2010年07月03日

日光御成道(その2:東川口〜幸手宿)

東川口の駅から直ぐに大門宿。
本陣の表門と、まだ住まわれている脇本陣の長屋門が保存されている。較べると格の差を表して微妙に表現が異なっている。

20100703大門宿本陣表門s-.jpg  20100703大門宿脇本陣表門s-.jpg


大門宿を出ると、東北自動道手前の大興寺の葺鐘楼が珍しい。

20100703大興寺茅葺鐘楼s-.jpg


歩いていると「南部領辻」という不思議な地名がある。南部藩の飛び地だったのだろうか。

20100703南部領バス停s-.jpg


街道から外れて見沼代用水の方へ足を伸ばす。
埼玉の緑のトラスト保全第一号地見沼田圃周辺斜面林という地域があり、土地の方が手を竹林の植栽管理に汗を流しておられた。

20100703緑のトラストs-.jpg


国昌寺には開かずの門と、欄間に左甚五郎作と伝えられる龍の彫刻がある。
この辺は何故か伝左甚五郎の彫刻が多いようだ。
境内の市指定天然記念物の、センダンバノボダイジュも珍しい。

20100703国昌寺門s-.jpg  20100703国昌寺龍s-.jpg  20100703ボダイジュs-.jpg


見沼代用水は閘門式運河として日本最古のものといわれているが、今は水緑のヘルシーロードとして整備されていて、良い散歩道になっている。

20100703見沼代用水s-.jpg


街道に戻り膝子一里塚。
町村合併で文化財指定から外されたという情報があったが、後世に伝えてゆくべきものの価値観が行政では正に逆行しているという、寂しい話だ。

2010703膝子一里塚s-.jpg


人形の町岩槻宿に入る。
宿の手前で街道は大きく回りこむ。
昔の川筋でも城郭跡でもなく、昔の崖に沿っているという説もあるようだが理由不明。

町は景観に配慮された街づくりが行われているようで、古いものも適度に残り、新しい建物も町並みを意識した外観となっているのは好ましい。

20100703岩槻郷土資料館s-.jpg  20100703岩槻の商店-.jpg  20100703田中屋s-.jpg


「岩槻に過ぎたるもの児玉南柯に時の鐘」といわれた、時の鐘を見て、旧岩槻城へ足を伸ばす。
ここは運動公園となっていて、面影は殆ど無く、僅かに岩槻城黒門と裏門が移築保存されている。

20100703時の鐘s-.jpg  20100703岩槻城黒門s-.jpg  20100703岩槻城裏門s-.jpg


その名も出口町という所を通って岩槻宿を出る。
元荒川を渡り相野原の一里塚を探す。
この一里塚は道路拡幅で削り取られ、昔はあったという標識もなく、工場敷地の一角に気持だけの姿を哀れにとどめていた。

御成道ではここだけに残るという杉並木が、ふるさとの並木道として残っている。

20100703相馬原一里塚s-.jpg  20100703ふるさとの並木道s-.jpg


埼玉県で唯一両側に残っている下野田の一里塚を見て、次は片側だけの下高野の一里塚を見る。

20100703下野田一里塚s-.jpg  20100703下高野一里塚s-.jpg


岩槻宿を出てからは見ものも少なく、一里塚だけが目当てのような街道だったが、幸手宿の手前で懐かしい日光街道と合流する追分に辿りつく。
これで日光に繋がる街道は、日光街道、日光例幣使道、日光壬生道、そしてこの日光御成道と全て歩き終えた事になる。

20100703日光街道合流点碑s-.jpg  20100703日光街道追分s-.jpg


これからも五街道のあちこちで見た追分を、そこから先へと繋ぎたくなる悩ましい病気に取り憑かれたようだ。


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2010年06月17日

日光御成道(その1:本郷追分〜東川口)

梅雨空続きで、足休めが増えているが、短期間で歩き切れる日光街道の脇街道の日光御成道を半分だけ歩いてみた。

この道は、名前のとおり将軍が日光へ参る折に使われた道で、東大前の本郷追分で日光街道から分岐して、距離は日本橋から幸手で日光街道と合流するまでの50km程度と気楽に歩くにはお手ごろだ。

本郷追別から六義園あたりまでは、驚くほど社寺が多い。まず正行寺の「とうがらし地蔵」、唐辛子風の被り物がユーモラスで、喉にご利益とか。
とうがらし地蔵は他にも、都内あちこちにあるようだ。

南谷寺は江戸五色不動の一つの赤目不動で有名で、今まで街道沿いに目白不動、目青不動を見ているのでこれで三つ目。肝心の不動様は目は赤くないが迫力のある風貌だ。

20100617唐辛子地蔵s-.jpg  20100617目赤不動s-.jpg


立派な山門を持つ吉祥寺には「お七吉三比翼塚」がある。
駒込近辺に社寺が多い訳は、天和・明暦の大火後江戸市中諸所の神社仏閣をこの地に移したからとか。
八百屋お七は天和の大火で焼け出されたのが話の始まりなので、それが塚がここにある理由かと思ったが、井原西鶴が「好色五人女」の中でお七と吉三の出会いの場を吉祥寺としたことがその訳とか。

二宮尊徳の墓も、日本全国にあるが、何故かこの吉祥寺にも存在する。

20100617吉祥寺山門s-.jpg  20100617比翼の墓s-.jpg  20100617二宮尊徳墓s-.jpg


六義園を通り過ぎ、旧古河庭園に立ち寄る。
西洋庭園には薔薇の二番花が咲いていて、日本庭園には菖蒲が彩りを添えている。

コンドルの設計した建物は、旧岩崎邸と違って無骨な石積みの外観だが、敷地のレベル差を生かした庭園と相俟って思いのほかピクチャレスクな景観を創り出していた。

20100617古河庭園s-.jpg  20100617古河庭園日本庭園s-.jpg


飛鳥山公園手前には西ヶ原の一里塚。
渋沢栄一が保存に尽力し、生き残る事が出来た。
都内で残っている一里塚は、志村の一里塚とここだけなので貴重な史跡。

何度か来た飛鳥山公園で、いつも外観だけしか見ていないので気が引ける晩香廬と青淵文庫に御挨拶。

20100617西ヶ原一里塚s-.jpg  20100617晩香廬s-.jpg  20100617青淵文庫s-.jpg


王子の手前の音無橋は御茶ノ水の聖橋と同じRCのアーチ橋で、その構造が美しい。
昭和五年竣工で聖橋は設計は山田守だが、こちらは増田淳。

20100617音無橋s-.jpg


王子を過ぎて暫く行くと、鎌倉街道中道が合流する。というか御成道が昔の鎌倉街道を使っている。
下の写真の右側が鎌倉街道中道。最近は横尾忠則のY字路では無いが追分が気に掛かる。

20100617鎌倉街道合流点s-.jpg


鎌倉街道で歩いた部分を省略して、再び赤羽の宝幢院の道標に対面する。「南江戸道」「東 川口善光寺道 日光岩付道」「西 西国冨士道 板橋道」と刻まれている。
ここは鎌倉街道上道も合流するので、立ち寄ったのは3回目。

20100617宝幢院道標s-.jpg


荒川を渡ると、エルザタワー55がまだ威容を誇っている。
鎌倉橋の碑が荒川の袂の小公園にある。荒川には流石に掛かっていなくてそのそばの小川に掛かっていた橋だそうだが、名を残す。

20100617エルザタワーs-.jpg  20100617鎌倉橋碑s-.jpg


川口宿で数件の古い建物を見ながら、国道に合流。
十二月田という珍しい名前の交差点近くで、味噌醸造業・材木で財を成した田中徳兵衛邸を見学。
大正12年の建物だが、昭和年代の和館も合築されていて、別棟に茶室もある。
色々な催しも行われているようで、建物が活きているのは嬉しい事だ。

20100617田中邸1s-.jpg  20100617田中邸内部1s-.jpg  20100617田中邸茶室s-.jpg


鳩ヶ谷宿は最近設置された立派な街道に碑が設置されている。
街中には古い建物も散見され、史跡の標識も多く、街道が町おこしに役立っているようだ。

20100617鳩ヶ谷宿碑s-.jpg  20100617鳩ヶ谷宿建物-.jpg  20100617鳩ヶ谷宿案内板s-.jpg


鳩ヶ谷宿を抜けるとまた川口市になる。
地図を見ると、鳩ヶ谷市は一部を東京都の足立区に接しているがあとは周辺ぐるりと川口市に囲まれている。
このような市域になっている経緯は色々あったようだが、今は川口市との合併協議が進んでいるそうなので、川口市鳩ヶ谷町になるのも遠い事ではなさそうだ。

鳩ヶ谷宿を越えると見所は少なく、園芸農家の多い地域が続き、程なく東川口駅に着く。
位置的には東川口でなくて北川口が相応しいが、この名称も何故だろうかと思いつつ、駅前のこれも不思議な親子の獅子の像を見て歩き終えた。

20100617東川口駅像s-.jpg
posted by 遊戯人 at 23:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 日光御成道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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