2009年04月29日

鎌倉街道上道(その8:丹荘〜高崎)

この日は橋のない川の徒歩渡りあり、思わぬ古代との出会いあり、最後の高崎では今も健在な群馬音楽センターの勇姿を目にしたりと、鎌倉街道上道の掉尾を飾る歩き甲斐のある一日だった。

丹荘からすぐに、埼玉県と群馬県の境となる神流川に到達する。
街道筋に橋は無く、人も通れるようになっている八高線の鉄橋を、こわごわ渡るが、列車が来たらかなり恐ろしい。

20090429八高線鉄橋s-.jpg


本郷の土師神社には、日本三辻の一つの相撲辻がある。
古代この付近には埴輪製作集団の土師部が住み付いて、土師神社の祭神は野見宿禰というつながり。
付近には埴輪を焼いた窯跡もある。

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木曽義仲の妻だった葵御前に由来する、小さな祠の葵八幡が畑の中に祀られている。何故ここに。

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鮎川は今度こそ、橋が遥か遠くにしかなく、街道歩きで水量は少ないものの初めての徒歩渡り。
水はまだまだぬるんでいない。

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稲荷山古墳、皇子塚古墳、七興山古墳と古墳が立続けに現われる。
街道筋にある藤岡歴史館で出土品の大刀が展示されていて、その細工の美しさに息を呑む。
5世紀前半から6世紀後半の時代にこれら大刀は、何処から来たのか、誰が作ったのか、古代史の謎は尽きない。

20090429稲荷山古墳s-.jpg  20090429大刀2s-.jpg  2090429大刀1s-.jpg 

 
七興山古墳は桜の名所で、そのなだらかな姿とは裏腹に無惨に首を切り落とされた五百羅漢に衝撃を受ける。
何の説明版も見当たらないが、明治の廃仏毀釈の残骸だ。
文化や歴史に対する無差別で暴力的な行動も、人々の心の現われ方の一つだが、無批判で集団的な催眠状態に陥りやすいのは今も昔もこの国の形かもしれない。

20090429七輿山古墳s-.jpg  20090429五百羅漢s-.jpg

さらに、脚を進めると伊勢塚古墳。
外見は変哲のなさそうな佇まいで、石室が無造作に公開されていて、模様積みという積み方で石が積まれている。
暗闇の中に、死者を弔う心配りか、石を積んだ人々の装飾への意思か、その不思議なパターンは心を奪う。

20090429伊勢塚古墳内部1s-.jpg  20090429伊勢塚古墳石室s-.jpg


古墳巡りの旅も面白そうと思いつつ、高崎市に入る。
本殿裏側からも参拝できる、珍しい造りの山名八幡宮は色鮮やか。

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終着は高崎城の乾櫓。
直ぐ隣にはレーモンドの群馬音楽センターが、47年の歴史を感じさせない新鮮さで夕陽を受けて輝いていた。

20090429乾櫓s-.jpg  20090429群馬音楽センターs-.jpg

中山道と鎌倉街道が高崎でつながり、旅も終わる。


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2009年04月26日

鎌倉街道上道(その7:武蔵嵐山〜丹荘)

この日は午後から思いもかけぬ強風になり、鎌倉街道、風の旅。

距離が長い割には、史跡は少なく一見奈良盆地のような風景の中を風に煽られながら淡々と歩く。
どちらの方に歩いても、常に風は正面から吹くのは不思議。
街道の鯉のぼりも元気一杯だ。

20090426鯉のぼり s-.jpg


塚田の晋光寺の横には、お寺が立てた鎌倉街道上道の碑が。

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荒川の赤浜の渡しには、立派な獅子岩が昔のままに残っている。

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荒川を越えると、赤城、榛名、妙義、さらには男体山、日光白根などなどが眼を楽しませる。
登った山、登ろうとした山、登れなかった山、思いは様々だ。

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児玉の保木野で、塙保己一の生家に立ち寄る。
2000年の埼玉県ふるさと自慢百選の人物の部で第一位という掲示がある。殆どの人は群書類従の名前くらいしか知らないだろうが、埼玉県では著名人。

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一日足を悩ませた風が、草の海を輝かせて陽が沈む。

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2009年04月18日

鎌倉街道上道(その6:西大家〜武蔵嵐山)

桜は八重桜が満開、ハナミズキ、レンギョウ、ツツジが咲き始め黄色は菜の花の彩りで、歩いた道筋も里山の田園地帯。
揚雲雀名乗りいで、鶯のさえずりも纏わりついて離れない。

まさに時は春、すべて世は事も無し、か?

20090418春の花s-.jpg  20090418菜の花s-.jpg


毛呂山町には旧街道が、少しの距離だが手をつけられずに残っている。
勿論使われていなかっために、杉が生い茂っているのはご愛嬌。

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この辺は板碑が多いが、700年前の有名な延慶の板碑は3mもあり、典型的な青石塔婆。
鋭い主尊種子の彫り込みが鮮やかだ。

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海道という地名は全国にあるが、笛吹峠への道筋に「海道端」という取ってつけたような地名があり、これもその一つ。

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笛吹峠は、この場所で新田義貞の遺子の義宗が宗良親王ともに足利尊氏軍と戦い、敗戦。これ以降足利尊氏が関東を制圧した。
宗良親王が月明かりの中で笛を吹いたことから、峠の名が付いたといわれているとか。
笛吹峠の名称は日本あちこちに存在し、その名の謂れの伝説を遡ると限がなく、これも宿題で持ち越しに。

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笛吹峠を下ると坂上田村麻呂に関係の深い将軍沢。
将軍神社、将軍沢は勿論征夷大将軍。追いかけてきた妻を都へ追い返した縁切橋も残り、歴史の香りが濃い。

20090418坂上田村麻呂碑s-.jpg  20090418縁切橋s-.jpg


大蔵に入ると今度は源義賢と忙しい。
源義賢は平治の乱で平家に敗れた源義朝の弟で、義賢の子が源義仲だ。
旭将軍木曽義仲はこの大蔵の地で産湯を使ったことになる。
源義賢の五輪塔の墓がひっそりと祀られている。

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大蔵では不思議な大行院神明社にも触れない訳にはいかないだろう。
神仏混交、境内にはありとあらゆる神様仏様の像が溢れ、お堂では老若男女が溢れている。
地元の素朴な神社だったものが、口コミで評判を聞いて日本全国から人々がやってくるようになったとか。
住職のご先祖に関する透視とか、予言とかその評判の内容は表に殆ど出ていないのでよく分らないが、日本の土着的でプリミティブな宗教の原型が姿を変えて顕れているようにも感じられる。

20090418大行院1s-.jpg  20090418大行院2s-.jpg  20090418大行院3s-.jpg

色々な歴史が錯綜している大蔵では、何があっても不思議ではない。


都幾川を渡ると最後は、畠山重忠の菅谷城跡。
北条氏の謀略で鎌倉街道中道の鶴ヶ峰付近で討死にした畠山重忠はこの城から出征。まさに元久二年。
菅谷城跡も、兵どもが夢の跡。

20090418菅谷城跡2s-.jpg  20090418菅谷城跡1s-.jpg  20090418畠山重忠像s-.jpg


鳥たちの囀り、花々の彩り、樹木の薄緑、思いもかけぬ歴史の人物の出現で、眼も耳も知識も満腹の一日だった。
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2009年04月08日

鎌倉街道上道(その5:東村山〜西大家)

あまり間を置かずに、丁度桜が満開の花日和の街道へ。

金沢文庫付近の下道は六国峠、町田の上道は七国山だが、久米川宿は八国山で関八州が見渡せる。
里山の風景と新緑が目に優しく、新田義貞の鎌倉攻めの時に白旗を立てたという山頂の将軍塚も春の中だ。

IMG_0577s-.jpg  IMG_0580s-.jpg


あちらこちらで、神社仏閣分け隔てなく花盛り。

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入間川の桜も空の広さを喜んでいるようだ。

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日高市に入ると、鎌倉街道上道の立派な碑や、鎌倉街道交差点、鎌倉街道踏切など見受けられ、何故か鎌倉街道が大もてだ。

20090408日高市鎌倉街道碑s-.jpg  20090408鎌倉街道踏切s-.jpg


秩父の山地を遠景に高圧線が交錯し、未来都市の幻影のような光景の中に花日和の一日の陽が落ちる。

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2009年04月04日

鎌倉街道上道(その4:乞田〜東村山)

桜狩をかねて、鎌倉街道上道を乞田から東村山まで。

桜は残念ながら概して三分咲き程度だが、鎌倉攻めの新田義貞、畠山重忠のロマンス、国分尼寺の遺構、締めは東京都で唯一の国宝建造物の正福寺地蔵堂と、見所満載。

多摩川手前の関戸は関所があったから関戸。
そしてここは関戸霞ノ関。霞ノ関は歌枕で有名だ。

 徒らに名をのみとめてあづま路の霞の関も春ぞくれぬる

歌枕の霞ノ関がこの地とはつゆ知らず。昔は海だった日比谷の霞ヶ関よりは頷けて、今は発掘された場所に木柵跡が再現されている。

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分倍河原には、新田義貞と北条泰家の分倍河原の古戦場の碑があり、ここも兵どもの夢のあと。
少し足を伸ばすと府中の甲州街道も指呼の間なので、そちらの歴史も楽しめる。

20090404分倍河原古戦場碑s-.jpg


西国分寺手前は、武蔵国分寺、国分尼寺の址が保存されていて奈良の時代が薫り立つ。
そして国の史跡として、道幅や切下げが昔のまま保存されている街道も残存する。

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少し行くと、その名もゆかしい恋ヶ窪に。
坂東武者畠山重忠と、遊女夙妻太夫のいわれを残す姿見の池、桜も彩りを添える。
この池は復元されたものだが、行政のその気持が嬉しい。

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オオトリの国宝正福寺地蔵堂は、予想外の小ぶりな建物だ。
有名な円覚寺の舎利殿とほぼ同じ規模で、舎利殿も神奈川県唯一の国宝建造物だが普段は拝観禁止。
いつでも拝観できる正福寺地蔵堂はお薦めだが、東村山市の扱いはそっけなく、国宝の重みよりも市指定文化財の記述ばかりが目に付く説明板は残念だ。

20090404正福寺s-.jpg


とはいえ、街道は暫くは
さくらさくらさくさくら ちるさくら (山頭火)
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2009年02月05日

鎌倉街道上道(その3:瀬谷〜乞田)

鎌倉街道は上道と言っても幾筋もあり、歩く所が興味深いかどうかは出たとこ勝負。

瀬谷からの道は前回と同じに、境川寄りの道を歩いて見た。

瀬谷の妙光寺はこれも日蓮絡みの寺院だが、、そこの梵鐘は1325年製作の由緒深いもので、戦時中も供出を免れたとか。
いつも見慣れたものより細身で、鎌倉時代の鋳物師物部守光の手になるもの。
物部姓鋳物師は鎌倉大仏の高徳院の大仏を作る時に河内国より招かれて定着、この辺も興味が尽きない話ではある。

20090205妙光寺梵鐘s-.jpg


裏山の墓地には多くの板碑が残っている。

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金森の杉山神社では、多くの碑が集められて金森文化遺産保存会なる団体による説明板が設置されていた。
同好の士の集まりだろうが、こういう心配りは有難い。
今まで聞いた事も無いような「光専神」の碑も見受けられた。

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町田天満宮では、受験シーズンと梅のシーズン。
説明が無いので、境内の梅は菅原道真所縁の飛び梅ではなさそうだったのが残念。

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町田の市街地を抜けて一登りすると、今日の目玉の七国山。
昔は七国が見えたのだろうが、今は眺望はなく、新田義貞が鎌倉攻めの時に馬に水を与えたという、鎌倉井戸の史跡が残る。
下りの道は、古道が残っていて良い雰囲気を保っている。

 20090205鎌倉井戸s-.jpg  20090205七国山下りs-.jpg


小野路へはもう一度一山越えるが、途中は新設された高校や陸上競技場で旧道の面影はない。
大山街道と交差した所に、一里塚がある。大山街道の一里塚は初めて見るが家康の遺骨を駿河の久能山から日光に移した時に作られたとか。

20090205大山道一里塚1s-.jpg


小野路からは三度山に入る道となる。
殆ど山道を、不明瞭な地図を頼りに勘で歩くが、すっかり暗くなり危うく里山の低山遭難に。
何とか、舗装道に出てきてホッとして、後は完全に旧道の消滅した多摩ニュータウンの中を永山駅を目指す。

途中、公団の賃貸のアパートが灯りもつかずゴーストタウン化している。
明るい筈の部屋の闇は街道の闇より暗く、老いる国、老いる街をまざまざと感じ、暗澹とする。

20090205夜の山道s-.jpg  20090205公団アパートs-.jpg
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2009年02月03日

鎌倉街道上道(その2:鉄砲宿〜瀬谷)

春の陽に誘われて、戸塚鉄砲宿から続きに繰り出した。
この日のルートは境川沿いで田園風景が多く、のんびり歩くには絶好の道筋だ。

俣野では、山の中に突然高層のビルが現われる。これが昔の横浜ドリームランドのホテルエンパイアだ。
ドリームランドはとっくに閉鎖され、横浜市がメモリアルグリーンなる公園墓地に再整備した。
ホテルは都筑学園が買い取り、グループの学校の横浜薬科大学図書館として使われている。

虎は死して皮を残すが、ドリームランドは死して、墓地と学校を残した訳だ。
ホテルもお祭り気分の裳階と相輪は取り払われたが、廃墟とならず生き長らえただけでも善しとしたい。

enpaia.jpg  20090204ホテルエンパイアs-.jpg


のんびりした風景の中に、庚申塔が今も見守る上州に続く道が続く。

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飯田は、昔源頼朝を助けたという飯田五郎義家が与えられた土地で、いかにも街道らしい立派な長屋門を持った家なども多い。

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境川沿いにはサバと読む左馬神社、鯖神社が11もある。
祭神は源義朝で、頼朝の父親だ。平治の乱で左馬頭に任ぜられたことから関係付けられたようだが、そもそもなぜサバ神社と言うのかは不明。
鎌倉街道だけあって、普段は知らない源氏に関する史跡は多い。

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上飯田の本興寺は日蓮に由来の寺だが、境内の地表全域に薄砂が撒かれていて、樹の配置にあわせた揺らぐような刷毛模様がつけられている。
その感覚に心が休まる。

20090203本興寺s-.jpg  20090203本興寺揺らぐ砂s-.jpg


三叉路の真ん中に地神塔が鎮座する。
普通は撤去して移動されてしまうのだが、そのままの位置に残っているのは珍しい。

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歩き終わって、最寄の瀬谷駅に行く途中に帰りがけの駄賃で一見一里塚風の「鷹見塚」を発見。
慶長年間、徳川幕府は旗本長田氏に上瀬谷をお鷹場支配として与え、この「鷹見塚」は将軍家鷹狩の指揮所として築かれたとか。
長田氏の先祖の一人の長田左衛門尉親致の弟忠致とその子景致が源義朝を殺戮しているので、この鷹見塚も源氏つながりという事になる。

20090203鷹見塚s-.jpg


何の予習もしない街道歩きだが、復習に時間を取られるのもこれも旅の楽しみ。
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2008年12月27日

鎌倉街道上道(その1:鎌倉〜鉄砲宿)

鎌倉街道上道は鎌倉から高崎まで140kmあって、日光街道を越える距離で少し長丁場。
師走の小春日和、歩き納めで2008年三度目の鎌倉へ。

鎌倉では花の寺の海蔵寺手前を折れて、鎌倉七口の一つの化粧坂を登る。
短い距離だが結構な急坂で、街道だから勿論馬も通ったのだろうが、人馬の苦労がしのばれる。

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源氏山では日野俊基の墓、葛原神社など詣でる。正中の変でどこと無く聞いた記憶はあるが、それよりも一本の寒桜に眼を奪われ、樹林に切り取られた富士が驚くほどの大きで見えるのも面白い。

20081227日野俊基墓1s-.jpg   20081227寒桜1s-.jpg 


風情のある尾根道を少し歩いたあとは、ありきたりの道になるが鎌倉街道らしく町村境を縫っている。
このあたりの地名は梶原で、義経の敵役の梶原景時の墓も深沢小学校にあるらしいが見逃した。

慈眼寺ではモチノキ、タブノキ、スダジイ三本の寄り木があって珍しい。
本殿前には桜と欅の寄り木もある。

20081227慈眼寺寄り木s-.jpg


源頼朝が、狩りの時立ち寄ったという柄沢神社周辺は造成工事の真っ最中で、境内も削られて、神社も最近移設された姿で足元と縁だけが新しい、わびしい姿で残っていた。

20081227柄沢神社s-.jpg

滝野川へ下り又、上り返し殆ど勘だけで道を歩いて行くと一号線の鉄砲宿へ出る。
ここは、東海道を歩いた時に当然歩いているのだが、勿論記憶は無い。
しかし東海道に敬意を表して、かなり時間は早かったが、この先バスもままならそうなので、打ち止めて、鎌倉街道上道の一日目を師走に楽しく歩き終えた。
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