江戸時代の呉服屋だが、見世蔵には商人の粋な遊びが、あちこちに仕掛けられていて見ていて飽きる事がない。。
普通は決して眼に入らない、床の間天井のねじれ竿縁なども驚嘆。
江戸っ子の、肩裏の粋にも通じるものがある。
障子の桟の意匠も凝りに凝って、欄間には近江八景が。



立派な観光資源だが、観光協会自体のやや冷淡な扱いが不思議だった。
繰り返される枡形を抜けると、鹿島街道との追分にある善応寺。昔から枯れた事が無く、土浦城にも引かれたという照井の井戸の名水を味見。甘露だったかどうか。
この辺は鎌倉街道も平行して走っており、何時か再訪したい所。

重文のゴシック風の旧土浦中学校本館(現土浦一校は)を見学。設計者駒杵勤冶。
今もエリート校らしく生徒が、躾正しく挨拶してくれるのには恐縮した。

足を進めると、水戸街道唯一残存という板谷地区の松並木。江戸時代のものではないようで、何代目か。
しかし道の上空を完全にふさぐ松は珍しく、切らないのは道路管理者の心意気。

中貫宿に入ると、水戸街道に三つ残るうちの一つの立派な門構えの本陣。
引き続き次の稲吉宿では、やはり残る本陣の一つの稲吉宿本陣。
旅籠皆川屋だった、木村家住宅の連子格子も健在だ。
この辺は果樹と植木の栽培で豊かな立派な構えの家が多く、国道から一本入った気持の良い道が続く。



これもまた、美しい名前の恋瀬川を越えると今は石岡の府中宿。
日本武尊命がこの川を渡ろうとした時、嵐が吹きおこり、相模の走水の海での嵐に、后の弟橘媛が自ら命に替わって入水し海を鎮めたことを事を思い起こし、彼女を恋慕する情のもと、川面を見ながら「君恋しい、君恋しい・・・」と呟いた事が川の名前の由来とか。

川面から見える筑波山の景色は、上代と変わろう筈もなく、さもありなん。
府中宿は昭和4年の大火で、古い建物は殆ど残存しないが、逆にそれ以降作られた昭和初期の看板建築の宝庫だ。登録文化財指定されたものも数多い。
丁子屋、福島屋、久松商店、十七屋、森戸商店など等。スケッチ心をくすぐるが先を急いで、国分寺へ。


常陸国分寺跡は、国の特別史跡に指定されているにも拘らず、意外と小さな寺域で、総国分寺の奈良の東大寺に次ぐ規模だったと言われる、昔の大伽藍の面影は全くない。
僅かに七重の塔の心礎の大きさが往時を偲ばせる。
伽藍の礎石らしいものはあまりにも小規模で、標識が一本づつ立つのみ。
礎石自体も往時のものかも不明で、現代からはその価値を見捨てられた寂しい常陸国分寺だ。


国分尼寺は、今まで訪れたものと異なり、かなり国分寺と離れて存在する。
こちらは渺渺たる風景の中、法華滅罪之寺の碑に古からの風が吹き付けていた。
