こういう宿場は、得てして街道は陽の目を見ずに放置されている。
町一番の繁華な交差点にポケットパークがある。
通常こういう場所には街道の説明版が設置されている事が多いが、当然のごとく無視されて何の説明もない。
傍にある本陣跡は島津酒店となっている。
上山城は土岐氏の時代奥州の名城と謳われたが、転封に伴い1692年に跡形もなく破壊された。
今のものはコンクリートの模擬天守で、歴史資料館となっているが、多分姿形も往時と全く違うものだろう。


上山藩主松平重忠が1624年に庶民に公開したといわれる浴場は、現在もレトロで懐かしい姿で下大湯公衆浴場として存続している。
その向かいに鶴泉園があり、上山藩と山形藩の境界石が復元されて設置されている。
下大湯公衆浴場の直ぐ先の小高い所ところにあるのが観音寺で、下大湯を管理していたところから湯の上観音とも言われる。
温泉を管理していた寺と言うのは他にあるのだろうか?甲州街道の下諏訪手前に温泉寺と言う寺があったのだが。



上山宿を抜けて花立て坂を上ると、蔵王連峰が良く見える。
藩境の峠に地蔵が立っているが、この付近はUR都市機構が「山形ニュータウン蔵王見晴らしのおか」として大規模開発しており、その為に旧道の道筋は全く消失し、地蔵も移設されていた。
鎌倉街道を歩いた時の多摩ニュータウン、木下街道を歩いた時の千葉ニュータウンも道筋は消失し同じ状況だった。



ひたすら、新しく出来た無味乾燥な道を下りニュータウンの外れに辿り付くとUR都市機構の現地事務所があり、そこで職員の方が親切に開発区域のもてなしの広場という所に新設された歩道として残存している道筋を教えくれた。
しかし、昔のよすがを示す看板一つ設置されていないのは残念だ。

間の宿の黒沢宿、松原宿は単調な一本道だが、問屋を務めた渡辺家の黒塀等が残る。一里塚などの史跡は真新しいが黒御影の碑で判りにくい。


山形宿に入ると湯殿山の行者宿として栄えたという八日町、一番の繁華街の十日町には比較的古い建物が残るが、山形市は空襲には遭わなかったものの明治44年の大火で消失したものが多いと言う事を初めて知る。
十日町にかつて紅花商人であった長谷川家の蔵が「山形まるごと館 紅の蔵」として活用されている。
特産の紅花にちなんだのか赤瓦が使われて折り、一際を眼を引く建物だ。


本陣の跡は現在は山形銀行本店となっているが、それを示す碑等は設置されていなかった。
突き当たりに旧県庁・県議事堂で現在は資料館となっている文翔館があり、イギリスルネサンス様式の雄姿を見る事ができる。
ボランティアガイドの方が内部を丁寧に案内説明してくれたが、山形と言う町を誇りに思っている事が言葉の端はしに見てとれて、自分自身も道筋を歩きながら程よいスケール感と、新旧建物の混在の心地よさを感じ、さもありなんと思えた。


遠雷が聞えるなか、足早に山形駅に戻り着き歩き終えると、待ち構えたように夕立がやってきた。