平塚では、部分的に中原街道とも重複し、この日も昔歩いた道に数多く懐かしく出会った。
平塚駅から東海道を西に向う。この道を歩くのは2001年以来で、その時の様相を全く覚えていない。
見付跡、脇本陣跡や高札場跡の碑が残る。
見附台公園横に、崇善公民館があり威容を放っている。昭和25年に建てられて議事堂として使われた建物だが、残念ながら平成27年までに解体されてしまうようだった、



大山街道に入る手前バス停に、豊田道という停留所名が残っている。
地名は町村統合で、全く無味乾燥な歴史を伝えないものに変わってしまうが、バス停は昔の名前のものが残っていること多く、辛うじて歴史を伝えてくれる。
道は東海道を離れて中原豊田道になるが、少し道筋を離れ平塚の塚に立ち寄る。
桓武天皇の三代孫高見王の娘政子が天安元年この地で逝去し、墓が築かれたがその塚の上が平らになったのが平塚の地名の由来という。
塚の付く地名の由来には、赤塚もそうだが墓に起因するものが多い。


街道は直ぐに大山街道矢崎道と重なり、更に中原街道とも重なる。
中原街道の高札場跡を過ぎると、家康が中原御殿鎮護のために作った日枝神社がある。


日枝神社の真新しい絵馬に、中原御殿の家康の鷹狩りの由来が描かれていた。
ここには東照大権現もあり、さすが家康の歴史の色が濃い。
境内には「平塚ステーンショ道」と刻まれた、大山街道の道標を兼ねた珍しい庚申塔もある。



渋田川を渡ると、見慣れた大山が姿を現す。
豊田に入ると「豊田本郷駅」と表示されたバス停がある。
神奈川中央交通が国鉄と連携輸送を行っていた時はこのバス停で国鉄の切符も販売していたとの事で、駅という名称が残っている。これも歴史を残すバス停名称の一つ。
神奈川には他にも大山駅、愛甲田代駅が残っているそうだ。


端午の節句が間近なので、祝う幟が舞っている。
今の季節は街道を歩いても、風にはためく鯉幟を見かける事がめっきりと減り、地方でも子供が少なくなっている事を如実に感じる。

新幹線手前の青雲寺は、家康鷹狩りの折のお茶を入れた名水で有名と言い、「おちゃやてら」の石碑がある。
境内には見慣れた不動明王の大山街道道標もあり、やはり大山は不動明王だ。


この辺の畑では、時たま懐かしいれんげ畑を見ることが出来る。
散発的にしか見かけないのは、農家の方が趣味的に残しているのだろうか。

小鍋島の八幡神社は、震災の被害だろうか、鳥居が単管で補強されていて悲しい姿となっていた。

渋田川手前で、少し前に歩いた大山街道田村道に交差する。ここからは渋田川沿いの道となる。
下谷に八幡神社があり、立派な不動明王道標と珍しい「衜祖神」と彫られた道祖神がある。



渋田川は芝桜の名所で、なかの橋あたりから河畔に植えられており、花の盛りは終わっていたが何とか残り花を楽しむ事が出来た。


ここの芝桜は、地区の故鈴木健三氏が奥多摩から一株の芝桜を持ち帰って植えた事が始まりとされている。
関東には秩父の羊山公園や本栖湖の富士の芝桜、秦野の引地川の芝桜など多くの芝桜の名所があるが、自治体が整備したり、民間の施設が有料で公開してるものが多い。
渋田川の芝桜は、愛好会が管理している様だが、原則は自分の家の前のものはその住人が整備するという事になっているらしく、いかにも土地に根ざした良い方法に思える。
そのためか、逆にあまり人気のなさそうな家の前の芝桜の手入れはおざなりだったような気配もした。
数年前よりも、芝桜が貧弱になっているというネットでの書き込みも見受けられ、美しく咲く花の裏にも良くも悪しくも人の営みが見えてくると考えさせられる。
今は有名になった相模原新戸芝桜は、渋田川の芝桜の苗を譲り受けて育てた事が始まりとされて、渋田川の芝桜も栄枯盛衰しているようだった。
渋田新橋で柏尾道に合流し、少し先の柏尾道道標をやり過ごしてから何時ものように青山道で愛甲石田駅まで戻って歩き終えた。

沢山の大山街道と出会ったが、あと何百年先にも残るものは道標かなと思いながらの、春の一日ではあった。