2010年08月23日

中山道・甲州街道-下諏訪宿の追分

下諏訪宿というと、中山道よりは甲州街道の終着点のイメージが強い。

また江戸の方から歩くと当然、追分というよりは合流点のイメージだ。

「綿の湯」前広場が「甲州街道と中山道の合流点」となっており、合流点の碑と、もう一つ問屋場跡の碑を兼ねた甲州街道終点の碑が建てられており、甲州街道として「右江戸より五十三里十一丁」中山道として「左江戸より五十五里七丁 正面京都へ七十七里三丁」の文字が刻まれている。

20060503下諏訪合流碑2s-.jpg  20060503下諏訪追分碑s-.jpg

追分宿とは言われているが、甲州街道が終着点のため分岐の場所自体はそれぞれ先に行く道を暗示するようなY字路でなくて、中山道のほうが京都方向には分岐点から直角に曲がってゆく。

中山道はここから江戸へは和田峠、笠取峠、碓氷峠と三つの峠越えがあり、甲州街道は笹子峠と小仏峠の二つでその厳しさも中山道のほうが大きい。
勿論距離も、甲州街道のほうが短い。
皇女和宮は中山道を使ったが、昔の旅人が京都から下諏訪まで中山道を歩きそこから甲州街道で江戸に出たという記録をあまり見かけないのは何故だろうか。
街道の整備状態が中山道よりも貧弱だっただからという説もあるが、やや頷けない。

分岐点自体の写真を撮っていなかったのは残念だ。


posted by 遊戯人 at 20:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 追分 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
江戸⇔下諏訪間。中山道を主に使う話ばかりで、何故甲州街道へ乗り換えをする話をあんまり聞かないのか。
私もずっと不思議に思っていました。
実際に自分も旧街道を辿ればわかるのかなぁと思っているのですが、歩かれた遊戯人さんでも疑問に感じるのですね。
Posted by Rie at 2010年08月23日 20:57
Rieさん

中山道は高崎から三国街道、追分から北国街道へも繋がるので使う大名や人々が多くて、整備が行き届いていたというのは事実だと思いますが決定打ではないようです。

甲州街道は物価が高かったので使われ無かったという説も見かけましたが、これもちょっと信じられません。

両方歩かれて、是非Rieさんの目でその回答を見つけて下さい。
Posted by 遊戯人 at 2010年08月24日 10:17
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