2013年07月02日

北国街道(その6:鯨波宿〜出雲崎宿)

街道は、鯨波駅の横の坂を上って行く。この坂が戊辰戦争の激戦地となった嫁入坂らしい。
直ぐに御野立公園。戊辰戦争の東軍の司令部が置かれ、明治天皇が巡幸の折、野立をしたところ。

柏崎宿手前で、日蓮が赦免され佐渡から無事着岸した事を感謝して、三十番神を祀ったという彫り物が見事な番神堂に立ち寄る。
三十番神という神を知らなかったが、神仏習合のもので日蓮宗では特に熱心に信仰されたらしい。
堂の裏手からは、日蓮が着岸したという岩場に木の標識が立っているのを見下ろせる。

20130702御野立公園s-.jpg  20130702番神堂s-.jpg  20130702日蓮着岸の地s-.jpg


柏崎宿は良寛の弟子となった貞心尼の縁のものが多い。剃髪の地と言われる閻王寺の跡は順之木稲荷神になっている。
街道沿いに喬柏園という、由緒がありそうな施設があった。土地の方に伺うと昔の公会堂で今は市民施設として使われているという。
十分な維持管理がされている気配はなく、調べて見ると国の登録有形文化財にもなっているが、その標識も解説も見あたらなかったのは残念だ。

20130702閻王寺跡s-.jpg  20130702喬柏園s-.jpg  


昔は街道の中央にあったという、ねまり地蔵。明治天皇の巡行の折りにこの場所に移らされた。
「ねまり」とは「根埋」で、「昔市街の中央に南向して立てり半身土中に埋もれたるを以て「根埋地蔵」と名付く」と言う事らしい。
これと対の物が、すぐそばにある立地蔵。実際は地蔵でなく薬師三尊と。
二つとも大きな地蔵で、しかとは判別できないがおおらかさを感じられる。

20130702ねまり地蔵s-.jpg  20130702立地蔵s-.jpg


ふるさと人物館の前に移設された道標が二本ある。補強された古い方は「右 三国街道 小千谷十日町道」「左 奥州道」、三国街道も現れてきた。もう一本は新しい。
田中角栄は西山町出身で今は柏崎市なので、この人物館にも当然展示されているのだろう。

20130702ふるさと人物館庭道標s-.jpg


ソフィアセンターという図書館敷地に貞心尼の像がある。御付の犬もいて、どういう縁なのだろうか。
この像は遠く、良寛の故郷の出雲崎のほうを向いているという。
ここには貞心尼の「蓮の露」の直筆本があるが、まだ開館時間前で見れないのは何時もの事。
貞心荷の辞世の歌は、
 来るに似て 帰るに似たり おきつ波
               立ち居は風の 吹くにまかせて
良寛との相聞の下の句の「あきらかりけり君がことのは」の本歌取り。こういう世界もある。

ソフィアセンターはRIAの設計で、かなり異質の外観だ。
柏崎市は言わずと知れた東電の柏崎刈羽原発が立地して、その電源開発交付金で様々な整備が行われており、1978〜2009年度の32年間に柏崎市にもたらされた原発財源の総額は2,364億2,480万円にものぼるという事だ。
この図書館も交付金で作られた箱ものの一つ。その他にも柏崎市には金に飽かせた珍妙な博物館が多いらしい。

20130701貞心尼像s-.jpg  20130701ソフィアセンターs-.jpg


市内の路地の気の利いたペイブや、メインストリートのアーケードの柱が御影石で覆われていたり、ストリートファニチャーが多かったりと、あれもこれも原発のおかげだろうか。

20130702柏崎ペイブs-.jpg  20130702ストリートファニチャs-.jpg  20130702柏崎アーケードs-.jpg


宿場の外れに閻魔堂がある。
中越地震で向拝は倒壊したが、堂内部の閻魔様や十王は何の被害も受けずに無事だったという。向拝は真新しく復旧していた。

柏崎市は越後バスが走っているが、どうも東急バスに瓜二つと思ったら、昔は東急グループだったと云う事で、東急の中古の車両も沢山現役で走っているからという。なるほど。

20130702閻魔堂s-.jpg  20130702閻魔堂内部s-.jpg  20130702越後交通s-.jpg


鯖石川に昔悪田の渡しがあり、安政年間に安永橋が架けられた。
「柏崎から椎谷まで間に荒浜、荒砂、悪田の渡しがなきゃよかろ」と唄われた。
現代の安政橋の袂に田中角栄が揮毫した渡しの碑がある。意思の強い筆致だ。

20130702安政橋s-.jpg  20130702悪田の渡し碑s-.jpg


荒浜砂丘に植林された松林を見ながら単調な道を歩くと、東電の原子力や放射能の広報施設のアトミュージアムがある。
館内に入ってみると誰もおらず、職員も手持ち無沙汰のようだった。
街道は再稼動で紛糾している東電柏崎刈谷原発に突き当たり、大きく迂回する。
迂回地点に温排水資料展示館があり、屋上から刈谷原発の6本の煙突が遠望できる。

20130702アトミュージアムs-.jpg  20130702刈谷原発s-.jpg  


道の傍らに広報施設の子供を対象とした東電サービスホールがある。上階からは刈谷原発の展望施設もあるが、館内に利用者はいないようだった。
敷地全域に張り巡らされたフェンスや、侵入防止の有刺鉄線がものものしい。
長い迂回路を終えて、ようやく海に出る。振り返ると原発越しに二本木宿辺りからずっと寄り添ってきたような米山が見える。

20130702東電サービスホールs-.jpg  20130702原発フェンスs-.jpg  20130702原発遠望s-.jpg


宮川宿手前に不動明王を祀る堂があるが、風除けのために綺麗な塀で覆われている。これも珍しい。
宮川宿から、少しずつ特徴のある妻入りの家が現れて来る。
宿の外れに、生活用水として使われているという湧水があるが、藻なども生えていて、残念ながら既に見捨てられている気配だった。

20130702不動明王堂s-.jpg  20130702宮川宿s-.jpg  20130702宮川宿湧水s-.jpg


原子力災害時コンクリート屋内退避施設という標識があり、美しい景観が放射能と一蓮托生の場所である現実に立ち戻らされる。

20130702原発避難施設標識s-.jpg


椎谷宿に入ると、ここも出雲崎ほどではないが、味のある妻入りの家が多い。
「歴史と文化の町椎谷」の幟が立っている。歴史は多分この町の椎谷藩、文化は不明。
椎谷藩は喜連川藩の5千石の次に小さな藩だったと云い、陣屋の跡が部分的に整備されている。
越後柏崎・七街道の標識があり、七街道とは何かと気に掛かったが、北国街道、綾子舞街道、からむし街道などを云うらしい。
ここも越後三大馬市の一つで、馬喰宿の跡に石碑が立っている。

20130702椎谷宿s-.jpg  20130702椎谷陣屋跡s-.jpg  20130702椎谷宿馬市跡s-.jpg 


街道沿いの民家の塀が、風化した砂岩状のもので作られていて良い味が出ているがどういう石だろうか。

20130702椎谷宿塀s-.jpg


宿場を出て観音崎の夕日が丘公園の方へ街道は続くが、ここも中越地震の被害で道筋が被害を受け、修復を諦めて、上り切った所で通行止めとなっている。
北国街道で地震のために無くなってしまった、二つ目の道筋だ。

20130702観音崎通行止めs-.jpg


トンネルで岬を抜けると、杖立観音堂跡があり、様々な石碑が集められている。
ここも中越地震で崩壊し、再建を断念した。見えないところで地震の被害は深い。
この付近から、風当てといわれる海の強風から家を守るための塀が見られる。竹であったり板塀であったり様々だが、冬場の辛さが思いやられる。

20130702杖立て観音堂跡s-.jpg  20130702風当て2s-.jpg  20130702風当て1s-.jpg


石地宿に、沖合いに延びるフィッシングセンターがある。これも原発交付金で出来ている。
道を挟んで反対側に、羅石尊がある、金精様だが本物は沖合いにあったが船が衝突して頂部だけここに移したとか。
ここには観音堂や閻魔堂もあって賑やかだ。

20130702フィッシングセンターs-.jpg  20130702羅石尊s-.jpg  20130702閻魔堂s-.jpg


昭和2年に新聞社が選定した新潟の海水浴場に、石地海水浴場の一等当選の碑が立っている。
今も夏場は海水浴で賑わうのだろうか。

20130702海水浴場一等碑s-.jpg


宿場に大庄屋の内藤家の久寛荘がある。日石の初代社長内藤久寛の生家。
北国街道の日本海沿いでは全く庄屋らしき門構えを見かけなかったが、ここはよく維持されていて、未だに臨海学校として使われているらしい。

20130702久寛荘s-.jpg


出雲崎宿の外れに蛇崩の丘があり、ここに旅立ちの丘という標識が立ってる。
ここからは良寛の気配が濃い。
傍らには、草生した中に戊辰戦争の松代藩士の墓も見受けられる。地震も戊辰戦争も傷が残る。

20130702旅立ちの丘s-.jpg  20130702松代藩士碑s-.jpg


以前出雲崎に来てから5年経った。
其の時は良寛の縁の良寛記念館、良寛堂などを訪ね、良寛が出家した光照寺まで脚を延ばしたが、それから西の街並みは訪れていない。今回でようやく西側が繋がる。
町の西の入口の尼瀬獄門跡には真新しい北国街道の碑がある。出雲崎は奥州道でなくて、北国街道の終着点と言う事で統一されているようだ。
出雲崎は江戸時代は幕府直轄地で、代官所が置かれた。獄門跡には多くの地蔵堂と供養の石塔が立っている。

20130702北国街道碑s-.jpg  20130702獄門跡s-.jpg


天瀬油田は日石初代社長の内藤久寛が日本最初に石油機械掘りに成功した油田で、その櫓と採掘機が保存されている。

20130702尼瀬油田跡s-.jpg


シルエットが面白い妻入りの街並みを歩き、良寛堂へ出た。

20130702街並みシルエットs-.jpg


以前は冬で、堂の扉は閉まっていたが今回は良寛の文字が刻まれた碑と、良寛が愛好したという小さな石地蔵を見ることが出来た。

 いにしへに変らぬものは荒磯海と向いに見ゆる佐渡の島なり

20130702良寛堂s-.jpg  20130702良寛堂内碑s-.jpg 


二度目の出雲崎の5年間は、その間に中越沖地震があり、勿論東日本大震災があり、日本も人も大きく変わったのだろう。

良寛71歳の時の三条の大震の時の書状に、
「災難に逢時節には、災難に逢がよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候。」
とある事を思い出した。
1828年の三条の大震からほぼ百年が経った。次の百年で出雲崎も勿論大きく変貌し、北国街道も、勿論日本も変転するだろうが、いにしへに変らぬものは何なのか。
明るい空の下に過去からの、そして未来へ向けての長い時間を掛けた崩壊感がぬぐえない。
しかし、佐渡を見据えて座り続ける良寛が残したものは変らないだろう、と思って北国街道の旅を終える。

 御かへし             師
  うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ

20130702良寛像s-.jpg


posted by 遊戯人 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 北国街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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