思い立ってぶらりと歩くには、手ごろな街道だ。
東府中駅からジェット戦闘機が展示されている航空自衛隊府中基地の横を抜け、新小金井街道との交差点が、街道の起点。
歩き始める前に、そばの浅間山に足を伸ばす。
この付近は南北朝時代の足利尊氏と新田氏の古戦場で、浅間山には浅間神社と人見街道の名称の謂れともされる戦国時代の武将、人見四郎の墓跡がある。



街道沿いは大きな家屋敷が連続する。長い参道を辿って、人見稲荷神社へ。
勿論人見氏の氏神で、大宮の氷川神社の御旅所で、他にも色々な謂れがあるとか。


三鷹に入ると近藤勇の生家跡、娘婿の近藤勇五郎の道場の撥雲館などがある。そばの龍源寺には近藤一族の墓があり、近藤勇の墓も祀られている。
近藤勇の墓は日本あちこちにあり、中山道の板橋駅前、東海道の岡崎の法蔵寺でも見かけ、これで三つ目だ。



野川沿いには都指定の有形民俗文化財の峯岸家の茅葺の水車経営農家があるが、内部整備のためか閉鎖中だったのは残念。
川のほとり水車で我慢する。
不思議な名前の相曾裏橋の近くでは、今頃都内では珍しい川遊びをしている子供をみかけた。
川の反対側にほたるの里とうたった湿性花園と、崖線沿いに出山横穴墓がある。七世紀頃のものとか。



大沢あたりには街道沿いに欅が残り、往時を思わせる。
戦時中に焼夷弾によって被災した家の再建のために、多くの欅が切り出されてしまったという、つらい説明板があった。

三鷹市役所は良き時代のダイナミックなピロティで驚かされる、誰の設計だろうか。
三鷹の地名の謂れは、ここが徳川家の鷹場で世田谷領・府中領・野方領にまたがっていたことに由来するとか。
市役所敷地内に、移設された御鷹場の標石があり「従是東西北尾張殿御鷹場」。南以外は全て鷹場と言う事か。
これを見ると、御鷹が三鷹に変ったとも考えられるが。


下連雀に地名の解説があり、振袖火事とのあと火除地とされた神田連雀町から移ってきたそうだ。
連雀は昔は連尺で物を背負うときに用いる荷縄で、それを取り付けた背負子をつくる職人が多く住んでいたことから、「連尺町」の名前が付けられたと。
なるほど。
牟礼二丁目の交差点に道供養之塔がある。
橋供養碑はあちこちで見かけるが、道供養は甲州街道の笹塚で見た以外はあまり記憶にない。
街道歩きをする者としては何時も道に感謝。
秋祭りの季節で、そこかしこで祭礼が行なわれていた。牟礼の神明神社の祭りはやや寂しげだ。


玉川上水を渡る牟礼橋の横に、古いレンガ造りの橋が残っている。
ドンドン橋と言い、ここには橋供養碑があった。

神田川を越えて久我山を過ぎると、見所はあまりなく、程なく杉並の大宮八幡に着く。
ここは、鎌倉街道中道の一つが通っており、その探訪はまた次の楽しみとし、思いのほか時間が掛かってすっかり日が落ちた大宮八幡をあとにして、この日の街道を終えた。

