説明碑が併せて設置されていて、日本橋まで73里17町、福島県庁まで15里11町。
道路元標に親切に説明が行われている例は比較的少なく、相馬市の余裕が感じられる。
この銀行もそうだが、この通りは切妻に建物が統一されていて、町に景観規制があるようだ。
これも町の余裕。

川沿いの、のんびりした道を歩くと黒木宿。
入り口に石仏群があるが、町自体には何も残っておらず街並みも極平凡だ。


長い付き合いだった相馬藩と別れ、まだ福島県だがいよいよ仙台藩の領域に入る。
このあたりは昔は相馬藩領、安土桃山時代以降は仙台藩、そして明治の戊辰戦争で仙台藩は相馬藩に破れ、今はそのまま福島県に復した。
街道は藩境のある国道の下を抜けてゆく。

中村宿から駒ヶ嶺宿へは、なぜか黒木宿を経由してぐるりと時計回りに大回りする。
特段避けるべき山川がある訳でもなく、どのような理由か不明のまま。
こういう大曲は、蛇行切断地形の中山道大桑地区とか奥州街道の船迫宿でも見受けられた。
駒ヶ嶺宿も見るべきものはない。
駒ヶ嶺城跡があるが、これはパスして先を急ぐ。

新地宿では、旧家の黒澤家の庭にある歌碑道標を見学。
東西の二つの碑があり、西は
右なかむら 左津るし 志ら菊や松し満道を・・・と刻まれている。
東は
東都八十里 仙城十三里
陸奥の束稲山佐久良ばな吉野之外に可ゝ留べしとハ 西上人
木の茂とに汁も鱠も桜可な 翁
と西行と芭蕉の歌が彫られている。どちらも桜がらみで、東の碑には慶応三年三月と刻まれているが、何故この歌かも語る人はいない。
しかし、どこにでもある道標と違って、歌が刻まれているだけで街道歩きの物好きが訪れるので、この道標も本望だろう。
たまたま庭におられた旧家のご夫妻が、親切に碑がここにある経緯などを説明してくれて感謝。
話が尽きないが、秋の陽はつるべ落とし。
予定の坂本宿は諦めて新地宿を足早に歩き過ぎ、新地駅で歩き終える。


