2011年03月02日

川越街道(その2:大和田宿〜川越宿)

新座駅から歩き始めるとすぐに、新座市内では最古最大という鬼鹿毛の馬頭観音があり、鬼鹿毛という名馬が、主人小栗のために、亡霊となって走り続けたことを弔うためと言う解説がある。

鬼鹿毛と小栗といえば当然小栗判官だが、不思議なことにその説明はない。
さすがにここでは小栗判官と言わずに「昔、秩父の小栗という人、・・・」とちょっと遠慮した書き方になっている。伝承では小栗判官のモデルは常陸の国の在とされるので、秩父とはかなり違う。

この鬼鹿毛伝説はあちこちで同じような話があり、それを祀る寺も多いようだ。
小栗判官と照手姫の伝説も、東海道藤沢宿や中山道の青墓宿でも見受けられたことを思い出す。全国的な人気者だったわけだ。
ともあれ、三面六臂観音様は中々のものだ。

鬼にちなんだのか、隣に芭蕉の「花は賤乃眼にもみえけり鬼薊」の句碑がある。

20110222鬼鹿毛の馬頭観音s-.jpg  


大和田には鎌倉街道の枝道であり「奥州脇道」ともいわれた羽根倉道と言う道が川越街道と交わっている。
この道は、荒川を越え、武蔵一の宮、大宮の氷川神社に通じるとともに、一方は国分寺にあった国府に向かう往還道であったということだ。
少し見ると、いかにもそれらしい道で、川越街道で出会った三つ目の鎌倉街道。

英橋を渡ったところに煙り出しのある豪壮な農家がある。昔の庄屋だったのだろうか。

20110222大和田の鎌倉街道s-.jpg  20110222煙出し農家s-.jpg


跡見女子大学の手前左の小山に、「三国第一山」と書かれた大きな石碑がある。
富士塚といわれるが、合目表示もなく怪しんだが、調べると横を走る県道の改修時に山が削られとかで、多分移設されたのだろと納得。

20110222富士塚s-.jpg


竹間沢からは、立派なケヤキの植えられている中央分離帯が続く。川越街道の碑も重厚だ。
三芳町の説明板には川越街道の距離は、十一里三十四三町三十三間半と、えらく拘わった表示があり、この分離帯の右側が旧街道ということだった。
この辺は旧上福岡市、大井町が合併してふじみ野市となっているが、隣接して合併に反対した富士見市があり、同じような地名に対する行政の感度の低さを表すとともに、ややこしい。
三芳町も合併に反対して、入間郡三芳町と町制のまま存続している。
三芳町の地名は伊勢物語の「みよし野」から取られており、この地名が残存したことはうれしい事だ。

 みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる

広源寺では、山門でなくて本堂の前に仁王が据えられている。こういうスタイルはお目にかかったことがなく、立派だが、雨ざらしが気に掛かる。

藤久保交差点の先に、往時と思しき松並木が残る。

20110222川越街道碑s-.jpg  20110222広源寺s-.jpg  20110222松並木s-.jpg


大井宿の本陣跡は、家は建て替えられて標識だけが立っている。
大井の地名も大井戸から由来して井戸の跡が保存されているが、見逃した。
大井小学校敷地内に国の登録有形文化財の旧大井村役場は、入ることは出来なかった。

小公園に角の常夜燈がある。川越街道と大山道との分岐で、「大山 武蔵野地蔵 ところさわ 道」と彫られている。昔からの大山信仰の根強さが確認できる。

20110222大井宿本陣跡s-.jpg  20110222大井村役場s-.jpg  20110222角の常夜灯s-.jpg


国道との合流手前に神明神社があり、隣にかなり侘しい馬頭観世音堂がある。この堂にも大和田宿で見かけた鬼影毛伝説が残っている。

20110222馬頭観音堂s-.jpg


川越に入ると開明地蔵大菩薩があり、別称首切り地蔵。昔刑場が傍にあったのが由縁と。
地蔵信仰は日本全国どこにでもあるが、この街道はとりわけ地蔵が多いのが眼を引いた。必ず理由がある筈なのだが、不明。

20110222首切り地蔵s-.jpg


川越大橋手前の道が、気に掛かる名前の烏頭坂。
説明板に道興准行の「うとう坂越えて苦しき行末を やすかたと鳴く鳥の音もかな」の歌が記されているが、歌の意味も、烏頭坂の由来も書かれていない。
烏頭は善知鳥とも書いて、親子の情愛が深い鳥で親鳥が「うとう」と鳴くと、雛鳥が「やすかた」と応えるという。この知識がないと歌の意味もわからない。
これに関する能が世阿弥の「善知鳥」で、さらに藤原定家の「陸奥の外が浜なる呼子鳥 鳴なる声はうとうやすかた」が有名。道興准行の歌はこれを元にしている。
青森市発祥の地は安方といわれ、多くの善知鳥の伝説が残っている。

さて、なぜここが烏頭坂かと言うと、洞穴のことをウトといい、昔はこの付近に多くの横穴住居があったのではないか、だからウトウ坂と言う説を見かけた。
また、似たような説で「うとう」は「空洞」で空洞状地形、凹状地形を示して、道においては切通しの形状を呈する凹道、峡道を示すと言う推測もあり、現地を歩くとこの説はかなりそぐわしい感がする。

地名一つでも、いかようにも想像は膨らむ事ができる。

市街地に入る陸橋の上からは、歩いてきた関東平野がくっきりと見える。

20110222烏頭坂s-.jpg  20110222関東平野s-.jpg


きっとあるに違いないと思っていて、やはり見つけたさつまいも地蔵尊。まだ真新しいが妙善寺にある。
見事な枡形を過ぎて、レンガ造りの川越キリスト教会は質素だが、味わい深く国の登録有形文化財。
三位一体のシンボルの、三つ葉のクローバーがあちこちに隠されている。

20110222川越さつまいも地蔵尊s-.jpg  20110222川越キリスト教会s-.jpg  20110222川越キリスト教会内観s-.jpg


太田道灌の像のある、大手門跡で歩き終える。
迂闊な事に、太田道灌が川越城を築いたという事を初めて知る。

20110222川越大手門跡s-.jpg


歩き終えた後の街中は、見慣れた景色も心なしか春の気配を漂わせていた。

 おもしろや ことしの春も 旅の空 (芭蕉)

20110222川越s-.jpg  20110222時の鐘s-.jpg




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2011年02月09日

川越街道(その1:板橋宿〜大和田宿)

川越街道は日本橋から川越までの13里と言われているが、これは「栗(九里)より(四里)うまい十三里」の、川越名産サツマイモの宣伝から来ているとも言われ、実際には十一里程度らしい。
いずれにせよ、二日かけてのんびり歩くには手ごろな街道だ。

中山道でも歩いた板橋駅前で、近藤勇の墓を再見して出発する。
板橋宿は平尾宿、中宿、上宿で構成され、商店街も平尾宿のペナントが掛かっている。これ以降、板橋区内の商店街はどこもペナントがあり、これは板橋区の方針なのだろうか。

中山道との分岐の平尾の追分は風情はなく、首都高の下の四ツ又通りは少し前は四ツ又ワインロードと言い、Zを表現したペナントだったようだ。
今はアルファベットも180度変えて「Aロード四ツ又」とイメージチェンジした。

20110205近藤勇墓s-.jpg  20110205平尾宿s-.jpg  20110205平尾の追分s-.jpg  20110205四ツ又商店街s-.jpg


山手通りを越えると、遊座大山と名付けている大山商店街に入る。
道筋は賑やかさを増し、東上線を渡ると商店街はアーケードのあるハッピーロード大山になる。どちらも元気一杯で、今時の日本では珍しい地元に根付いた昔ながらの良さを持つ活気のある商店街だ。

大山の名称の謂れは、この板橋で大山詣でが盛んでそれが地名になったと言うことで、どこにでもありそうな平凡な地名に思えるが、実は奥が深い。

20110205大山商店街s-.jpg  20110205ハーッピーロード大山s-.jpg


商店街の外れにある、大山福地蔵尊を拝んで、しばらく行くと鎌倉街道中道が交差する。
変哲のない道に見えるが、一度歩いているので懐かしい。

20110205福地蔵s-.jpg  20110205鎌倉街道交差点s-.jpg


下頭橋通りに入ると上板橋宿になる。
東上線の中板橋駅付近が上板橋宿で、東上線の上板橋駅はまだ二駅先にあるので街道の宿場名と整合しておらず混乱する。

宿場の趣はないが、昔説教強盗に入られたと言う三春屋が古さを保っており、その向かいの鳶の会社の前に「日本橋二里二十五町三十三間」の私設標識がある。好事家の方のようだ。
消防団の資材置場も粋だ。

20110205三春屋s-.jpg  20110205道標s-.jpg  20110205消防団倉庫s-.jpg


色々な名前の由来の書かれている下頭橋で石神井川井を越えて少し歩くと、今度は上板南口商店街。
工事中の環八に、大山街道の道標が移設されている。

20110205上板南口銀座商店街s-.jpg  20110205大山道標s-.jpg 


街道は下練馬宿に入り、北一商店街、きたまち商店街、ニュー北町商店街とあわただしく名前を変える。

20110205北一商店街s-.jpg  20110205北町商店街s-.jpg


きたまち商店街のシンボルは馬のようで、なぜ馬かと言うと、これは商店街にある浅間神社の説明に
 ・・・下練馬宿は「川越道中ノ馬次ニシテ、・・・」と書かれているような事からだろう。
ボラードも鋳鉄性の馬だった。
浅間神社には富士塚があり、少し先の北町観音堂には良いお顔の聖観音、珍しい石製の仁王などが祀られている。

20110205馬のボラードs-.jpg  20110205浅間神社富士塚s-.jpg  20110205聖観音s-.jpg


大山から続いた長い長い商店街を歩き終えて、国道に出て地下鉄赤塚駅横ではこれも以前歩いた鎌倉街道中道のバリエーションルートの騎馬像を再見。この日二つ目の鎌倉街道だ。

20110205鎌倉街道碑s-.jpg


成増駅を過ぎて新田坂を下ると、白子川には半生を白子で過ごしたという清水かつら作詞の「くつが鳴る」の歌詞が刻まれている。この川を渡ると白子宿。

20110205白子橋s-.jpg


白子宿で鎮守の熊野神社に立ち寄る。
ここはまことに東京とは思えない異次元のパワースポットのような不思議な場所。
境内には富士塚があり、隣接した清龍寺不動院は伊賀忍者の監督を務めたとも言われ、乃木大将が日露戦争のときに参籠修行したという不動の瀧がある。当日も水垢離の修行をしている人が見受けられた。
更に開運利益洞窟めぐりというものもある。洞窟の中にはお稲荷さんが鎮座していた。

20110205熊野神社s-.jpg  20110205熊野神社富士塚s-.jpg  20110205清龍寺洞窟s-.jpg  20110205洞窟内稲荷s-.jpg


白子中宿本陣冨澤家は郵便局に変わっているが、大坂の途中には立派な旧家がありこれも冨澤家。
くらやみ坂を下ると、今度は代官だった旧家の柳下家。隣には場違いなデザインのアパートが建てられているがこれにはDaikanとプレートがつけられていた。

20110205白子宿旧家s-.jpg  20110205柳下家s-.jpg


白子の地名の由来は、新羅が変化したと言われる
奈良時代、武蔵国には高麗郡、新羅郡が置かれ、新羅は志楽・志楽木・志羅木、志木、新倉などとも表記し平安時代の頃には新座郡と記された歴史を持っている。
この辺はこれらの地名が様々な形で残っている。

膝折宿に入ると一乗院には、案内に今度は高麗由来の建立が記されている。

・・・716年駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野ノ7国ノ高麗人、1799人ガ武蔵国(現在の入間付近)ニ移住シ、高麗郡ガ置カレタ。ソノ後戦乱アリテ高麗ノ城陥レリ時、主将某ハ敵ノ為ニ討レ畢ヌ。家臣5人遁レテ落人トナリ此ノ膝折ノ地ヘ来レリ、其頃ハ只原野ナリ。彼ノ5人ノ者力ヲ合ワセテ遂ニ家ヲ作リ居住ノ地トセリ、高麗氏ヲ家号トセル者アリ、ソノ時乱世ノ平和ニ立チ還エル事ヲコイ希イ、且世ノ人々ノ後生ト縁者ノ菩提ヲ願イテ守リ本尊タル11面観世音菩薩ヲ勧請安置シ一宇ヲ建立ス・・・

膝折宿には現在も高麗の姓を名乗る人が多く、脇本陣跡の村田屋も高麗姓だった。
隣接した二つの宿が、一方は新羅由来、一方は高麗由来と言うことになるのがまことに不思議で、調べると疑問が次々沸き起こりそうだ。

20110205一乗院s-.jpg  20110205村田屋s-.jpg


宿場を抜けると野火止に入り「横町の六地蔵」を過ぎると、紅葉を見に来た事もある名刹平林寺の寺号石がある。

20110205六地蔵s-.jpg  20110205平林寺寺号石s-.jpg


比較的短い距離だったが、元気な商店街、新羅と高麗の渡来人の今に繋がる歴史の深さなど噛み締めながら、これも新羅由来の新座駅で打ち止めた。
posted by 遊戯人 at 17:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 川越街道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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