千年に一度の災害は、千年前にはなかった原発災害をもたらし、震災発生から二ヶ月経つと意図的な情報操作でニュースの頻度も減少しているが事態は多分一層悪化しており、日本が元の姿になるのにまた千年かるのかもわからない。
そういう重苦しい気持ちと関係なく、伊豆の空は晴れており、透き通る若葉はあくまで清明で、渓流も滝も爽やかに日の光を反照し躍動するように煌き流れていた。
修善寺を降り立つと、レトロな姿の伊豆の踊子号のボンネットバスに遭遇する。このバスも現在は伊豆半島への観光客の大幅な減少で運行が中止されている。

修善寺温泉への道を分ける湯川橋。川端康成の「伊豆の踊子」ではここで、一高生が踊子たちと出会うのだが現代の踊子はもちろん現れず。
修善寺のある地域は伊豆市で、伊豆市の隣接した北は伊豆の国市とこの近辺も紛らわしく節操の無い市名が付けられている。

国道や旧道を縫いつつ、街道は柿木橋へ。ここには狩野城と狩野派発祥の地の案内標識がある。
狩野氏は祖が土地の豪族狩野維景で、狩野派の初代狩野正信は維景の十六代の孫という。狩野派発祥の地とはやや誇大宣伝か。

すぐそばに狩野ドームがある、これも以前は天城ドームといっていた筈。多分新天城ドームが出来たのでお株を奪われたようだ。これは新参者に旧家が争いに負けた構図。

月ヶ瀬で賽の神を見かける。ここ以外にも賽の神は散見した。
行事としてのどんど焼きも賽の神というが、街道の賽の神は集落の出入り口に設置されており、道祖神は道の神で賽の神は疫病神などを防ぐ神とされるが区分はかなり曖昧だ。

嵯峨沢で明徳院に立ち寄る。
ここは東司の神様である烏彗沙摩明王を祀っている事で有名で、建物の一角に昔風の便器と男女性器とがあり、それぞれおまたぎしておさすりするとご利益があると。
山門の横に応永の槇があり、樹齢600年で全国第二位と伊豆市のHPには出ているが、古いには古いがどこにでもありそうな槇でこの情報も胡散臭い。



川端康成も好んだ湯ヶ島温泉に入ると震災の余波で客足が減っていることもあるが、その寂れ方は尋常ではない。
市営の立派な建物の天城温泉会館は2年前から温泉客の減少で閉鎖されており、隣の夕鶴記念館も殆ど開店休業状態だ。

この町が井上靖のゆかりの土地であることは初めて知る。町歩きの案内板を兼ねた「しろばんばの里」の看板があちこちに出ており、井上本家の上の家も健在だ。
弘道寺にはハリスが宿泊し、その記念碑がある。
日本滞在記の文章が彫られ、富士のことを「・・・私が1855年1月に見たヒマラヤ山脈の有名なドヴァルギリよりも目ざましいとさえ思われた。」と書いているが、ハリスがヒマラヤ近辺まで行っていたとは知らなかった。ドヴァルギリなるダウラギリの方が目覚しいと思える。


浄蓮の滝で初めて踊り子に出会う。石川さゆりの天城越えの歌の碑がある。
あなたを殺していいですか
寝乱れて 隠れ宿
九十九折り 浄蓮の滝


浄蓮の滝の前から、旧道は「踊り子歩道」の看板が建てられている。
道筋には島崎藤村や横光利一の文学碑もあり、横光利一は小説の「寝園」にちなむものというが、知らない。



街道は国道と交差して道の駅「天城越え」を過ぎると滑沢渓谷沿いに進む。
途中でハリスや吉田松陰が歩いた二本杉峠への道を分ける。そちらのほうも魅力的だが、最終バスに間に合わないので天城峠への道をとる。

大川端キャンプ場付近で国道に出る上り口が見つからずに迷い、一つ先の水生地下のバス停まで歩く羽目に。
着いたときはすでに最終バスは通り過ぎ、歩いたり走ったりと悪戦苦闘して何とか出発点の修善寺まで戻りつく。
伊豆半島の踊り子歩道、侮りがたし。