犀潟に向ったほくほく線は、六日町から先は誰一人乗っておらず貸し切り状態。
犀潟からの北国街道も、人っ子一人見えないのは何処となく同じ印象。
黒井宿の円蔵院に木喰上人の毘沙門天と不動明王があるが、本堂は開いていなくて、外からそれらしい像を窺う。



潟町宿に米山道・左奥州道と彫られた道標がある。ここでも北国街道でなくて奥州道。
少し前まで昭和25年まで生活用水としていて使われていたという、どんどん湧くからというどんどの石井戸はまだ健在。
ここには鵜の浜温泉という温泉があり、これは帝国石油が石油・ガスを試掘した時に温泉が噴出したらしい。
石油施設は見当たらないので、本命は出ずに、温泉が出たということか。


鵜の浜海水浴場からは、残念ながら佐渡は見えないが、南を見ると黒井宿の上越火力が偉容を見せている。
ここにも小川未明の「赤い蝋燭と人魚」にちなんだ人魚像と、少し先には人魚塚がある。
海岸沿いに松林が列なり、240年前に地主の藤野条助が苦労して植林をしたとの説明板がある。
とても240年経ったものとは思えないが、海風で生育が阻まれているのか。





柿崎宿の手前光徳寺に、ライオン創始者の小林富次郎を讃える石碑があり、少し歩くとまた藤野条助の植林の顕彰碑がある、これは個人が建てているようだった。藤野条助はこの辺ではよほどの著名人。


柿崎宿に入ると、日蓮縁の妙蓮寺、パゴダ風の奇妙な外観の親鸞縁の浄善寺と続く。
浄善寺にはしぶしぶ宿の詠歌碑が立っていて、親鸞に最初は宿を貸さなかった扇谷の主はあまりほめられた話ではない。
柿崎にしぶしぶ宿をかりければ あるじの心熟柿なりけり


宿場の外れの枡形に、「右山みち 左奥州道」と刻まれた指で方向を示した石碑がある。指の線画のものは何回か見たが、このように浮彫りのものはかなり珍しい。
山みちは米山道だろうか。

難所の米山三里の入口の鉢崎宿に入り、芭蕉の泊ったたわら屋と、鉢崎関所跡を見る。
それぞれ、看板と碑が立っているが、関所跡は以前は空き地だったのがつい最近民家が建ってしまい、軒先に石碑と定の看板があるだけで、何の説明もなくかなり残念な状態。
聖ヶ鼻への上り道からは、鉢崎宿がよく見え、その景観は中山道の碓氷峠への途中で見える坂本宿と雰囲気が良く似ている。



聖ヶ鼻からは、褶曲地層で有名な牛ヶ首が遠望できる。
本来は聖ヶ鼻から岬沿いに旧道が続いていたが、中越地震で道筋が崩壊して通れない。国道に戻り米山トンネルで抜けて上輪集落へ向かう。

上輪集落から牛ヶ首までは、新道ははるか空中を飛んでいるが、旧道は曲折して案内もなく、上り下りも結構な道だ。
明治天皇北陸巡航の御宿処の六宜閣は今は料亭のようだが、国の登録文化財。
牛ヶ首では褶曲地層がよく見える。500万年前に出来たものとの説明。



米山三里の標識が出ている狭い道を下ると青海川駅。
この駅は浜芝浦駅などと同じに海に一番近い駅とも云われ、日本海に夕陽が沈む光景は、日本一美しいと謳われる。
でも、この辺は潟町宿の夕日の森、椎名宿の夕日が丘公園、出雲崎宿の日本海夕日公園、夕日の丘公園ととにかく混乱するほど夕日にちなんだ公園が多い。
よく見ると、少しずつ言葉が違っているのはご愛嬌。


ここから旧道は消失し、谷根川沿いに少し上流に戻りそれらしい道で迂回して恋人岬方面へ向かう。
建設当時日本一高さ橋脚と言われた米山大橋が豪快で、夕陽の中のシルエットが美しい。


鯨波宿はその地名の由来が気に掛かるが、鯨が浜に打ち上げられた事からという説や、昔は「桂波」だったが、鯨の大漁があったので鯨波というようになったとか、「鯨」は、「くずれ」から転訛したもので崩壊地を示し、鯨波というのは「波で崩れた崖が並んでいること」とか諸説あるようだ。
駅前に何もない鯨波駅には鯨の絵が描かれており、海水浴で有名な海岸には美しい夕日が沈もうとしていた。

