2013年07月02日

北国街道(その6:鯨波宿〜出雲崎宿)

街道は、鯨波駅の横の坂を上って行く。この坂が戊辰戦争の激戦地となった嫁入坂らしい。
直ぐに御野立公園。戊辰戦争の東軍の司令部が置かれ、明治天皇が巡幸の折、野立をしたところ。

柏崎宿手前で、日蓮が赦免され佐渡から無事着岸した事を感謝して、三十番神を祀ったという彫り物が見事な番神堂に立ち寄る。
三十番神という神を知らなかったが、神仏習合のもので日蓮宗では特に熱心に信仰されたらしい。
堂の裏手からは、日蓮が着岸したという岩場に木の標識が立っているのを見下ろせる。

20130702御野立公園s-.jpg  20130702番神堂s-.jpg  20130702日蓮着岸の地s-.jpg


柏崎宿は良寛の弟子となった貞心尼の縁のものが多い。剃髪の地と言われる閻王寺の跡は順之木稲荷神になっている。
街道沿いに喬柏園という、由緒がありそうな施設があった。土地の方に伺うと昔の公会堂で今は市民施設として使われているという。
十分な維持管理がされている気配はなく、調べて見ると国の登録有形文化財にもなっているが、その標識も解説も見あたらなかったのは残念だ。

20130702閻王寺跡s-.jpg  20130702喬柏園s-.jpg  


昔は街道の中央にあったという、ねまり地蔵。明治天皇の巡行の折りにこの場所に移らされた。
「ねまり」とは「根埋」で、「昔市街の中央に南向して立てり半身土中に埋もれたるを以て「根埋地蔵」と名付く」と言う事らしい。
これと対の物が、すぐそばにある立地蔵。実際は地蔵でなく薬師三尊と。
二つとも大きな地蔵で、しかとは判別できないがおおらかさを感じられる。

20130702ねまり地蔵s-.jpg  20130702立地蔵s-.jpg


ふるさと人物館の前に移設された道標が二本ある。補強された古い方は「右 三国街道 小千谷十日町道」「左 奥州道」、三国街道も現れてきた。もう一本は新しい。
田中角栄は西山町出身で今は柏崎市なので、この人物館にも当然展示されているのだろう。

20130702ふるさと人物館庭道標s-.jpg


ソフィアセンターという図書館敷地に貞心尼の像がある。御付の犬もいて、どういう縁なのだろうか。
この像は遠く、良寛の故郷の出雲崎のほうを向いているという。
ここには貞心尼の「蓮の露」の直筆本があるが、まだ開館時間前で見れないのは何時もの事。
貞心荷の辞世の歌は、
 来るに似て 帰るに似たり おきつ波
               立ち居は風の 吹くにまかせて
良寛との相聞の下の句の「あきらかりけり君がことのは」の本歌取り。こういう世界もある。

ソフィアセンターはRIAの設計で、かなり異質の外観だ。
柏崎市は言わずと知れた東電の柏崎刈羽原発が立地して、その電源開発交付金で様々な整備が行われており、1978〜2009年度の32年間に柏崎市にもたらされた原発財源の総額は2,364億2,480万円にものぼるという事だ。
この図書館も交付金で作られた箱ものの一つ。その他にも柏崎市には金に飽かせた珍妙な博物館が多いらしい。

20130701貞心尼像s-.jpg  20130701ソフィアセンターs-.jpg


市内の路地の気の利いたペイブや、メインストリートのアーケードの柱が御影石で覆われていたり、ストリートファニチャーが多かったりと、あれもこれも原発のおかげだろうか。

20130702柏崎ペイブs-.jpg  20130702ストリートファニチャs-.jpg  20130702柏崎アーケードs-.jpg


宿場の外れに閻魔堂がある。
中越地震で向拝は倒壊したが、堂内部の閻魔様や十王は何の被害も受けずに無事だったという。向拝は真新しく復旧していた。

柏崎市は越後バスが走っているが、どうも東急バスに瓜二つと思ったら、昔は東急グループだったと云う事で、東急の中古の車両も沢山現役で走っているからという。なるほど。

20130702閻魔堂s-.jpg  20130702閻魔堂内部s-.jpg  20130702越後交通s-.jpg


鯖石川に昔悪田の渡しがあり、安政年間に安永橋が架けられた。
「柏崎から椎谷まで間に荒浜、荒砂、悪田の渡しがなきゃよかろ」と唄われた。
現代の安政橋の袂に田中角栄が揮毫した渡しの碑がある。意思の強い筆致だ。

20130702安政橋s-.jpg  20130702悪田の渡し碑s-.jpg


荒浜砂丘に植林された松林を見ながら単調な道を歩くと、東電の原子力や放射能の広報施設のアトミュージアムがある。
館内に入ってみると誰もおらず、職員も手持ち無沙汰のようだった。
街道は再稼動で紛糾している東電柏崎刈谷原発に突き当たり、大きく迂回する。
迂回地点に温排水資料展示館があり、屋上から刈谷原発の6本の煙突が遠望できる。

20130702アトミュージアムs-.jpg  20130702刈谷原発s-.jpg  


道の傍らに広報施設の子供を対象とした東電サービスホールがある。上階からは刈谷原発の展望施設もあるが、館内に利用者はいないようだった。
敷地全域に張り巡らされたフェンスや、侵入防止の有刺鉄線がものものしい。
長い迂回路を終えて、ようやく海に出る。振り返ると原発越しに二本木宿辺りからずっと寄り添ってきたような米山が見える。

20130702東電サービスホールs-.jpg  20130702原発フェンスs-.jpg  20130702原発遠望s-.jpg


宮川宿手前に不動明王を祀る堂があるが、風除けのために綺麗な塀で覆われている。これも珍しい。
宮川宿から、少しずつ特徴のある妻入りの家が現れて来る。
宿の外れに、生活用水として使われているという湧水があるが、藻なども生えていて、残念ながら既に見捨てられている気配だった。

20130702不動明王堂s-.jpg  20130702宮川宿s-.jpg  20130702宮川宿湧水s-.jpg


原子力災害時コンクリート屋内退避施設という標識があり、美しい景観が放射能と一蓮托生の場所である現実に立ち戻らされる。

20130702原発避難施設標識s-.jpg


椎谷宿に入ると、ここも出雲崎ほどではないが、味のある妻入りの家が多い。
「歴史と文化の町椎谷」の幟が立っている。歴史は多分この町の椎谷藩、文化は不明。
椎谷藩は喜連川藩の5千石の次に小さな藩だったと云い、陣屋の跡が部分的に整備されている。
越後柏崎・七街道の標識があり、七街道とは何かと気に掛かったが、北国街道、綾子舞街道、からむし街道などを云うらしい。
ここも越後三大馬市の一つで、馬喰宿の跡に石碑が立っている。

20130702椎谷宿s-.jpg  20130702椎谷陣屋跡s-.jpg  20130702椎谷宿馬市跡s-.jpg 


街道沿いの民家の塀が、風化した砂岩状のもので作られていて良い味が出ているがどういう石だろうか。

20130702椎谷宿塀s-.jpg


宿場を出て観音崎の夕日が丘公園の方へ街道は続くが、ここも中越地震の被害で道筋が被害を受け、修復を諦めて、上り切った所で通行止めとなっている。
北国街道で地震のために無くなってしまった、二つ目の道筋だ。

20130702観音崎通行止めs-.jpg


トンネルで岬を抜けると、杖立観音堂跡があり、様々な石碑が集められている。
ここも中越地震で崩壊し、再建を断念した。見えないところで地震の被害は深い。
この付近から、風当てといわれる海の強風から家を守るための塀が見られる。竹であったり板塀であったり様々だが、冬場の辛さが思いやられる。

20130702杖立て観音堂跡s-.jpg  20130702風当て2s-.jpg  20130702風当て1s-.jpg


石地宿に、沖合いに延びるフィッシングセンターがある。これも原発交付金で出来ている。
道を挟んで反対側に、羅石尊がある、金精様だが本物は沖合いにあったが船が衝突して頂部だけここに移したとか。
ここには観音堂や閻魔堂もあって賑やかだ。

20130702フィッシングセンターs-.jpg  20130702羅石尊s-.jpg  20130702閻魔堂s-.jpg


昭和2年に新聞社が選定した新潟の海水浴場に、石地海水浴場の一等当選の碑が立っている。
今も夏場は海水浴で賑わうのだろうか。

20130702海水浴場一等碑s-.jpg


宿場に大庄屋の内藤家の久寛荘がある。日石の初代社長内藤久寛の生家。
北国街道の日本海沿いでは全く庄屋らしき門構えを見かけなかったが、ここはよく維持されていて、未だに臨海学校として使われているらしい。

20130702久寛荘s-.jpg


出雲崎宿の外れに蛇崩の丘があり、ここに旅立ちの丘という標識が立ってる。
ここからは良寛の気配が濃い。
傍らには、草生した中に戊辰戦争の松代藩士の墓も見受けられる。地震も戊辰戦争も傷が残る。

20130702旅立ちの丘s-.jpg  20130702松代藩士碑s-.jpg


以前出雲崎に来てから5年経った。
其の時は良寛の縁の良寛記念館、良寛堂などを訪ね、良寛が出家した光照寺まで脚を延ばしたが、それから西の街並みは訪れていない。今回でようやく西側が繋がる。
町の西の入口の尼瀬獄門跡には真新しい北国街道の碑がある。出雲崎は奥州道でなくて、北国街道の終着点と言う事で統一されているようだ。
出雲崎は江戸時代は幕府直轄地で、代官所が置かれた。獄門跡には多くの地蔵堂と供養の石塔が立っている。

20130702北国街道碑s-.jpg  20130702獄門跡s-.jpg


天瀬油田は日石初代社長の内藤久寛が日本最初に石油機械掘りに成功した油田で、その櫓と採掘機が保存されている。

20130702尼瀬油田跡s-.jpg


シルエットが面白い妻入りの街並みを歩き、良寛堂へ出た。

20130702街並みシルエットs-.jpg


以前は冬で、堂の扉は閉まっていたが今回は良寛の文字が刻まれた碑と、良寛が愛好したという小さな石地蔵を見ることが出来た。

 いにしへに変らぬものは荒磯海と向いに見ゆる佐渡の島なり

20130702良寛堂s-.jpg  20130702良寛堂内碑s-.jpg 


二度目の出雲崎の5年間は、その間に中越沖地震があり、勿論東日本大震災があり、日本も人も大きく変わったのだろう。

良寛71歳の時の三条の大震の時の書状に、
「災難に逢時節には、災難に逢がよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候。」
とある事を思い出した。
1828年の三条の大震からほぼ百年が経った。次の百年で出雲崎も勿論大きく変貌し、北国街道も、勿論日本も変転するだろうが、いにしへに変らぬものは何なのか。
明るい空の下に過去からの、そして未来へ向けての長い時間を掛けた崩壊感がぬぐえない。
しかし、佐渡を見据えて座り続ける良寛が残したものは変らないだろう、と思って北国街道の旅を終える。

 御かへし             師
  うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ

20130702良寛像s-.jpg


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2013年07月01日

北国街道(その5:黒井宿〜鯨波宿)

月日の流れは速いもの、10ヶ月ぶりに北国街道へ向う。
犀潟に向ったほくほく線は、六日町から先は誰一人乗っておらず貸し切り状態。
犀潟からの北国街道も、人っ子一人見えないのは何処となく同じ印象。

黒井宿の円蔵院に木喰上人の毘沙門天と不動明王があるが、本堂は開いていなくて、外からそれらしい像を窺う。

20130701ほくほく線s-.jpg  20130701黒井宿s-.jpg  20130701木喰上人毘沙門天s-.jpg


潟町宿に米山道・左奥州道と彫られた道標がある。ここでも北国街道でなくて奥州道。
少し前まで昭和25年まで生活用水としていて使われていたという、どんどん湧くからというどんどの石井戸はまだ健在。
ここには鵜の浜温泉という温泉があり、これは帝国石油が石油・ガスを試掘した時に温泉が噴出したらしい。
石油施設は見当たらないので、本命は出ずに、温泉が出たということか。

20130701米山道道標s-.jpg  20130701どんどの井戸s-.jpg


鵜の浜海水浴場からは、残念ながら佐渡は見えないが、南を見ると黒井宿の上越火力が偉容を見せている。
ここにも小川未明の「赤い蝋燭と人魚」にちなんだ人魚像と、少し先には人魚塚がある。
海岸沿いに松林が列なり、240年前に地主の藤野条助が苦労して植林をしたとの説明板がある。
とても240年経ったものとは思えないが、海風で生育が阻まれているのか。

20130701鵜の浜海水浴場s-.jpg  20130701上越火力s-.jpg

20130701人魚像s-.jpg  20130701人魚塚-.jpg  2013070松林s-.jpg


柿崎宿の手前光徳寺に、ライオン創始者の小林富次郎を讃える石碑があり、少し歩くとまた藤野条助の植林の顕彰碑がある、これは個人が建てているようだった。藤野条助はこの辺ではよほどの著名人。

20130701小林富太郎顕彰碑s-.jpg  20130701藤野条助顕彰碑s-.jpg


柿崎宿に入ると、日蓮縁の妙蓮寺、パゴダ風の奇妙な外観の親鸞縁の浄善寺と続く。
浄善寺にはしぶしぶ宿の詠歌碑が立っていて、親鸞に最初は宿を貸さなかった扇谷の主はあまりほめられた話ではない。
 柿崎にしぶしぶ宿をかりければ あるじの心熟柿なりけり

20130701妙蓮寺s-.jpg  20130701浄善寺s-.jpg


宿場の外れの枡形に、「右山みち 左奥州道」と刻まれた指で方向を示した石碑がある。指の線画のものは何回か見たが、このように浮彫りのものはかなり珍しい。
山みちは米山道だろうか。

20130701柿崎宿道標s-.jpg


難所の米山三里の入口の鉢崎宿に入り、芭蕉の泊ったたわら屋と、鉢崎関所跡を見る。
それぞれ、看板と碑が立っているが、関所跡は以前は空き地だったのがつい最近民家が建ってしまい、軒先に石碑と定の看板があるだけで、何の説明もなくかなり残念な状態。
聖ヶ鼻への上り道からは、鉢崎宿がよく見え、その景観は中山道の碓氷峠への途中で見える坂本宿と雰囲気が良く似ている。

20130701たわら屋跡s-.jpg  20130701鉢崎関所跡s-.jpg  20130701鉢崎宿s-.jpg


聖ヶ鼻からは、褶曲地層で有名な牛ヶ首が遠望できる。
本来は聖ヶ鼻から岬沿いに旧道が続いていたが、中越地震で道筋が崩壊して通れない。国道に戻り米山トンネルで抜けて上輪集落へ向かう。

20130701牛ヶ首s-.jpg


上輪集落から牛ヶ首までは、新道ははるか空中を飛んでいるが、旧道は曲折して案内もなく、上り下りも結構な道だ。
明治天皇北陸巡航の御宿処の六宜閣は今は料亭のようだが、国の登録文化財。
牛ヶ首では褶曲地層がよく見える。500万年前に出来たものとの説明。

20130701上輪集落辺りs-.jpg  20130701六宜閣s-.jpg  20130701牛ヶ首1s-.jpg


米山三里の標識が出ている狭い道を下ると青海川駅。
この駅は浜芝浦駅などと同じに海に一番近い駅とも云われ、日本海に夕陽が沈む光景は、日本一美しいと謳われる。
でも、この辺は潟町宿の夕日の森、椎名宿の夕日が丘公園、出雲崎宿の日本海夕日公園、夕日の丘公園ととにかく混乱するほど夕日にちなんだ公園が多い。
よく見ると、少しずつ言葉が違っているのはご愛嬌。

20130701青海川への坂道s-.jpg  20130701青海川駅s-.jpg


ここから旧道は消失し、谷根川沿いに少し上流に戻りそれらしい道で迂回して恋人岬方面へ向かう。
建設当時日本一高さ橋脚と言われた米山大橋が豪快で、夕陽の中のシルエットが美しい。

20130701米山大橋1s-.jpg  20130701米山大橋s-.jpg


鯨波宿はその地名の由来が気に掛かるが、鯨が浜に打ち上げられた事からという説や、昔は「桂波」だったが、鯨の大漁があったので鯨波というようになったとか、「鯨」は、「くずれ」から転訛したもので崩壊地を示し、鯨波というのは「波で崩れた崖が並んでいること」とか諸説あるようだ。

駅前に何もない鯨波駅には鯨の絵が描かれており、海水浴で有名な海岸には美しい夕日が沈もうとしていた。

20130701鯨波駅s-.jpg  20130701鯨波海岸夕日s-.jpg   
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2012年10月17日

北国街道(その4:高田宿〜黒井宿)

街道に戻る前に、見所多い高田宿を散策。

先ず寺町。ここには63の寺があるといわれ、中心は親鸞を祀る浄興寺。山号は歓喜踊躍山と賑々しく本堂は重文。親鸞を祀る廟があり、これもきらきらしい。

駅の付近の、意図しない建物の壁面がアートのようで目を奪う。

20121017浄興寺s-.jpg  20121017親鸞廟s-.jpg  20121017レトロな壁s-.jpg


大町通りのニ・七の市を見て、新潟県唯一のヴォーリスの設計した高田降臨教会を見学。
幼稚園が併設されているために、内部は公開されていないが親切な司祭の方が見学させてくれた。
外観は温かみのある褐色で、礼拝室は簡素な作りだが時を経た木の質感がしっとりと馴染んでいる。
特徴的なエントランス上部の塔は、現在は使われておらず物置となっていた。
欄間に彫り込まれた、東方の三博士の旅の物語が楽しい。

20121017朝市s-.jpg  20121017高田降臨教会s-.jpg  20121017高田降臨教会祭壇s-.jpg 

20121017高田降臨教会東方の三博士s-.jpg


レトロな建物も目を引く。
近代化遺産の高田世界館は100年も続いている日本でも最古級の映画館と言うが、あいにく休館日で内部は見れなかったのは残念。

20121017高田の建築s-.jpg  20121017高田世界館s-.jpg


高田宿で唯一見かけた、造り込み雁木の「旧今井染物屋」。
雁木の下は私有地なので、各々の所有者が自由に味わい深い路面を演出している場所も多く、財のある家はその設えを競ったろう。

20121017旧今井染物屋s-.jpg  20121017雁木下路面1s-.jpg  20121017雁木下路面2s-.jpg 


高田宿外れの加賀街道と北国街道奥州道の追分の傍の宇賀魂神社に、移設された道標がある。
「右 於ヽ志う道、左 加ヽみち」、この辺からは北国街道よりも奥州道という表記が多く現れて来る。
厳密に言うと、この追分が北国街道の終点という事らしい。

20121017北国街道追分s-.jpg  20121017道標s-.jpg


稲田口番所跡で高田宿を出ても、雁木がある通りが続く。
この付近のどの神社の灯篭も極端に背が高く、豪雪をうかがわせる。

20121017松之山街道口雁木s-.jpg  20121017高灯篭s-.jpg  


関川沿いに街道は続き、ようやく河口から日本海が見えてきた。奥州街道で野辺地宿で海を見たときも感慨深かった事を思い出す。

20121017関川河口s-.jpg


街道を少し外れて、林芙美子の放浪記の碑や、安寿と厨子王の供養塔、高田出身の小川未明の「赤い蝋燭と人魚」にちなんだ人魚像などを河口付近で見る。
放浪記の碑には、その一節が刻まれていた。

 私が青い時間表の地図から
 ひらった土地は、
 日本海の直江津と云う小さい港町だった。
 ああ、海と港の旅情。
 こんな処へ行ってみたいと思う。
 これだけでも、
 傷ついた私を慰めてくれるにちがいない。

20121017放浪記碑s-.jpg  20121017安寿と厨子王供養塔s-.jpg  20121017人魚姫s-.jpg


海岸からの景色は索漠として、いかにも日本海らしい。
これからは出雲崎まで日本海沿いの道となる。

20121017日本海s-.jpg


馬市で有名だった春日新田宿を抜ける。往時は千頭が集まったといわれ越後三大馬市のひとつと。
この先椎谷宿も馬市で有名だった。日本海沿いに大きな馬市が立つのは不思議。

20121017馬市碑s-.jpg


黒井宿では中部電力が巨大な上越火力発電所を建設中。原発停止で工事を急いでいるらしかった。
承久の乱で敗れ、佐渡に流される途中立ち寄ったとされる順徳天皇の碑等を見ているうちに雨脚が強くなり、ほくほく線の犀潟駅に逃げ込んで早めに旅を終えた。

20121017上越火力s-.jpg  20121017順徳天皇碑s-.jpg  20121017犀潟駅s-.jpg  
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2012年10月16日

北国街道(その3:二本木宿〜高田宿)

つい先日北国街道を出雲崎まで歩き終えたのだが、記録をすっかり失念し、書くのはもう一年近く前の事となってしまった。

二本木宿付近は、左手後ろには特徴のある妙高が、右手前方には米山も見え始め空気が澄んでいれば当然日本海も望める筈。
この辺は、引き続きずっと日本海に雪崩落ちていく気分が強い街道だ。
切り下げられた現在の道筋から一段高い所にある藤沢一里塚が目立つが、片側だけ残存し何ら標識は見当たらない。

「越後見納め小出雲坂よ」と詠われた小出雲坂を下って、上越市に入る

20121016高田平野s-.jpg  20121016藤沢一里塚s-.jpg  20121016小出雲坂s-.jpg


新井宿手前に「左飯山道、右善光寺道」と彫られた道標がある。飯山道とは今の飯山街道らしい。
新井宿では、北国街道を意識した看板も見られる。

20121016飯山道道標s-.jpg  20121016新井宿外灯s-.jpg  20121016新井宿看板s-.jpg


この辺からも振り返ると、妙高が特徴ある姿を見せている。
石塚一里塚から先には石屋が多く、今もその影響か道端にデモンストレーション用とも思える不思議な石の集合がある。

20121016妙高s-.jpg  20121016石塚一里塚s-.jpg  20121016石の群れs-.jpg


新井宿から先は、旧道は右に左にと蛇行する。横を流れる矢代川の影響だろうか。
越後出雲神社辺りから上越新幹線の延伸部分が現れ、新駅の上越駅を眺められる。開業は2015年なのでもう間もなくだ。

20121016上越新駅s-.jpg  20121016越後出雲神社s-.jpg


高田宿の南入口に伊勢町口晩所跡と一里塚跡、髭題目がある。

20121016高田宿南口番所s-.jpg


高田宿は日本一の雁木の町で、その総延長は16kmとも言われ、豪雪を想像しながらも見ていて飽きる事がない。

20121016雁木0s-.jpg  20121016雁木2s-.jpg  20121016雁木3s-.jpg 


地元の人に聞いても誰も知らない時の鐘などを見て、旧師団長官舎に脚を運ぶ。
ここはカイゼル髭で有名な長岡中将の銅像がユーモラス。

20121016時の鐘s-.jpg  20121016旧師団長舎s-.jpg  20121016長岡中将像s-.jpg


再び街道に戻り、小川紙店と言う、いたく感動的な立面構成を持つ現役の店がある。

20121016小川紙店s-.jpg  20121016小川紙店看板s-.jpg


高田城跡の高田公園へも脚を伸ばす。
ここは日本三大夜桜、東洋一の蓮田などで有名だが、復元された三重櫓はやや小ぶりに見えた。
公園内に吉田五十八が設計した移築された小林古径邸やアトリエがあるが、例によって公開時間を過ぎていた。

20121016高田城三重櫓s-.jpg  20121016蓮田s-.jpg  20121016小林古径アトリエ等s-.jpg


高田宿の町並みは味わい深く、昔からの建物も自らを主張しない良い古び方で時を経ていたものが多かった。
しかし一転して現代のものは、全く勘違いの建物や施設を散見した。
駅前付近は古くからの雁木を撤去して、平成雁木というアーケードが作られているが、人のスケールを逸脱した馬鹿馬鹿しいアーケード空間となっている。
町会所跡には「雁木通りプラザ」という市の文化施設が作られているが、これは歴史や風土から隔絶したグロテスクな造形だ。設計者は上越市出身の寒竹伸一。

高田駅もひどい造形だ。
アーケード中心部は東京駅をモチーフとした言われるが、地元の方に伺うと、これらの建物は箱ものが好きだった数代前の市長が関与したと言うことで、設計者も設計者だが、箱もので足跡を残したがる施政者が如何に景観を破壊してしまうかという、反面教師としての見本のような町でもあった。

20121016平成雁木s-.jpg  20121016雁木通りプラザs-.jpg  20121017高田駅s-.jpg


昔からの雁木は、寛文5年(1665)に高田が大地震に襲われた時に、復興工事として本格的に建設されたと言われているので、もう350年の歴史があることになる。
平成雁木は何時まで持つだろうか?せいぜい20年ではないかと思いながら、ホテルに入った。

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2011年09月10日

北国街道(その2:柏原宿〜二本木宿)

柏原宿の最寄は黒姫駅。駅前には一茶の碑があり、「蟻の道 雲の峰よりつゞきけん」。
この碑には、黒姫で自然保護に取り組んでいるC・W・ニコルの英訳も刻まれていた。
  The ant's path
  Doe's it not reach
  To yonder cloudy peak

黒姫山はその俳句の通り、残念ながら雲の中。

一茶通りを歩き、駅に程近い小丸山公園に。
ここには一茶記念館や、小林家代々の質素な墓があり、一茶もここに葬られている。
直ぐ隣には、立派な「俳諧寺一茶翁墓」と記された碑があるが、真新しく、一茶の菩提寺である明専寺住職の名前も記されている。
これは質素な一茶の墓としてはいかにも不似合いで、墓というよりか記念碑というべきか。

 辞世:露の世は 露の世ながら さりながら

20110910一茶句碑s-.jpg  20110910一茶通り.JPG  20110910一茶墓s-.jpg


街道を戻り、前回見逃した一茶の旧宅に足を運ぶ。小さな土蔵で明り取りの窓が一つある。
一茶は、俳句からイメージされる好々爺とは違い、腹違いの弟の仙六と遺産相続で12年間争い、最終的には遺言通り親の遺産を折半することで落着した。
受け継がれた家も、真中で仕切って弟と二家族が住むという徹底振りだった。

一茶の再晩年の6月に柏原で大火があり、一茶は焼け出され仮住まいの土蔵に移った。
小さな土蔵は地面に直接造られている囲炉裏一つでは、冬はさぞ辛かっただろうが、本当の寒さを迎える前に11月に亡くなった。享年64歳。

  是がまあ つひの栖か雪五尺

20110910一茶住いs-.jpg  20110910一茶住い囲炉裏s-.jpg


柏原宿には、村の鍛冶屋の歌そのままの仕事ぶりを、平成5年まで続けていた中村家の住宅が保存されている。
そこから少し行くと、信州打刃物の里らしく、今度はその歌のモデルとされているらしい方の子孫が建てた碑があり、傍らにこの歌の作者に関する情報を求める看板もある。
有名な歌だが、作者不詳ということだ。

20110910中村家s-.jpg  20110910中村家鍛冶場s-.jpg  20110911村の鍛冶屋碑s-.jpg


柏原宿を抜けると標高が700mを越えて、北国街道で一番高い地点になり、雲の峰の黒姫山を眺めながら歩くと、両塚が残る野尻一里塚。
「あとどもはかすみ引きけり加賀の守」の一茶の句が添えられていた。

20110910黒姫山s-.jpg  20110910野尻一理塚s-.jpg


野尻宿では、夏が過ぎて閑散としている野尻湖に立ち寄る。
芙蓉の花に似ているので、芙蓉湖とも言われるそうだが、どうだろうか。
ここはナウマン象が発掘されたことでも有名だが、発掘現場にには象の大きさとは裏腹の可愛らしいプレートが立っているだけだった。

20110910野尻湖s-.jpg  20110910ナウマン象掘地s-.jpg


宿のはずれの安養寺には、境内に御金蔵跡があり、中勘介が27歳の明治44年と翌年滞在して「銀の匙」の前編を書いた部屋が残されている。
寺からは、杉の木立で湖は見えないが、境内にいた方に話をうかがうと昔は杉も小さく湖面が良く見えたとの事。

20110910安養寺s-.jpg


国道のバイパスは信越大橋で一飛びに関川を越えるが、スノーシェードがある旧国道で関川に降りてゆくと、復元された木の太鼓橋があり、信越国境の関川の関所となる。
ここは道の歴史館となっていて、関所も復元されている。
丁度今年は北国街道400年ということで、あちこちで催しも行われている事をこの歴史館で知った。

20110910関川関所入り口s-.jpg  20110910関川関所s-.jpg  


関川神社の国の天然記念物の大杉や、スキー神社を見る。
日本で最も古いスキー神社だそうで一之宮を名乗っているが、ほかは何処にあるのだろうか。
消火栓も、とにかく雪に埋もれないように背が高い。

20110910天神社大杉s-.jpg  20110910スキー神社s-.jpg  20110910消火栓s-.jpg


白田切川を越えて田切宿に入る。妙高山から流れ出すこの辺の川は土地を深く侵食する田切地形を作り出し、同時に土地の名前にもなっている。
妙高からの湧水が多いせいか、街道沿いに水の音が絶えない。

妙高山の名前の言われも、諸説あって面白い。
「越の中山」と呼ばれていたものが、「名香山」あるいは「妙香山」と当て字されて妙光、妙高になったという説と、妙高山は別名須弥山とも呼ばれ、これはもともとサンスクリット語のスメールの音写で、その漢訳が「妙高山」「妙光山」という説がある。

豪雪地帯なので、建物の形が独特だ。1階がRC造の倉庫や車庫、二階以上に居住部分があり、屋根も殆どが切り立った落雪屋根となっている。
風土には適合しているのだろうが、決して美しいものではない。


20110910白田切川s-.jpg  20110910落雪建物s-.jpg


関山宿の関山神社は元関山権現で、関山宿自体がこの門前町だった。しかし町並みには古いものはあまり見当たらない。
妙高市と上越市の境の、上部だけ枝がある松の大木が珍しい。

20110910関山神社s-.jpg  20110910北沢一本杉s-.jpg


上越市に入ると、道路に融雪装置が備え付けられている。
この辺は消火栓も全て背が高く、あらゆるものが豪雪を前提として作られていて、表日本では想像出来ない冬の暮らしが思いやられる。

20110910散水設備s-.jpg


二本木宿の白山神社には石柱があり、「従是内、口附無之、小荷駄乗通るべからず、邑の内、咥きせる無用、二本木宿」と刻まれていると言うが判読できなかった。

珍しい現役のスイッチバックの駅となっている二本木駅は、レールを使った構造材と気の利いたピンクの色使いが美しい。
ここで打ち止めたが、黒姫からは殆ど下る一方で、日本海までなだれ落ちて行く気分がした旅だった。
日本海まであと僅か。

20110910二本木宿石柱s-.jpg  20110910二本木駅s-.jpg
posted by 遊戯人 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 北国街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月05日

北国街道(その1:善光寺宿〜柏原宿)

北国街道は中山道の追分宿から、善光寺宿を通り高田城下を抜け日本海沿いに出雲崎に至る、230km程度の街道だ。

追分から善光寺宿までは善光寺街道とも言われ、ここは既に歩いており、今回はその先の150km程度を歩く旅になる。

何度か来た善光寺にお約束の道中安全を祈願してから、街道へ入る。善光寺の前の長野市道路原標から右へ曲がる道が北国街道だ。

20110705善光寺s-.jpg  20110705長野市道路元標s-.jpg


新町宿までには街道の雰囲気を残す建物も散見され、吉田神社では全国68箇所の一宮を境内に祀っている。
街道筋の街路灯には、北国街道の表示がされているのも心が和む。

20110705新町宿付近s-.jpg  20110705吉田神社一宮s-.jpg  20110705街路灯s-.jpg


田子池手前では明治天皇の巡行のために、わざわざ旧飯山城の裏門を移した御小休所跡がある。
この付近は二重化粧垂木を付けた家が散見された。津軽地方では格式の象徴のようだったが、長野ではどうだろうか。

20110705旧飯山城裏門s-.jpg  20110705化粧垂木s-.jpg  20110705田子池s-.jpg


夏の青さの宇佐美沢一里塚跡は、石の上の地蔵と無縁仏が仲良く。
この付近で、農家の方がリンゴの剪定を行っていて、一つのリンゴは葉50枚とか。
谷あいには忽然とバブル残骸と思しき造り掛け道路が現れる。車も走っていない道の何処と何処を繋ぐか。
この辺は標高も700mを越えて、善光寺平の景観が目を楽しませる。

20110705宇佐美沢一里塚跡s-.jpg  20110705リンゴ-.jpg  20110705建設途上の道s-.jpg

20110705善光寺平s-.jpg


一茶が15歳で江戸に奉公に出でる時に、父親と別れた場所と言う三本松。
 「父阿りて明本の見たし青田原」
この辺からは信越五岳が良く見える筈だが、あいにく雲の中。かろうじて、飯綱山の姿が見える。

20110705三本松s-.jpg  20110705三本松芭蕉碑s-.jpg  20110705飯綱山s-.jpg


道は下り始め、牟礼宿に入る。
町並みは古いものは殆ど残っていないが、近辺は鎌で有名で、昔の鎌問屋の山本家は卯建のある立派な建物。

20110705牟礼宿鎌問屋s-.jpg


枡形を左折し、十王坂を上ると十王堂がある。王と本地が示されており、合掌。

20110705十王堂s-.jpg


佐渡金山ゆかりの金附場跡を通り過ぎ、武州加州道中境碑を見る。加賀と江戸の中間地点と。
程なく小玉坂に入る。
北国街道唯一の山道とされる気持ちの良いこの峠道は、余計なお世話の「美しい日本の歩きたくなるみち500選」にも選ばれている。

20110705中間碑s-.jpg  20110705小玉坂s-.jpg


柏原宿と合宿の古間宿は鎌で有名。町並みは平凡だが一茶の碑等も増えてくる。

20110705古間宿s-.jpg


柏原宿は一茶の故郷で、諏訪神社に、一茶最古の句碑と言われる「松陰に寝てくふ六十よ州かな」
一茶の終焉の地の弟の屋敷や、一茶の像なども見受けられる。

20110705一茶句碑s-.jpg  20110705一茶弟屋敷-.jpg  20110705一茶像-.jpg


一茶もさることながら、道筋に戸隠三社へ参拝する古道の碑が残っており、これもかなり気掛かりなまま黒姫駅で打ち上げた。

20110705戸隠山道道標s-.jpg
posted by 遊戯人 at 23:00| Comment(3) | TrackBack(0) | 北国街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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