2012年04月30日

木下街道

木下(きおろし)街道は、旧江戸川の行徳新河岸から、利根川の木下河岸までの36kmほどの街道。
以前、佐倉・成田街道を歩いた時に市川の鬼越で分岐するこの街道が気に掛かっていた。

旧江戸川の行徳新河岸には、日本橋小網町との間を物資輸送のために往復した舟のための常夜灯がある。
一度はスーパー堤防の工事のために撤去されたが、スーパー堤防が完成後常夜灯公園として整備され復活したようだ。

20120430行徳新河岸常夜灯s-.jpg


街道沿いには、笹屋うどん跡や、最近登録有形文化財指定された旧家が散見され、往時の佇まいを残す。
街道から一筋入ると、行徳千軒寺百軒といわれるほど寺が多いが、見学は省略する。

20120430笹屋うどん跡s-.jpg  20120430加藤家住宅s-.jpg


小さな八幡神社があるが、低いながらも富士塚があり、鳩字の額や、社殿にそえられてた手作り感溢れる庇なども興味深い。

20120430鳩字の額s-.jpg  20120430富士塚s-.jpg  20120430八幡神社社殿s-.jpg


江戸川手前の春日神社の小さな児童公園に、放射能測定の結果が表示されていた。
連休で原発事故の事など忘れ去られたように日常は進んでいるが、放出された膨大な放射能は土地を蝕み続けている。

20120430放射能測定結果s-.jpg


江戸川を渡る行徳橋の横に、行徳可動堰がある。
江戸川本流は常に流れていると思ったが、そうではなくてこの可動堰で堰き止められ、洪水時には上流の水位が一定以上になった場合にゲートを開放するそうだ。通常は水は旧江戸川の方へ流れるのだろう。
巨大な構築物だが、老朽化で改修工事の準備がされていた。

20120430行徳可動堰s-.jpg


橋を渡ると稲荷木の地名となる。千葉は不思議な地名が多いが、イナリギでなくトウカギと読む。
地名は稲荷神社からの由来でなく、稲を掛ける木からと。

街道は京葉道路をくぐるが、その横に枯れた稲荷木一本松と延命地蔵、道祖神などがある。
道祖神の一つには「これより右やわたとうり これより左市川国分寺みち」と刻まれている。
木下街道を歩いた方のHPもかなり見かけるが、どういうわけが殆どが「これより右やわたみち」と記載されている。
誰かが誰かのものをコピーして、次々に誤りが広まったのだろうか。

20120430延命地蔵s-.jpg  20120430庚申塔s-.jpg


本八幡付近の、大和田小学校のグラウンドが分厚く覆土されていた。
このグラウンドは以前は芝生だったものが、つい最近天地かえされてさらに覆土されたようだ。
市の広報を見てみると、その結果、放射線量が0.19μSv/hから、0.12に下がったとされている。
グラウンドで、野球の練習に取り組む子供たちの屈託ない姿の裏に、日本の困難が二重写しに見えた。

20120430大和田小学校s-.jpg


総武線のガードをくぐると、道は国道14号線となり、ここから鬼越の追分で分岐するまでは佐倉・成田街道と重複する。
八幡藪知らずや、葛飾八幡などがあるが、佐倉・成田街道を歩いたときに見たので先を急ぐ。

分岐地点にある旧家の中村家は、蔵は地震の被害で鬼瓦が落ち、屋根も修復されていない。
中村家は醸造業で財をなし、東山魁偉等の芸術家も後援したが、今は建物を修復する資力も失せてしまったということか。

20120430中村家s-.jpg


日蓮宗の霊跡寺院大本山の中山法華経寺がすぐそばだが、ここも訪問済みなので省略する。

東山魁偉記念館に立ち寄る。
東山魁偉は戦後市川に居を構え、50年ほど過ごした。その縁で出来た記念館で、美術館と銘打たないように所蔵品には直筆の作品は数点しかなく、ほとんどがリトグラフ。
建物の外観が、周辺に馴染まない唐突なドイツの田舎風だが、理由を聞くと建設するときに、魁偉のご夫人が記憶に懐かしいドイツ風にと要望したと。
記念館隣の敷地が東山邸で、ここに御夫人は存命とのことで、毎日、懐かしい建物を見て過ごす日々はいかばかりだろうか。

20120430東山魁偉記念館1s-.jpg  20120430東山魁偉記念館2s-.jpg  20120430東山邸s-.jpg


これも難読地名、北方と書いてボッケと読む交差点を超えると巨大な中山競馬場だが入れない。
ボッケは法華、北家、崖の意のホキ由来と諸説あるようだ。

20120430北方交差点s-.jpg  20120430中山競馬場s-.jpg


さらに馬込十字路を過ぎると、清長庵敷地内に鎌ヶ谷市最古で地蔵としては唯一といわれる道標地蔵がある。
正面に「いんざい見ち か志まみち奈里」と刻まれている。

20120430道標地蔵s-.jpg


鎌ヶ谷大仏駅を過ぎると右手に鎌ヶ谷八幡神社、左手に鎌ヶ谷大仏がある。
鎌ヶ谷大仏は高さ六尺の小ぶりなもの、土地の大黒屋(福田家)が寄進して、大仏の後ろはの一族累計の墓で埋め尽くされていた。大仏は普通は丈六以上のものを言うので、これはそれに外れるが、良いお顔ではある。

20120430鎌ヶ谷大仏s-.jpg


鎌ヶ谷八幡神社には百庚申がある。
青面金剛像10基と庚申塔の文字塔90基、数の多さで功徳を願い下総に流行したらしい。

20120430百庚申s-.jpg


白井市に入ると昔の小金牧由来の「牧場入口」と言う信号や、「白井開拓」などと言うバス停が現れる。
明治の開拓時に付けられた初富、二和、三咲から十余三まで続く美称の地名も、近辺に散在する。
街道沿いに「根」という珍しい地名もある。白井市にはまだ、復、木、中などの一字地名もあり由来を知りたくなる。

町村統合で、昔の地名が加速度的に消失しているが、バス停の名前には旧来の土地の姿を想像させるものが多く残されている。

20120430牧場入口s-.jpg  20120430白井開拓s-.jpg  20120430根s-.jpg


北総鉄道を越える。
この鉄道の掘割部分は異様に広いが、以前構想され中止となった成田新幹線用の土地との事。
新幹線はうたかたの夢と消え、将来は掘割部分に北千葉道路という道が作られるようだが、兵どもの夢の跡ではある。

20120430北総鉄道s-.jpg


神崎川の橋の袂に伊勢宇橋の碑がある。
江戸後期、浅草の醤油屋伊勢屋宇兵衛が日本橋から郷里の江戸崎まで、慈善事業で百ヶ所の石橋を架けたといわれ、ここはその86番目。

20120430伊勢宇橋碑s-.jpg


これも難読地名、神々廻(ししば)に赤く染まった庚申塔群がある。
赤い庚申塔はこの近辺には散見されるらしく、赤いのは弁柄のようで、悪戯や、拓本を取る為ではなく、疱瘡や病魔除けの意味と言う。不思議な風習だ。

20120430赤庚申s-.jpg


千葉ニュータウンに入ると、低層住居、中層住居、ビジネス街と明確に街が区分され、歴史から切り離された整然としているが面白みのない街並みが続く。

20120430千葉ニュータウン1s-.jpg  20120430千葉ニュータウン2s-.jpg  20120430千葉ニュータウン3s-.jpg


ニュータウンを抜けて泉集落に入ると、時間が巻き戻されたようなゆったりした光景が現れる。
さほど古い家々ではないが、裕福そうな農家が続き、ニュータウンの街並みと対照的だ。

20120430泉集落s-.jpg  20120430泉集落庚申塔s-.jpg


県道4号に出ると左右に広大な未整備の用地が続き、赤茶けた土地越しに見えるニュータウンのビジネス街は心細く、蜃気楼のようだった。
千葉ニュータウンは1969年に開発が開始され、2014年に全事業が終了する。
将来、ここに活気ある空気が漲る事は決してなく、ニュータウンと言う名前だけが生き永らえるだろう。
まだ若い街なのに、すでに静かに衰退を始めている千葉ニュータウンの姿は、日本の姿と悲しいほど重なって見える。
ごくありふれた庚申塔でも、土地の人に守られて300年経っているものはざらに見かけるが、300年後のニュータウンと日本の姿を想像する事は難しい。

大森宿を過ぎて、先を急ぎ、着いた利根川の木下河岸は葦が茂るのみ。

ここも往時は殷賑を極め、三社詣での舟でも賑わったとされるが、時代は流れ、よすがを示すものとして「木下河岸跡」の案内板が一つぽつねんと建っているだけだった。

20120430ニュータウン遠望s-.jpg  20120430木下河岸s-.jpg


posted by 遊戯人 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 木下街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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