名前の謂れが気にかかる十三奉行溜池で県境を越え、宮城県へ入る。
この辺は溜池が多く、これも二宮尊徳士法の影響か。
上平集落では、建売でもないのに全く同じような外観を持った家が軒を連ねている。分家だろうか。



坂元宿は各家が全て火の用心の旗を出してるのが珍しい。他の町でも見受けたのでこの地方の伝統かとも思われる。

山下宿の当護稲荷神社の鳥居の傍に、江戸浜街道についての説明があり、宮城県ではもっぱら江戸浜街道と呼ばれている。
この神社には沢山の石碑が集められており、珍しい蛇の姿が彫られていた。蛇神か。
この町も古いものはなく、唯一旧検断屋敷跡が残っている。



間の宿といわれる横山は、また例の火の用心。
町の外れに一里塚跡があるが、ゴミ置場となっていて何の説明もなく打ち捨てられている。


亘理町立郷土資料館が国道越しに見える。
お門違いの城郭風だが、亘理には臥牛城といわれた城があったので、その雰囲気だけでもという事か。
亘理宿入り口の称名寺で、国の天然記念物のシイを見る。
相馬地方以北、数々の巨樹を見たがその中では存在感が圧倒的に一番。姿かたちが少し山代の神代桜にも似ているようだ。


亘理宿は珍しく、町名などの説明碑が立っている。古い建物も散見され、漁港を控えているせいか、この地方では珍しく町に活気がある。
たまたまこの日は「商人祭り」が開かれていて、若い人も多く、寂れた街ばかりを見る事が当たり前だった目が驚いた。



逢隈を過ぎると、阿武隈川越しに奥州街道を歩いたときも目にしたダイナミックな日本製紙の工場が見えてくる。
橋の手前に333kmと分り易い道路標識がある。
橋を渡って、終着点の岩沼宿に入るが、排水機場の傍にある藤場の渡跡と言われる場所に立ち寄る。
何の標識も無いが、確かに人工物の石積の跡が残っている。
江戸時代のものが水流にも押し流されずに、この姿で残っているとも俄かに信じがたいが、これも街道の夢として記憶に留める事にした。



岩城相馬街道は竹駒神社寺手前で、鍵の手に曲がってくる奥州街道と合流し、ここが今回の旅の終着点という事になる。
ここも何の標識もないのは真に残念だ。
交差点の角にある店の方に伺うと、以前は標識が立っていたが、8年前に道が拡幅された時に撤去されてしまったとの事。

日本三大稲荷の一つの竹駒神社を再訪し、奥州街道を歩いた時は修復中だった唐門を確認。
勿論、旅の無事をお礼参り。
直ぐ傍に、名所の武隈の松があり、ここも再訪。
芭蕉は「桜より松は二木を三月越し」と詠んだが、三月どころでなく十ヶ月も掛かった街道だった。


