2011年04月10日

下田街道(その4:北の沢〜下田)

蓮台寺から箕作までバスで戻り、さらにそこから先は一時間ほど歩いて前回の終着地、北の沢にたどり着く。

石の上の溝が蛇の形で、そこに溜まっている水が枯れると旱魃になるという蛇地蔵。幸いなことに水は枯れていない。

20110410蛇地蔵s-.jpg  20110410蛇地蔵溝s-.jpg


街道は長閑な景色を楽しみつつ稲梓川沿いに進み、箕作(みつくり)に戻り着く。

箕作という地名は、謂れがありそうだ。
案の定、礪杵道作(ときのみちつくり=大津皇子の家来)が、大津皇子事件の際に朱鳥元年(686年)に謀反の罪でこの地に流罪となり、その後、居住したことが由来してついた地名と。
途中、道作八幡宮もあったようだが、立ち寄らなかった。
伊豆は源頼朝、日蓮や文覚など流罪の地だが、礪杵道作は伊豆の国へ流罪を受けた最初の人。1300年前の流刑人が地名に蘇る。

20110410長閑な風景s-.jpg  20110410箕作s-.jpg


箕作を抜けると、行基の開山とされる米山薬師がある。
日本三大薬師の一つと謳っているが、とてもそのような気配は見えず、残りは越後と伊予の薬師というがこれも諸説ある。

20110410米山薬師s-.jpg


この辺に、廻国塔や巡拝塔が多い。
廻国塔は全国六十六箇国を巡り大乗妙典を奉納、巡拝塔は西国・四国・秩父・坂東の観音霊場を廻った記念なのでいずれにせよ、気楽な街道歩きとは違った苦労が偲ばれる。

20110410廻国塔.JPG


下田に近づくと、唐人お吉が身投げしたというお吉ヶ淵に御堂と、お吉を悼んで新渡戸稲造が建てたお吉地蔵がある。新渡戸稲造が何故、お吉を殊更に悼んだのだろうか。

 から艸の浮名の下に枯れはてし 君が心は大和撫子

20110410お吉堂s-.jpg  20110410お吉地蔵s-.jpg


向陽院は枝垂桜が美しく、風待ちの港として栄えた下田に全国の船頭が安全を祈願したという夥しい地蔵が奉納されている。

20110410向陽院s-.jpg  20110410向陽院地蔵.JPG


下田富士を眺めながら、街中に入り、下田街道の終着点の「みなと橋」で旅を終える。

20110410下田富士s-.jpg  20110410みなと橋s-.jpg


お決まりの、ペリーの碑や吉田松陰にまつわる史跡、唐人お吉の墓や坂本竜馬由来を売り物にするあざとい宝福寺など見て散策。
稲田寺の安政の東海地震の犠牲者を供養する津なみ塚が、東日本大震災後だけに心に重く響き、下田駅前は休日にもかかわらず震災の影響で火の消えたような寂しさだった。

20110410ペリー記念碑s-.jpg  20110410宝福寺s-.jpg  20110410津波碑s-.jpg


流刑の地の歴史を背負った伊豆半島は、たおやかな自然とは裏腹に、震災の影響ばかりではない温泉地の衰退は見るも無惨で、その中を貫く下田街道に拡がる光景は、震災の前と後で季節の歩み以外は何一つ変化のある筈もないが、見る者の心は大きく揺らぎ、刻み付けられる記憶も変転する。

春の陽光にもかかわらず、どこか冷めやかに見える光景は、行く末も決して同じものではあり得ず、その時の心はどう移ろふか。

移ろいは「うつろひ」であり、うつろひは「虚ろひ」でもあり「空ろひ」だ。
小野小町は花の色はうつりにけりなと詠い、藤原定家は本歌取りをするが、どちらも「身はいたずらに」だ。

 たづね見る花のところもかはりけり 身はいたづらのながめせしまに(藤原定家)

いたずらにでも、移ろいを確かめに、まだ少し先に進んでみる。


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2011年04月04日

下田街道(その3:水生地下〜北の沢)

水生地下からは、渓流を離れ林道となる。
程なく水生地に至り、氷室園地がある。ここに川端康成の伊豆の踊子の碑。
また、ここは松本清張の小説の「天城越え」の舞台でもあり、氷室が復元されている。

ここから分岐する道を八丁池まで歩いたことを思い出す。昔々の物語。

20110404川端康成碑s-.jpg  20110404氷室s-.jpg


天城山隧道を越える。

 走り水 迷い恋
 風の群れ 天城隧道

20110404天城山隧道s-.jpg

 
隧道を過ぎると寒天橋。さらに見返すと二階滝。

 わさび沢 隠れ径
 小夜時雨 寒天橋

20110404寒天橋s-.jpg  20110404二階滝s-.jpg


国道を渡り返して平滑の滝を過ぎると、130年ほど前植林された見事な宗太郎杉並木。

20110404平滑の滝s-.jpg  20110404宗太郎杉並木s-.jpg


河津七滝の上流にある猿田淵に下る。
観光客は足を運びにくいところだが、河津七滝の遊歩道と繋げる工事が行われており、せっかくの良質な自然にとっては迷惑な事だ。

20110404猿田淵s-.jpg  20110404遊歩道工事s-.jpg


河津七滝、まず釜滝。高さはあまり感じないが、柱状節理が見事。

20110404釜滝s-.jpg


えび滝、へび滝、初景滝、かに滝、出合滝と続く。かに滝はどれがそれなのかよく分からない。
伊豆の踊子の像もご丁寧に二組ある。

最後の大滝は温泉旅館の敷地の中を下ってゆく。あまり近づけないので迫力は今ひとつ。

20110404えび滝s-.jpg  20110404へび滝s-.jpg  20110404初景滝s-.jpg

20110404踊子像s-.jpg  20110404出合滝s-.jpg  20110404大滝s-.jpg


滝見物のあとは、巨大なループ橋。
1978年の伊豆大島近海地震で山腹の道路が寸断されて、その対応として作られたということだが、ここまでこれ見よがしにした意味が全く不明。
土木設計者がやって見たかったと言う事だろうが、自然な抗うような構造物はいずれ天罰が下る。

小さな集落の川横区は、風情のある光景が見られる。

20110404ループ橋s-.jpg  20110404川横区風景s-.jpg


小鍋神社には、髑髏木なる樫の木がある。
文覚上人が源頼朝に決起を促すため父の義朝の髑髏を見せ、その後この地に埋めたという。

20110404小鍋神社s-.jpg  20110404髑髏木s-.jpg


湯ヶ野温泉を左下に見つつ、小鍋峠への道へ入る。
この峠は標高290mだが、天城峠以南の難所とされていた。

道は荒れていて、あまり人の踏み跡がない。
峠の標識は朽ちて倒れていたが、野仏へのせめてもの供養と思い立ち起こしてきた。

20110404小鍋峠への山道s-.jpg  20110404小鍋峠1s-.jpg  20110404小鍋峠2s-.jpg


峠を下り北の沢に入ると、ハリスが見たという楠の孫木がある。

20110404くすの木s-.jpg


ようやく国道へ出て、下田まで残りの距離は僅かだが、都合よく来たバスで、北の沢バス停から次回の予習をしながら下田に出る。
二つの峠と、多くの滝と、時代を経た樹々と、そして自然を恐れぬループ橋と言う醜悪な人工物を見た一日だった。
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2011年03月27日

下田街道(その2:修善寺〜水生地下)

下田街道の一回目から、この二回目までに東日本大震災があり多くの人々の生活や考え方に変化が起きた。
千年に一度の災害は、千年前にはなかった原発災害をもたらし、震災発生から二ヶ月経つと意図的な情報操作でニュースの頻度も減少しているが事態は多分一層悪化しており、日本が元の姿になるのにまた千年かるのかもわからない。

そういう重苦しい気持ちと関係なく、伊豆の空は晴れており、透き通る若葉はあくまで清明で、渓流も滝も爽やかに日の光を反照し躍動するように煌き流れていた。

修善寺を降り立つと、レトロな姿の伊豆の踊子号のボンネットバスに遭遇する。このバスも現在は伊豆半島への観光客の大幅な減少で運行が中止されている。

20110327伊豆の踊子号s-.jpg


修善寺温泉への道を分ける湯川橋。川端康成の「伊豆の踊子」ではここで、一高生が踊子たちと出会うのだが現代の踊子はもちろん現れず。
修善寺のある地域は伊豆市で、伊豆市の隣接した北は伊豆の国市とこの近辺も紛らわしく節操の無い市名が付けられている。

20110327湯川橋s-.jpg


国道や旧道を縫いつつ、街道は柿木橋へ。ここには狩野城と狩野派発祥の地の案内標識がある。
狩野氏は祖が土地の豪族狩野維景で、狩野派の初代狩野正信は維景の十六代の孫という。狩野派発祥の地とはやや誇大宣伝か。

20110327狩野城看板s-.jpg


すぐそばに狩野ドームがある、これも以前は天城ドームといっていた筈。多分新天城ドームが出来たのでお株を奪われたようだ。これは新参者に旧家が争いに負けた構図。

20110327狩野ドームs-.jpg


月ヶ瀬で賽の神を見かける。ここ以外にも賽の神は散見した。
行事としてのどんど焼きも賽の神というが、街道の賽の神は集落の出入り口に設置されており、道祖神は道の神で賽の神は疫病神などを防ぐ神とされるが区分はかなり曖昧だ。

20110327賽の神s-.jpg


嵯峨沢で明徳院に立ち寄る。
ここは東司の神様である烏彗沙摩明王を祀っている事で有名で、建物の一角に昔風の便器と男女性器とがあり、それぞれおまたぎしておさすりするとご利益があると。
山門の横に応永の槇があり、樹齢600年で全国第二位と伊豆市のHPには出ているが、古いには古いがどこにでもありそうな槇でこの情報も胡散臭い。

20110327明徳院s-.jpg  20110327トイレの神様s-.jpg  20110327応永の槇s-.jpg


川端康成も好んだ湯ヶ島温泉に入ると震災の余波で客足が減っていることもあるが、その寂れ方は尋常ではない。
市営の立派な建物の天城温泉会館は2年前から温泉客の減少で閉鎖されており、隣の夕鶴記念館も殆ど開店休業状態だ。

20110327湯ヶ島温泉会館s-.jpg


この町が井上靖のゆかりの土地であることは初めて知る。町歩きの案内板を兼ねた「しろばんばの里」の看板があちこちに出ており、井上本家の上の家も健在だ。

弘道寺にはハリスが宿泊し、その記念碑がある。
日本滞在記の文章が彫られ、富士のことを「・・・私が1855年1月に見たヒマラヤ山脈の有名なドヴァルギリよりも目ざましいとさえ思われた。」と書いているが、ハリスがヒマラヤ近辺まで行っていたとは知らなかった。ドヴァルギリなるダウラギリの方が目覚しいと思える。

20110327上の家s-.jpg  20110327ハリス記念碑s-.jpg


浄蓮の滝で初めて踊り子に出会う。石川さゆりの天城越えの歌の碑がある。

 あなたを殺していいですか
 寝乱れて 隠れ宿
 九十九折り 浄蓮の滝

20110327伊豆の踊り子像s-.jpg  20110327浄蓮の滝s-.jpg


浄蓮の滝の前から、旧道は「踊り子歩道」の看板が建てられている。
道筋には島崎藤村や横光利一の文学碑もあり、横光利一は小説の「寝園」にちなむものというが、知らない。

踊り子歩道標識s-.jpg  島崎藤村文学碑s-.jpg  横光利一文学碑s-.jpg

街道は国道と交差して道の駅「天城越え」を過ぎると滑沢渓谷沿いに進む。
途中でハリスや吉田松陰が歩いた二本杉峠への道を分ける。そちらのほうも魅力的だが、最終バスに間に合わないので天城峠への道をとる。

20110327滑沢渓谷s-.jpg


大川端キャンプ場付近で国道に出る上り口が見つからずに迷い、一つ先の水生地下のバス停まで歩く羽目に。
着いたときはすでに最終バスは通り過ぎ、歩いたり走ったりと悪戦苦闘して何とか出発点の修善寺まで戻りつく。

伊豆半島の踊り子歩道、侮りがたし。
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2011年03月05日

下田街道(その1:三島〜修善寺)

東日本大震災といまだ全く終息の気配の見えない原発問題で、街道の記録も手付かずなままだったが、少し書く気力も戻り始めた。

何一つ解決しない原発問題だが、季節は巡る。

下田街道は東海道の三島宿の三嶋大社前から分けれて、下田まで68kmほどの街道で、富士を背に春先に歩くにはもってこいの街道だ。

三島は三島溶岩流の先端下から湧きでた富士山の被圧伏流水の湧水の町で、三島駅から三嶋大社への道は町の人々が協力して川をさらっている風物が見られた。
柿田川もそうだが、ここでも水に対する誇りが感じられる。

 富士の白雪ノーエ  富士の白雪ノーエ
  富士のサイサイ  白雪朝日でとける
 とけて流れてノーエ  とけて流れてノーエ
  とけてサイサイ  流れて三島にそそぐ

20110305三島湧水s-.jpg


伊豆一の宮の三嶋大社でまずは旅の安全祈願をし、珍しいたたり石を見る。この石は神社前の東海道に置かれていて、行きかう人の流れの整理をしていたと。
街中の下田街道は整備されており、歩行者に優しい道となっている。

20110305三嶋大社s-.jpg  20110305s- たたり石.jpg  20110305三島の下田街道s-.jpg


手無し地蔵の境内に唯念名号塔がある。何となく愛嬌のある書体だが下田街道では頻見し、唯念は生涯に一千を越す碑を建てたといわれている。

20110305唯念名号塔s-.jpg


大場川では振り返れば流麗な富士。

20110305富士s-.jpg


間宮の廣渡寺に侠客大場の久八の墓を詣でる。
久八は江川太郎左衛門が品川沖にお台場を造営したとき、東海一の親分として数千人の人夫を指揮して完成させた。今は臨海副都心の一部となっている台場も伊豆由来という訳だ。

原木駅付近で寄り道をして、「吾妻鏡」に出てくるという、頼朝が山木兼隆襲撃に際し通った道の牛鍬大路を見る。区画整理されて農道となっているがいかにもそれらしい道だ。

姫型道祖神を見つける。
これも唯念名号塔と同じで伊豆半島では数限りなく現れるが、なぜ姫型なのかは不明。

20110305大場久八墓s-.jpg  20110305牛鍬大路s-.jpg  20110305姫型道祖神s-.jpg


韮山では、街道を外れると江川邸、蛭が小島、反射炉などがあるが以前訪れたので今回は省略し先を急ぐ。

北条政子産湯の井戸、足利政知の伝堀越御所跡、北条時政の墓のある願成就院など韮山付近には見所が多い。親の時政と子の政子の生死の史跡が期せずして殆ど同じ場所にあるのは不思議。
政子の墓は鎌倉の寿福寺にあり、これは尼将軍として権勢を誇った政子のものとも思えない粗末なやぐらだが、ある意味産湯の井と対峙している。

20110305北条政子産湯の井s-.jpg  20110305北条時政墓s-.jpg


直ぐ傍の狩野川沿いには北条氏邸宅跡があるが、調査途上のようで荒れたまま放置されている。
「夏草や兵どもが夢の跡」の鎌倉幕府版だ。

20110305北条氏邸宅跡s-.jpg


田方郡は田方条里という条里制の痕跡が残っており、田京駅付近の六角堂跡では下田街道は不可思議に直角に折れ曲がり、現道と見事に45度で交差する。
これはこの条里そった道で、律令時代の痕跡を知るのも街道歩き。

20110305条里制の道s-.jpg


広瀬神社からは富士が美しい。

20110305広瀬神社からの富士s-.jpg


大仁駅を過ぎ、狩野川を渡ると大仁金山の看板が見える。この金山は昔は瓜生野金山で五街道を整備した大久保長安によって開かれ、金山奉行であり伊豆奉行でもあった長安のもう一つの顔。

立派な長屋門を過ぎ、暗殺された二代将軍源頼家縁の笠を被った横瀬愛童将軍地蔵を見て、狩野川を渡り返し、修善寺駅で初日を終えた。
鎌倉幕府に関係した史跡が多い一日だった。

20110305大仁金山s-.jpg  20110305長屋門s-.jpg  20110305横瀬愛童将軍地蔵s-.jpg
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