2012年06月07日

鎌倉三十三観音巡り(その1:金沢街道付近)

観音巡りは街道歩きとは趣旨が異なるが、道を辿りながらの仏を参るのは、街道歩きにさも似たり。
鶴岡八幡から一番札所の杉本寺さらに光触寺への道は金沢街道で、朝比奈切通しを越えて六浦へ続く。
これは取りも直さず、鎌倉街道下道そのもの。

■杉本寺(第一番札所)
一番札所の杉本寺は天平6年(734)建立で鎌倉一の古社といわれるが実際は坂東三十三観音巡りの札所第二番の岩殿寺のほうが古いらしい。
開山は行基、本尊も行基、慈覚大師円仁、恵心僧都源心の三人が作った言われる三体の十一面観音でいわゆる三尊同殿。その有難さは言わずもがな。
行基のものは、寺の前を不信心者が乗馬したまま通ると、必ず落馬するので、それが十一面観音に覆面をさせることで収まったという言い伝えのある覆面観音でお顔を御拝むことは出来ない。
本堂内は撮影禁止。

杉本寺は坂東三十三観音霊場の発願寺でもあるので、信心深い方々が今も巡礼装束に身を固めてお参りしている姿が見うけられた。

本堂横に五輪塔群があり、南北朝時代、南朝側の北畠顕家との戦乱で敗れた足利側の斯波一族の供養塔と。
今はもう上る事の出来ない、苔生した階段がいつも美しい。

20120509杉本寺1s-.jpg  20120509杉本寺2s-.jpg  20120509杉本寺3s-.jpg


ご朱印には「鎌倉最古佛寺地杉本寺」と捺されているが、どうだろうか。

20120509杉本寺御朱印s-.jpg


■報國寺(第十番札所)
永享の乱で足利持氏の嫡子、足利義久がここで自害し関東足利公方終焉の悲劇の寺とされるが、今は昔の歴史は忘れ去られ、竹の寺として有名だ。
真新しい薬医門を入ると、整えられた庭と苔が迎えてくれ、宝暦七年(1757)創建の茅葺の鐘楼が見事な存在感。
呼び物の竹の庭では、中に茶席休耕庵があり御抹茶も頂けるが、以前その風情をじっくりと拝見したので今回は遠慮した。

20120509報国寺本堂s-.jpg  20120509報国寺鐘楼s-.jpg  20120509報国寺庭s-.jpg


ご朱印が、報國寺でなくて報国寺と記されていたのは、少し残念だ。

20120509報国寺御朱印s-.jpg


■浄妙寺(第九番札所)
鎌倉五山の一つで七堂伽藍を備えた大寺院だったが、今はその面影はない。
だが、周辺の地名は文字は異なるが、この寺にちなんだ浄明寺で昔日の勢力が窺える。
今は江戸中期に再建されたむくりの美しい本堂があり、つい最近復興された茶室の喜泉庵には枯山水の庭もある。
本堂裏手には、足利尊氏の父の足利貞氏の墓とされる宝篋印塔。

この寺の裏山に藤原鎌足が鹿島詣での際に鎌槍を埋めたという事が、「鎌倉」の地名のいわれという説もある事を後で知った。

20120509浄妙寺宝篋印塔-s.jpg  20120509浄妙寺s-.jpg  20120509浄妙寺御朱印s-.jpg


■明王院(第八番札所)
杉本寺と同じに古びた茅葺のお堂が本堂だ。
寺域は小さいが風情がある。以前訪れた時は、境内は撮影可能だったが、今は禁止となってしまっていた。
話を伺うと、マナーをわきまえないアマチュア写真家が処かまわず踏み入って、三脚を立てるので住職が禁止にしたとの事。
浄妙寺でも中高年の男女のグループが本堂前の石段にどっかりと腰掛けて弁当を広げており、常識のない行動に驚いた。
こういう方達は遊園地も社寺仏閣もその差はなく、多分ビジネス以外の世界の常識を知らずに仕事から引退したのだろう。
団塊の世代の本格的なリタイアが始まっているので、宗教の世界もおちおちしていられない。

鎌倉幕府の鬼門を守り、鎌倉将軍発願によって建立された市内に残る唯一の寺とされる。
鎌倉三十三観音札所の事務局のお寺とも言うが、どのような事をしているのかは不明。

20120509明王院s-.jpg  20120509明王院御朱印s-.jpg


■光触寺(第七番札所)
本尊の阿弥陀如来は、盗みの疑いがかけられた法師の身代わりになり、顔の左に火印があるという「頬焼阿弥陀」という由来があるそうだが、確認は出来なかった。

境内に塩嘗地蔵がある。
これはもとは金沢街道沿いにあったものが移されたということで、六浦の商人が鎌倉に塩を売りに来た時に塩を地蔵にお供えしていたところ、いつも帰りにはなくなっていたという。
塩の道とも言われる、金沢街道の歴史を伝えている。

20120509光触寺-.jpg  20120509光触寺本尊s-.jpg  20120509塩嘗地蔵s-.jpg


ご朱印は住職ご本人が書かれ、このような寺は余りないという事を仰っていた。

20120509光触寺御朱印s-.jpg


■永福寺跡(番外)
瑞泉寺へ辿る二階堂の道筋に永福寺跡がある。
頼朝が義経や藤原泰衡らの供養のために建て、平泉の中尊寺二階大堂を模した大寺され、二階堂の地名もそれに由来する。

応永12年(1405)に焼失し、ここもつわものどもの夢のあとだったが、発掘調査がされ復元整備の準備がされている。
池と橋、基壇が復元されるようで、そのための新しい礎石が準備されていた。
鎌倉は世界遺産への登録を目指しているので、作業の進捗が楽しみだ。

20120509永福寺跡碑s-.jpg  20120509永福寺礎石s-.jpg


■瑞泉寺(第六番札所)
二階堂の奥、錦屏山を背景に紅葉ヶ谷にある瑞泉寺は、その取り巻く地名だけでも風雅の極み、山門を入っての参道の美しさもおそらく鎌倉随一ではなかろうか。

夢窓疎石により開山され花の寺として有名だが、今は残念ながら花は端境期。
本堂裏の庭は夢窓疎石の作庭で、国指定の名勝。鎌倉に残る鎌倉時代唯一の庭園とされるが、この庭は旧来のものではなく、昭和になって発掘復元整備されている。
祠のある凝灰石の岸壁を背景とし、池も岩盤を刳り抜いた岩の庭だが、緊張感や構成の妙を感じる事はなく、感慨を与えるものは少ない。

20120509瑞泉寺参道s-.jpg  20120509瑞泉寺本堂s-.jpg  20120509瑞泉寺庭s-.jpg


この寺は鎌倉公方足利家の菩提寺でもあり足利基氏の墓などがあるようだが、見る事は出来ない。
寺には多くの人が足跡を残しており、吉田松陰もその一人。
寛永6年(1853年)の六月、ペリーの一回目の浦賀への黒船来航を見た後に伯父の住職竹院和尚を訪れている。二人は何を語らったのか。
翌、安政元年(1854年)にペリーの再訪時に密航を企てその結果獄死したのは周知の事実。
境内には「松蔭吉田先生留跡碑」がある。

20120509吉田松陰碑s-.jpg


水戸光圀も関連が深く、札所本尊の千手観音を奉安しており、確かお手植と言われる冬桜もあった筈。
本堂は僅かに開かれており、千手観音は阿弥陀如来の左に安置されていた。

20120509瑞泉寺千手観音s-.jpg


鎌倉は協定があるのか、御朱印料はどこでも300円だが、瑞泉寺は志納となっていて爽やかだ。

20120509瑞泉寺御朱印-.jpg


■来迎寺(第五番札所)
くわしい寺史不明とされ、真新しく新築された本堂はコンクリート造でやや味気ない。
本堂は閉ざされており、北条政子の持仏とされる如意輪観音は拝むことは出来ない。

20120509来迎寺s-.jpg  20120509来迎院御朱印-.jpg


■宝戒寺(第二番札所)
萩の寺として有名だが、今はその季節ではない。
北条氏が九代に亘り屋敷を構え、その滅亡後、後醍醐天皇が菩提を弔うために足利尊氏に建立させたという。

札所本尊は准胝観音像で、このような観音を初めて知る、十一面観音と混同されることも多いという。
ここは鎌倉二十四地蔵第一番でもあり、本尊の地蔵菩薩は坐像でこれも珍しいが、本堂内は撮影禁止。
本堂の隣に聖天堂があり、ここには秘仏で日本最古の木造聖天といわれる歓喜天像が安置されている。
さほど大きくない境内に、興味深い仏様が横溢している。

20120509宝戒寺s-.jpg


参道には大振りな八角形の石が敷かれており、豪快なデザインだ。萩の頃もう一度訪れてみたい。

20120509宝戒寺参道s-.jpg  20120509宝戒寺御朱印s-.jpg

この日に訪れた寺は来迎寺と宝戒寺以外は再訪だが、勿論見えてくるものは異なって、知らざる事のみ多かりき。
御朱印の裏に透けてくる寺の姿も様々だが、次の観音巡りが楽しみだ。


posted by 遊戯人 at 22:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉三十三観音霊場巡り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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