2010年03月30日

伊能忠敬

街道:特に面していないが、近場と言えば日光街道
場所:源空寺(東上野)
 
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伊能忠敬:延享2年(1745)〜 文化15年(1818)

知らぬ人のない、歩く巨人。測量のために歩いた距離は4万kmとも。
56歳から前後10回にも亘る測量の旅を実施し、日本全国の地図を大日本沿海輿地全図として完成させた。

師は高橋至時であり、忠敬は師を敬うこと篤く遺言により至時の墓の隣に葬られている。

さらに至時の墓の左隣には、幡随院長兵衛の墓もあるのがご愛嬌。

つい先日、文化審議会から佐原にある伊能忠敬記念館の伊能忠敬の地図や文書などを国宝にとの答申がされた。
墓の中の伊能忠敬も喜んでいる事だろう。


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2009年04月26日

塙保己一

街道:鎌倉街道上道
場所:保木野(児玉宿近郊)

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塙保己一:延享3年(1746)〜 文政4年(1821)

盲目の国学者で、日本最大の国書の叢書の群書類従を編纂したことで有名。
本当の墓は四谷愛染院にあり、温故学会の塙保己一記念には群書類従の版木が保存されている。

辞世では無いが「身にあまる恵みある世はよむ文の 少なきのみやなげきなるらん」
墓には「和學院殿心眼智光大居士」の戒名が刻まれていて、目明きとして恥じ入るばかりだ。
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2008年12月03日

志賀潔

街道:奥州街道
場所:仙台北山の輪王寺

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志賀潔:明治3年(1870)〜 昭和32年(1957)

細菌学者。赤痢菌の発見者として知られる。
著名な学者だが、晩年は赤貧にあえぎ、土門拳のつるを紙で修繕した眼鏡を掛けたポートレートでも有名だ。
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2008年11月09日

丸橋忠弥

街道:鎌倉街道中道
場所:目白の金乗院

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丸橋忠弥:生年月日不明〜 慶安4年(1651)

宝蔵院流槍術の名人。
由井正雪と出会い、慶安の由井正雪の乱に加担、幕府転覆、浪人救済を計る。磔にされて処刑。
何故金乗院に墓があるのか?

辞世「雲水のゆくへも西のそらなれや 願ふかひある道しるべせよ」
ラベル:丸橋忠弥
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2008年01月14日

吉田松陰

街道:大山街道
場所:松陰神社(三軒茶屋〜若林)

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吉田松陰:天保元年(1830)- 安政6年(1859)

長州藩萩の生まれの、幕末の思想的指導者。松下村塾でも教え逸材を輩出したが安政の大獄で刑死。
時代とはいえ、70歳を越えたの政治家が実権を握り続けている今と、僅か29歳で明治時代に大きな思想的影響を残しつつ獄死した松陰のことを比較すると、複雑だ。

辞世「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」

高杉晋作、伊藤博文等により小塚原回向院からこの地に改葬。頼三樹三郎の墓もここにある。
墓は小塚原回向院にも残っている。
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2007年07月14日

常盤御前

街道:中山道
場所:関ヶ原宿〜今須宿間

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常盤御前:保延4年(1138)- 建久元年(1190)頃

源義朝の愛妾で牛若丸、後の義経の母。その後清盛の妾となった伝えられる。
東国に走った牛若丸の後を追い、この山中で賊に襲われて息を引き取ったとか。

芭蕉の碑が侘しさを誘う。

 「義朝の心に似たり秋の風」 芭蕉
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2007年07月13日

武藏坊辨慶

街道:奥州街道
場所:中尊寺月見坂入り口

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武藏坊辨慶:生年月日不明

武藏坊辨慶は藤原泰衡の一門に襲われて平泉の高館で討死にとされている。
墓は大きな碑の隣の「弁慶標の松」の足元にひっそりとある。


何故か義経の墓は平泉にはない。

ラベル:弁慶
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2006年10月30日

播隆上人

街道:中山道
場所:太田宿祐泉寺

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天明6年(1786)〜天保11年(1840)
前人未到であった槍ヶ岳の開山者として、山好きで知らぬものはない念仏僧。
笠ヶ岳も開山している。

またすぐ隣には明治二十七年、名著「日本風景論」で近代登山を提唱した志賀重昂の墓もあり、この二人の墓が並置されているのも偶然か、必然か。
ラベル:播隆上人
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2006年10月24日

西行

街道:中山道
場所:大井宿

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西行:元永元年(1118) 〜文治6年(1190)

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての知らぬ人もない歌人。
山家集などで著名。
桜に生き、桜に死したような西行は、今も桜好きな日本人の心を捉え続けている。

辞世「ねがはくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」

墓は河内の弘川寺だが、他にも日本各所に伝説的に存在し、ここもその一つ。
「伝」西行塚と示してあるだけ良心的だが、周りは薄暗い杉木立で桜狂いの西行も困惑する場所だろう。
ラベル:西行
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和泉式部(その2)

街道:中山道
場所:細久手宿〜御嶽宿間

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和泉式部:生没年不詳、天元元年頃(978年?)出生とするのが通説。
平安時代女流第一の歌人だが、恋多き女としても著名。

和泉式部はこの地で病になり、鬼岩温泉で湯治したりしたが、勧進3年(1019年)没したという。

辞世「生くべくも思ほえぬかな別れにし 人の心ぞ命なりける」 

これは、甲州街道の温泉寺についで見た二つ目の和泉式部の墓。
碑には「「ひとりさえ渡れば沈むうきはしの あとなる人はしばしとどまれ」の歌が刻まれている。
ラベル:和泉式部
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2006年09月04日

近藤勇・土方歳三

街道:中山道
場所:板橋宿

近藤勇、土方墓.JPG

近藤勇 :天保5年(1834)〜 慶応4年(1868)
土方歳三:天保6年(1835)〜 明治2年(1869)

知らぬ人も無い新撰組の正副隊長。
二人とも様々な小説に描かれ、日本人好みの逸話に事欠かない。


辞世:近藤勇
孤軍たすけ絶えて俘囚となる。顧みて君恩を思えば涙さらに流る。一片の丹衷よく節に殉ず。雎陽千古これ吾がともがしら。他になびき今日また何をか言わん。義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所。快く受けん電光三尺の剣。只まさに一死をもって君恩に報いん。

辞世:土方歳三
たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも 魂は東の君やまもらん

この墓は、元新選組副長助勤であった永倉新八が建立したとされる。
(近藤勇の墓は、ここ以外にも岡崎市法蔵寺、三鷹市竜源寺にもある)
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八百屋お七

場所:中山道
場所:白山 圓乗寺

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八尾屋お七:寛文8年(1668)〜 天和3年(1683年)

お七・吉三で有名。
捕らえられた時奉行が哀れみ、お七は15歳だろうと聞いたが(15歳以下の者は死刑にはならない)、彼女は正直に16歳と主張し、お宮参りの記録を証拠として提出。鈴が森で火あぶりに。

吉祥寺にも比翼塚があるとか。
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2006年08月19日

小原庄助

街道:奥州街道
場所:白河宿 皇徳寺

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小原庄助:生没不明

民謡「会津磐梯山」の歌詞で有名だが、会津藩士小原庄助、会津漆器の塗り師久五郎、材木商など諸説。

写真は久五郎のものといわれている、猪口と徳利を模した墓。
戒名は『米汁呑了信士』

辞世「朝によし昼なおよし晩によし 飯前飯後その間もよし」

誰が本当の小原庄助さんとしても、辞世の句にあやかりたい。
ラベル:皇徳寺 小原庄助
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河合曾良

街道:甲州街道
場所:上諏訪宿 正願寺

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河合曾良:慶安2年(1649)〜 宝永7年(1710)

松尾芭蕉の門人十哲の一人。
芭蕉の奥の細道に同行したが「曾良旅日記」は芭蕉の「おくの細道」との差異が多く、芭蕉スパイ説や、曾良の幕府隠密説もある。

生誕は上諏訪だが、没地は壱岐島。本墓はそちらにある。
辞世「春に我 乞食やめても 筑紫かな」

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2006年08月18日

和泉式部

街道:甲州街道
場所:上諏訪宿 温泉寺

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和泉式部:生没年不詳、天元元年頃(978年?)出生とするのが通説。
平安時代女流第一の歌人だが、恋多き女としても著名。

辞世「生くべくも思ほえぬかな別れにし 人の心ぞ命なりける」 

伝説も多く、日本全国に伝墓がある。この温泉寺の墓は、華麗な遍歴にはあまりにも似つかわしくない寂しさだ。
ラベル:和泉式部 温泉寺
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樋口一葉

街道:甲州街道
場所:築地本願寺和田堀廟所

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樋口一葉:明治5年(1872)〜 明治29年(1896)

「にごりえ」、「たけくらべ」などであまりにも有名。
墓は何のてらいもない質素さで、心を和ませる。

ここには他にも中村汀女、九條武子などの女流文化人の墓が多いが、入り口すぐにある佐藤栄作の特別扱いの墓が興ざめだ。
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勝海舟

街道:中原街道
場所:洗足池公園

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勝海舟:文政6年(1823)〜 明治32年(1899)

幕末、西郷隆盛との会談での江戸城無血開場の立役者。咸臨丸での渡米も有名。
晩年洗足池の傍に別邸をかまえ、その風光を愛した。

墓は比翼の墓であり、公園内には、海舟が戦死した西郷隆盛を悼んで建てた「西郷隆盛留魂碑」もある。
脳溢血で亡くなったが、最後の言葉の「コレデオシマシ」は胸に響く。
ラベル:勝海舟 洗足池
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英一蝶

街道:中原街道
場所:高輪付近 承教寺

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英一蝶:承応元年(1652)〜享保9年(1724)

江戸中期の町絵師。狩野安信に絵を、松尾芭蕉に俳譜を学ぶ。
辞世「まぎらかす浮世の業の色どりも ありとや月の薄墨の空」

墓は承教寺の本堂前に一つポツンと置かれている。
ラベル:英一蝶 承教寺
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杉田玄白

街道:中原街道
場所:愛宕山付近栄閑院

20051225杉田玄白墓.JPG

杉田玄白:享保18年(1733)〜文化14年(1817)

蘭学者で「蘭学事始」の著者であり「ターヘル・アナトミア」を訳した「解体新書」でも有名。

墓所の栄閑院は小さな寺だが通称「猿寺」。何故杉田玄白の墓がここにあるのかも不思議。
なお、小塚原回向院の建てられている小塚原刑場で腑分けを行ったことが解体新書翻訳のきっかけになったとか。
ラベル:杉田玄白 栄閑院
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徳川家康

街道:日光街道
場所:鉢石宿日光東照宮

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徳川家康:天文11年(1543)〜元和2年(1616)

知らぬ人の無い、江戸幕府開祖征夷大将軍。
辞世「嬉しやと二度さめて一眠り うき世の夢は暁の空」
 家康は和歌を嗜まなかったので後世の創作とも言われている。

この日光東照宮奥社にある墓は鋳造だが、久能山東照宮にある墓は石造。
その他、愛知県岡崎市の大樹寺、大阪府堺市堺区の南宗寺など各地に墓がある。

下の写真は街道とは関係ないが、久能山東照宮の家康の墓。

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二宮尊徳

街道:日光街道
場所:今市宿報徳二宮神社

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二宮尊徳:天明7年(1787)〜安政3年(1856)

薪を背負いながら本を読んで歩く姿の像で名高く、金次郎の通称の江戸後期の農政家。
小田原で生まれたが、今市で没。

遺言は「余を葬るに分を越ゆることなかれ、墓石を立てることなかれ」」だが、これに反して今市以外にもあちこちに墓が立てられているのは皮肉。
ラベル:報徳二宮神社
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静御前

街道:日光街道
場所:栗橋宿

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(写真は再建された墓、古びたものは同じ場所の左手にある)

静御前:永万元年(1165)〜建暦元年(1211年)

言わずとしれた源義経の寵愛を受けた京の白拍子。
義経を追って奥州へ向かったが、平泉での討ち死にを知り剃髪し尼となり、栗橋で世を去ったとか。

しかし日本各地に静御前伝説があり、どこが本当の終焉の地かは不明。
ラベル:静御前
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吉田松陰など(南千住回向院)

街道:日光街道
場所:南千住回向院(小塚原回向院とも言われ、両国回向院の別院)

吉田松陰、橋本佐内、梅田運浜などの幕末の志士や鼠小僧次郎吉、毒婦といわれた高橋お伝などの墓あり。

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 1枚目写真吉田松陰 2枚目写真左から鼠小僧次郎吉、徳川末期の詐欺・ゆすりの常習者として知られた片岡直次郎、高橋お伝

吉田松陰:  天保元年(1830)〜安政6年(1859)
橋本佐内:  天保5年 (1834)〜安政6年(1859)
鼠小僧次郎吉:寛政9年 (1797)〜天保3年(1832)
高橋お伝:  嘉永元年(1848)〜明治12年(1879)

なお、鼠小僧次郎吉の墓は本所回向院にもあり、吉田松陰の墓は生誕地萩や世田谷の松陰神社にもある。
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2006年08月17日

「街道回向院」解題

お盆明けにちなんで「街道回向院」と言うカテゴリーを作りました。

街道を歩いていると、思わぬところに歴史上の著名人のお墓や供養碑に出会います。

何故ここにと言う不思議さを惹起すること多く、その人となり、生きていた歴史をあらためて想いいたすことも街道歩きの一興です。
ラベル:街道
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