宿の名前のような関の跡はない。
東海道の名ある本陣に比べても遜色なかったと言う本陣跡は、庭園の一部が侘しく残るのみ。

滑津宿に初秋の残照が美しい。
ここは立派な茅葺の本陣安藤家が残っているが、当主は残念ながら今年家を出て今は無住の空き家となっている。



滑津宿には振袖地蔵がある。
秋田藩の殿様佐竹氏が参勤交代の折、地元の娘を見染めて帰国の時に召そうとしたが、娘はすでに病に倒れ、それを惜しんで供養のために建てたという。
関宿には関の地蔵があり、これは殿様の身代わりといわれ、この二つは相対しているという。
振袖地蔵の傍に、ほんの僅かな間、旧道がわらじ街道の名称で石畳で復元されている。こういう事業は無意味ではないが、ここでは全く的を得ていない。
滑津宿の滑津大滝で、歩き終える。この滝も渇水で本来の姿ではないようだった。



初日の羽州街道の七ヶ宿街道部分の印象は、史跡が少なく、どの街道でも止むを得ない事とは言え、思ったほど宿場の古い景観も残っていないのが残念だった。
後日に期待したい。