ゴルフ場の敷地内に馬頭観音があり、街道の存在を示しており、棄却されなかっただけでも有難い。
ゴルフ場の敷地なりに再び16号線を越えて中里宿に入る。
西岸寺、満蔵寺などに庚申塔が大量に残されている。国道を作ったときに移設したのだろうか、例によって青面金剛が多い。



中里宿には宿場らしい風景は無く、僅かに米屋が古い建物で残っているが営業はしていない模様だった。
この店の前が名主の染谷家だが、面影は無い。

街道は珍しい地名の東宝珠花に入る。
宝珠は境界標を示すホウシ(傍示)の転,花は端で突き出した台地状の地形の鼻から来ているとも言われるが、ずいぶん持って回った説で怪しい。
西宝珠花は江戸川のを挟んだ向かいの埼玉県にある。
旧関宿町役場のいちいホールに、将棋の関根名人記念館が設置されており、見学。対局室も用意され、プロの棋戦も行われているようだった。
関根名人が揮毫した書が沢山展示されており、癖字だが良い字だった。



ホールのすぐ傍に関根名人の生家があり銅像が建っている。
裏手の墓地に将棋の駒を模した記念碑と墓があり、墓には「覇王院伝棋道大成大居士」と刻まれており、物々しい。



この辺は千葉県の北端で、盲腸のように江戸川と利根川に挟まれたごく幅の狭い地域で、街道は江戸川に突き当たる。
江戸川は、護岸の緩傾斜工事が行われていたが、いくらでも理屈をつけて行われる公共工事の種は尽きない見本のようでもある。
宝珠花橋の際に高瀬舟のモニュメントがあり、何の説明もないが、この地域が河川交通で栄えた土地あることを偲ばせている。


ライオンズクラブが建てた「日光東街道の松並木について」と言う碑があり、この道が「五街道其他分間見取延絵図」で関宿通多功道と記されていることと、松並木を復活させるために若木を補植したたことが説明されている。
この街道は、行政からは冷淡に扱われているが、地域にこういう取り組みがあることはまだ捨てたものでもない。

しばらく歩くと県道から旧道に別れ、そこには「旧日光街道東往還関宿多功道」と言う看板があり、詳しい説明がされている。
この旧道沿いの旧家らしい家に関宿城埋門が移築されている。千葉県で城の構造物が残されているのは関宿城のものが二つあるだけで、これはその一つで貴重なものらしい。
なぜそれが私有物となっているかは、記述がなかった。
城下に入るもう一つのルートが江戸川沿いにあり、そちらが大手門に通じており本道というが、時間の余裕がなく省略。


関宿出身の終戦時の総理大臣だった鈴木貫太郎記念館があるが、関宿城博物館に先を急ぐ。
江戸川と利根川の分流点の台地に立つこの博物館は城を模した復元もので場所も異なっているが、周辺の景観とよく調和している。
何とか日の入る前にたどり着き、意外なことに南は富士、北は日光白根、男体山、女体山が、北東には筑波山が夕暮れの中にシルエットを見せて目を楽しませる。

普通なら、ここで歩き終わるのだが、千葉県の先端のここは交通が陸の孤島。
既にバスは無く、やむを得ず利根川を渡って茨城県に入り次の宿場の境宿で歩き終えた。
