ここは家康の頃から塩田が奨励されていたと言うが、遠州灘沿いには塩田の適地になりそうなところが数多く、なぜ相良が塩の道の出発点になったのかはかなり謎だ。
相良は相良藩があり有名な田沼意次も藩主となり築城したが、意次の失脚後城は破却されていて見当たらない。
本丸跡は牧之原市資料館があるが、パスしてまずはスタート地点へ。
街道の起点には塩の道の碑があり、この碑はこれから先も街道の要所要所に建っており旅の道連れとなったが、モニュメント的意味合いでなく、もう少し情報を加えてもらえば有難かった。
市街地の街道沿いには、塩の道案内所もあったが、平日なので資料や人は見当たらない。
園坂から見返すと茶畑越しに相良の町並みと太平洋が見え、なにやら巨大な建築物が見える。
これは萩間川相良水門で、水門には全く不必要な立派な屋根がついており、公共事業いの無駄使いの典型がこのようなところにも見受けられる。



平坦な牧之原台地を一直線に進んでゆく街道は、一面の茶畑しか見当たらない。牧之原台地自体が明治以降の新興開拓地なので当然ながら由緒ある社寺は殆ど存在しない。
街道の迷いがちな分岐点には、「秋葉道・塩の道踏査研究会」と記された案内標識があって心強い。
しかしこの標識の矢印が曲者で、見る位置によってどのルートを示しているのか曖昧な事も多く今回は助けられもしたが、かなり悩まされもした。
これが秋葉山を過ぎて逆方向からも付いているだろうか。
また、真新しい小ぶりな塩の道の石碑も要所要所に設置されている。これは裏面に「平成十年度小笠町郷土研究会」とあり、色々な研究会が競っている。



これだけ標識があっても何故か、道迷い、
謂れありげな名前の塩買坂を過ぎてから、塩の道踏査研究会の案内標識に従って茶畑の中の旧道に入ると道筋が不明となり、掛川までの数少ない寺の名刹正林寺を見落としてしまったのは悔やまれる。
杉森と言う場所にある応声教院は、山門が重文だ。
境内には雑多な石像が多数あり、酒樽を模した堂の中にのんべえ地蔵なるものもある。
これと同じようなものを秩父巡礼の札所十六番西光寺でも見かけたが、そちらは大黒様、こちらはお地蔵様。
梵鐘の龍は、その両眼は純金、爪と牙は純銀で日本唯一との説明があった。



あちこちで幟立てに木の枝を差しているものを見かけたが、どういう風習だろうか。

家康が掛川城攻めのときに陣地にしたという陣場峠へ茶畑の中を上ってゆくと、ようやく掛川市街を見下ろすことが出来る。
峠を下り、キリシタン灯篭のある大日寺を過ぎる頃は日もとっぷりと暮れ、刻まれているのがマリア様か如来かは定かでなかった。


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