2013年02月14日

大山街道保土ヶ谷道

大山街道のバリエーションルートのこの道は相州道とも言われて、東海道の保土ヶ谷宿の手前芝生追分から分岐して海老名で大山街道青山道に合流する。

和田町から芝生追分までは所謂絹の道とも言われる浜街道を歩いた時に経験済みなので、今回は和田町から歩き始める。
和田町からの道は「水道みち」と名付けられており、津久井村から野毛山の浄水場まで44kmを導水管の工事の為に道が作られた。この道は途切れ途切れだが部分的に残存しており、いつか繋いで見たい道ではある。

星川に、斜面マンションと車の夫々が斜に構えた偶然だが見事にそろえたような景観があって、つい見とれる。
急坂を上る途中に、西谷浄水場のメモリアルポケットパークとして味のある量水器室が保存されている。

20130214水道みち標識s-.jpg  20130214斜面マンションs-.jpg  20130214量水器室s-.jpg


坂を登りきった所にある西谷浄水場には横浜の水道に関しての水道記念館が建っており、歴史や現状の一通りの事柄が分るようになっている。
また、敷地内には味のある登録文化財の濾過池整水室上屋などがあり、これは現役で使われているようだった。

20130214水道記念館s-.jpg  20130214整水室s-.jpg


保土ヶ谷高校の脇を通り街道らしくない雰囲気の住宅地の中を下ると三反田で、そこにある稲荷神社の社を覗くと「大山」と書かれた菅笠がある。国定公園とも書かれている。大山登山の記念で奉納したものだろうがこの街道を使って行ったのかどうかが気に掛かる。

20130214住宅地s-.jpg  20130214三反田神社s-.jpg  20130214菅笠s-.jpg


この辺は横浜市旭区なのだが、旭区には「あさひ散歩」というパンフレットがあり、その中でも道筋が相州道として紹介されている。
六十六部供養地蔵を過ぎると、新幹線を越え、以前歩いた鎌倉街道中道と交差する。
二俣川に近づくと、「たばこ小賣所」の看板を掲げたレトロな煙草屋が見受けられる。

20130214供養地蔵s-.jpg  20130214鎌倉街道s-.jpg  20130214たばこ小売所s-.jpg


二俣川からは尾根筋の道となり、三ツ境を越えて今度は中原街道と二ツ橋で交差する。
ここには「右八王子往来、左神奈川往来」と彫られた真新しい石碑がある。
この地点は、直線で結べば単純なのにわざわざ三角形の二辺を取る道筋となっており、謎。

20130.214二つ橋道標s-.jpg


瀬谷センターの前に「県下新住宅地十佳選当選記念」の記念碑がある。
昭和5年に当時の横浜貿易新聞社が主催して県内の住宅地の人気投票を行ったもので、一位が東横線の白幡丘住宅地だったという。これは今の白楽あたりだろうか。
しかし、昭和5年の時点で瀬谷が住宅地として知名度があったとは意外なこと。
境川手前で、今度はこれも歩いた鎌倉街道上道と交差する。

20130214瀬谷住宅地碑s-.jpg  20130214鎌倉街道上道s-.jpg


行方を厚木基地に阻まれて道は大きく迂回し、基地を分断しながら続き外国のような景観となる。
厚木基地では、まほろば国際マラソンというマラソン大会が毎年基地内で行われていたが、9.11を機に中止されたままになっている。最近はレース復活の動きもあるようだ。
基地内レースはコースが単調だったが、いかにもアメリカンな陽気な雰囲気が思い出される。

20130214厚木基地傍の道s-.jpg  20130214厚木基地ゲートs-.jpg


基地を過ぎて東名高速を越え目久尻川へ向って下ってゆく。この辺は旧道が残っている。
夕暮れ時になり大山も見え始め、伊勢山自然公園付近で青山道と合流し、何年かぶりにビナウォーク内の国分寺の七重の塔のミニチュアを見て終わる。

20130214大山s-.jpg  20130214七重の塔s-.jpg


街道で慣れ親しんだ地域だが、歩けばやはり初めて知る事も多く、又別の大山街道が楽しみだ。


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2012年11月25日

三国街道(その3:中山本宿〜猿ヶ京宿)

三日目は中山本宿までバスで戻り、街道に二筋ある道筋の中山新田宿へ向う。
道すがら意外なことに、西に浅間山が良く見えて目を楽しませる。

20121125浅間s-.jpg


新田宿は本宿の12年後に開かれたが、近道だったためこちらの方が栄えたと言う。本陣の平形家の長屋門は郵便局などに使用されたが今は住宅門屋として登録文化財となっている。
水平方向に伸びやかなこの建物は、格子窓、手摺などの細かい分割されたプロポーションも美しく、心地よいリズムを刻む。

20121125住宅門屋s-.jpg  20121125手摺s-.jpg


中山集落の先に「街道一の清水」があるが、その名に反して残念ながら水は枯れている。

20121125街道一の清水s-.jpg


赤根トンネルの手前で街道は林道になり、中部北陸自然歩道の標識に出ている金比羅峠への道を辿る。
坂を上って行くと直ぐに塩原太助の馬つなぎの松。此処に来るまでうかつにも、塩原太助が三国街道の知名人とは露知らず。
往時の松は樹齢300年を越えたらしいがそれは枯れて、二代目の松が植えられている。

20121125分岐点s-.jpg  20121125塩原太助馬つなぎの松s-.jpg


林道で高山村と旧月夜野町の境界が金比羅峠、そこからは山道に入り程なく不動峠の小さな石宮があり風光明媚なこの地に長岡藩主が旅人の道中安全を願って立てた、と説明板に書かれている。
あいにく、木々が視界を遮っているが松林越しに上越国境の雪景色の山々が美しい。

20121125金比羅宮s-.jpg  20121125上越国境山s-.jpg


石宮からは踏み跡がほとんどない斜面を下り、途中の野仏に慰められながら程なく林道に合流する。
林道の途中に展望台があり、谷川岳のトマの耳、オキの耳をはっきりと視界に捉えることが出来る。昔登って、多分もう登らない山だが懐かしい。

20121125野仏s-.jpg  20121125谷川岳s-.jpg


林道を少し下ると、何の標識もない左に入る山道があり、これが旧道となっている。
後日地図で確認すると1/25000の国土地理院のものには破線表示されていたが、足を踏み入れるにはちょっと勇気のいる道だ。この辺は街道歩きの人にも結構な難関で、パスする人も多いのか地元の好事家以外に三国街道として歩いた記録を見かけていない。
道には、紛らわしい分岐が一箇所あるがそれ以外はさほど迷うことない。
南中山道、東月夜野道と刻まれた比較的新しい標石がある。五街道の中山道にはあまりにも遠いので、中山宿の中山だろうか。
途中に立派な石垣の跡があるが、もちろん何の説明板も見当たらず後日調べても不明だった。山城の跡にしては規模が小さすぎるので、昔の茶屋跡だろうか。

20121125塚原への旧道s-.jpg  20121125道標s-.jpg  20121125石垣s-.jpg


溜池を横に見て野仏の見守る塚原宿へ入る。
塚原宿は僅か300mほどの宿場だが、緩やかな道沿いにゆったりとした雰囲気が漂う。
宿の入り口に三国街道の説明碑が埋め込まれた塚原宿の石碑が建っている。たまたま居合わせたご老人に山中の石垣の事を伺ったがご存じないようだった。

20121125塚原宿野仏s-.jpg  2012125塚原宿s-.jpg


街道は此処から赤谷川へ向かい、桃野発電所の付近から船渡しで対岸に渡るが、現在は道は途切れているので県道で下新田宿に向かう。
下新田宿には塩原太助翁記念公園があり、銅像やら、記念館やらが集まっている。傍に今は普通の民家の太助の生家跡、隣に問屋跡がある。

20121125塩原太助公園s-.jpg  20121125塩原太助生家s-.jpg


今宿、布施宿とあまり見るべきものはなく、足を急ぎ、河岸段丘を上って須川宿へ辿りつく。
この宿は「たくみの里」として観光展開を行っていて、寂れ行く地方で頑張っているのが目に付いた。

街道の宿場で観光地化して有名なものは東海道の関宿、中山道の馬籠宿、妻籠宿、善光寺街道の海野宿などがあるが、これらは何れも鉄道路線から外れたことが結果的に古いものを残す事になり、それを逆手に取った観光地化・宿場整備が行われている。

須川宿もほぼ似た状態で、鉄道こそ近くを通っていないが、明治になって近くの宿場をショートカットする道路が出来た事によって寂れる一方だった。
ところが、周辺にある素朴な野仏を人集めに使う企画の村おこしが1980年代始まって、次に宿場内の街道を群馬県唯一の歴史国道として指定・整備し、さらに街道周辺に「たくみの里」として体験型の施設を多数展開して現在に至っている。

須川宿は特産もなく、かといってみやげ物ばかりを売る観光施設の集積でもなく、昔の宿場の雰囲気が良く再現されているわけでもないのだが、街道・宿場の活用の一つのあり方として興味が持てた。

20121125須川宿s-.jpg  20121125須川宿本陣跡地s-.jpg  20121125野仏巡りs-.jpg


須川宿を出ると、例の自然歩道の標識が途切れ途切れに現れる。赤谷川にある気恥ずかしい名前の「あいのわたし」橋を越えて浅地集落、杉の巨樹の御神木のある日枝神社、主幹が欠落して無残な上杉謙信ゆかりの逆さ桜など見物。

20121125日枝神社s-.jpg   20121125逆さ桜s-.jpg


街道は相股宿から猿ヶ京宿へ繋がるが、現在は赤谷湖の水の底。
赤谷湖の、左奥に気に掛かるのは三国峠だろうか。右には上越国境の谷川岳から仙ノ倉、平標山が雪化粧。

20121125赤谷湖s-.jpg  20121125平標山s-.jpg


日暮れ前に何とか猿ヶ京宿に辿りつき、またしても温泉に入る時間が見当たらず、本格的な冬に入ろうとしている侘しく見える温泉街を後にした。

三国峠を越えるのは何時の日か、と思いつつ。

20121125猿ヶ京関所跡s-.jpg  20121125猿ヶ京宿s-.jpg
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2012年11月24日

三国街道(その2:渋川宿〜中山本宿)

雪の付く前に三国峠の手前まで歩こうと思い立って、一年ぶりの三国街道へ。

渋川宿でまず旧渋川公民館を見学。
近世復興式と言う聞きなれない様式だが、比較的端正な表情をしている。
昭和6年に渋川信用組合の建物として建築され、幾多の変遷を経て今は無住の建物となっている。
市と商工会議所が協力し、平成26年までに敷地内で移築して商工会議所の事務所として保存活用を図る計画があって、寄付を募っていた。
そう簡単な話でもなさそうだが、歴史的建造物を大切に維持していくと言う心意気は頼もしい。

この建物の斜め前に登録有形文化財の堀口家があるが、こちらは何の説明もなく、旧渋川公民館と対照的だ。
蕎麦屋の店先に渋川村の里程元標の復元されたものが立っている。尺まで記されていて、その厳密さがうかがい知れる。

20121124旧渋川公民館s-.jpg  20121124堀口家s-.jpg  20121124里程元標s-.jpg


金井宿に入るとつるべ井戸が残っている。
金井本陣跡は児童公園となっており、往時の建物は無く地下牢跡だけが残されている。このような本陣は初見だったが、佐渡送りへの罪人の道でもあった三国街道独特のものだろう。

20121124つるべ井戸s-.jpg  20121124地下牢s-.jpg


南牧地区に入って、吾妻川へ降りてゆくと杢ヶ橋関所跡の田中邸がある。この建物自体は関所でなく定番屋といわれた役宅との事。
三国街道には猿ヶ京とこの関所しか設けられなかった。意外と言えば意外。

20121124杢ヶ関跡s-.jpg


次の北牧宿へは吾妻川を刎橋で渡ったが、今はその道筋はなく大きく迂回して北群馬橋で渡るしかない。
北牧宿は吾妻川から三筋の宿があり、その一つの新田宿が景観整備されている。ここから吾妻川まで降りる事が出来る。
対岸には、刎橋の土台に使われた思われる穴の穿たれた大石が望める。

20121124北牧宿s-.jpg  20121124基礎の石s-.jpg


丘陵を上がると、三国街道の道標がある。説明版によると「右江戸道」と一方だけを示している珍しいものと言うが、判読できない。
横掘宿に入ると、下宿に下宿地蔵尊がある。いわゆる首切り地蔵だが、中山宿の男が馬の荷のバランスを取るために地蔵の頭を取って重石としたら、その後厄災続きとなったので新しいものを寄贈したとの謂われ。
二体が首無し、新しい一体が首のある普通の地蔵だが、どれがどれだろうか。

20121124三国街道道標s-.jpg  20121124下宿地蔵s-.jpg  


宿場中ほどにある、雀脅しをもつ立派な建物は飯塚家本陣跡だがさほど古いものではなさそうだ。今は佐藤家が酒屋を営んでおり、軒先に珍しい長細い杉玉が掲げられていた。
宿には、三国街道で二つ目の一里塚もある。

20121124飯塚家跡s-.jpg  20121124横掘宿一里塚s-.jpg


道は高度を上げて白水ゴルフ場を過ぎると旧道らしきものが林の中に見えるが、降り口が見当たらない。
八木沢林道も少し辿って見たが、不明なので諦めて県道を歩く。
中山峠手前で薙刀坂の歌碑がある。
  杖をだに重しといとふ山越えて 薙刀坂を手ふりにぞゆく 道興准后

中山峠はゴルフ場の敷地に挟まれて、何の説明もなくまことに味気ないが、ゴルフ場越しの小野子山の姿が美しい。

20121124旧道?s-.jpg  20121124長刀坂歌碑s-.jpg  20121124中山峠s-.jpg

20121124小野子山s-.jpg 


この付近に国民宿舎わらび荘がある筈と、道端のお店の方に伺うと、客も減り耐震改修に多額の費用がかかるために、今年廃業したとの事。
三国街道沿いでこの辺では格好の宿となっていて、利用した人も多かったようだが残念。

中部北陸自然歩道の標識があり、三国街道の旧道を少しの間歩くことが出来る。気持ちの良い落葉の道だ。

20121124中部北陸自然歩道s-.jpg  20121124旧三国街道s-.jpg


道筋は中山本宿へ向うものと中山新田宿に向うものに分かれるが、バス便のある本宿へ向う。
本陣跡、問屋跡があるが、本陣は雷による火事で失われ解説板があるだけだった。

20121124中山本宿本陣跡s-.jpg


予定よりも早く中山本宿に着いたものの、バスは1時間半もなく、寒さをしのぐ店もなく、小野子山に夕陽が落ちてゆく中を宿泊地の沼田まで道筋を辿ったことだ。

20121124夕陽小野子山s-.jpg
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2012年10月17日

北国街道(その4:高田宿〜黒井宿)

街道に戻る前に、見所多い高田宿を散策。

先ず寺町。ここには63の寺があるといわれ、中心は親鸞を祀る浄興寺。山号は歓喜踊躍山と賑々しく本堂は重文。親鸞を祀る廟があり、これもきらきらしい。

駅の付近の、意図しない建物の壁面がアートのようで目を奪う。

20121017浄興寺s-.jpg  20121017親鸞廟s-.jpg  20121017レトロな壁s-.jpg


大町通りのニ・七の市を見て、新潟県唯一のヴォーリスの設計した高田降臨教会を見学。
幼稚園が併設されているために、内部は公開されていないが親切な司祭の方が見学させてくれた。
外観は温かみのある褐色で、礼拝室は簡素な作りだが時を経た木の質感がしっとりと馴染んでいる。
特徴的なエントランス上部の塔は、現在は使われておらず物置となっていた。
欄間に彫り込まれた、東方の三博士の旅の物語が楽しい。

20121017朝市s-.jpg  20121017高田降臨教会s-.jpg  20121017高田降臨教会祭壇s-.jpg 

20121017高田降臨教会東方の三博士s-.jpg


レトロな建物も目を引く。
近代化遺産の高田世界館は100年も続いている日本でも最古級の映画館と言うが、あいにく休館日で内部は見れなかったのは残念。

20121017高田の建築s-.jpg  20121017高田世界館s-.jpg


高田宿で唯一見かけた、造り込み雁木の「旧今井染物屋」。
雁木の下は私有地なので、各々の所有者が自由に味わい深い路面を演出している場所も多く、財のある家はその設えを競ったろう。

20121017旧今井染物屋s-.jpg  20121017雁木下路面1s-.jpg  20121017雁木下路面2s-.jpg 


高田宿外れの加賀街道と北国街道奥州道の追分の傍の宇賀魂神社に、移設された道標がある。
「右 於ヽ志う道、左 加ヽみち」、この辺からは北国街道よりも奥州道という表記が多く現れて来る。
厳密に言うと、この追分が北国街道の終点という事らしい。

20121017北国街道追分s-.jpg  20121017道標s-.jpg


稲田口番所跡で高田宿を出ても、雁木がある通りが続く。
この付近のどの神社の灯篭も極端に背が高く、豪雪をうかがわせる。

20121017松之山街道口雁木s-.jpg  20121017高灯篭s-.jpg  


関川沿いに街道は続き、ようやく河口から日本海が見えてきた。奥州街道で野辺地宿で海を見たときも感慨深かった事を思い出す。

20121017関川河口s-.jpg


街道を少し外れて、林芙美子の放浪記の碑や、安寿と厨子王の供養塔、高田出身の小川未明の「赤い蝋燭と人魚」にちなんだ人魚像などを河口付近で見る。
放浪記の碑には、その一節が刻まれていた。

 私が青い時間表の地図から
 ひらった土地は、
 日本海の直江津と云う小さい港町だった。
 ああ、海と港の旅情。
 こんな処へ行ってみたいと思う。
 これだけでも、
 傷ついた私を慰めてくれるにちがいない。

20121017放浪記碑s-.jpg  20121017安寿と厨子王供養塔s-.jpg  20121017人魚姫s-.jpg


海岸からの景色は索漠として、いかにも日本海らしい。
これからは出雲崎まで日本海沿いの道となる。

20121017日本海s-.jpg


馬市で有名だった春日新田宿を抜ける。往時は千頭が集まったといわれ越後三大馬市のひとつと。
この先椎谷宿も馬市で有名だった。日本海沿いに大きな馬市が立つのは不思議。

20121017馬市碑s-.jpg


黒井宿では中部電力が巨大な上越火力発電所を建設中。原発停止で工事を急いでいるらしかった。
承久の乱で敗れ、佐渡に流される途中立ち寄ったとされる順徳天皇の碑等を見ているうちに雨脚が強くなり、ほくほく線の犀潟駅に逃げ込んで早めに旅を終えた。

20121017上越火力s-.jpg  20121017順徳天皇碑s-.jpg  20121017犀潟駅s-.jpg  
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2012年10月16日

北国街道(その3:二本木宿〜高田宿)

つい先日北国街道を出雲崎まで歩き終えたのだが、記録をすっかり失念し、書くのはもう一年近く前の事となってしまった。

二本木宿付近は、左手後ろには特徴のある妙高が、右手前方には米山も見え始め空気が澄んでいれば当然日本海も望める筈。
この辺は、引き続きずっと日本海に雪崩落ちていく気分が強い街道だ。
切り下げられた現在の道筋から一段高い所にある藤沢一里塚が目立つが、片側だけ残存し何ら標識は見当たらない。

「越後見納め小出雲坂よ」と詠われた小出雲坂を下って、上越市に入る

20121016高田平野s-.jpg  20121016藤沢一里塚s-.jpg  20121016小出雲坂s-.jpg


新井宿手前に「左飯山道、右善光寺道」と彫られた道標がある。飯山道とは今の飯山街道らしい。
新井宿では、北国街道を意識した看板も見られる。

20121016飯山道道標s-.jpg  20121016新井宿外灯s-.jpg  20121016新井宿看板s-.jpg


この辺からも振り返ると、妙高が特徴ある姿を見せている。
石塚一里塚から先には石屋が多く、今もその影響か道端にデモンストレーション用とも思える不思議な石の集合がある。

20121016妙高s-.jpg  20121016石塚一里塚s-.jpg  20121016石の群れs-.jpg


新井宿から先は、旧道は右に左にと蛇行する。横を流れる矢代川の影響だろうか。
越後出雲神社辺りから上越新幹線の延伸部分が現れ、新駅の上越駅を眺められる。開業は2015年なのでもう間もなくだ。

20121016上越新駅s-.jpg  20121016越後出雲神社s-.jpg


高田宿の南入口に伊勢町口晩所跡と一里塚跡、髭題目がある。

20121016高田宿南口番所s-.jpg


高田宿は日本一の雁木の町で、その総延長は16kmとも言われ、豪雪を想像しながらも見ていて飽きる事がない。

20121016雁木0s-.jpg  20121016雁木2s-.jpg  20121016雁木3s-.jpg 


地元の人に聞いても誰も知らない時の鐘などを見て、旧師団長官舎に脚を運ぶ。
ここはカイゼル髭で有名な長岡中将の銅像がユーモラス。

20121016時の鐘s-.jpg  20121016旧師団長舎s-.jpg  20121016長岡中将像s-.jpg


再び街道に戻り、小川紙店と言う、いたく感動的な立面構成を持つ現役の店がある。

20121016小川紙店s-.jpg  20121016小川紙店看板s-.jpg


高田城跡の高田公園へも脚を伸ばす。
ここは日本三大夜桜、東洋一の蓮田などで有名だが、復元された三重櫓はやや小ぶりに見えた。
公園内に吉田五十八が設計した移築された小林古径邸やアトリエがあるが、例によって公開時間を過ぎていた。

20121016高田城三重櫓s-.jpg  20121016蓮田s-.jpg  20121016小林古径アトリエ等s-.jpg


高田宿の町並みは味わい深く、昔からの建物も自らを主張しない良い古び方で時を経ていたものが多かった。
しかし一転して現代のものは、全く勘違いの建物や施設を散見した。
駅前付近は古くからの雁木を撤去して、平成雁木というアーケードが作られているが、人のスケールを逸脱した馬鹿馬鹿しいアーケード空間となっている。
町会所跡には「雁木通りプラザ」という市の文化施設が作られているが、これは歴史や風土から隔絶したグロテスクな造形だ。設計者は上越市出身の寒竹伸一。

高田駅もひどい造形だ。
アーケード中心部は東京駅をモチーフとした言われるが、地元の方に伺うと、これらの建物は箱ものが好きだった数代前の市長が関与したと言うことで、設計者も設計者だが、箱もので足跡を残したがる施政者が如何に景観を破壊してしまうかという、反面教師としての見本のような町でもあった。

20121016平成雁木s-.jpg  20121016雁木通りプラザs-.jpg  20121017高田駅s-.jpg


昔からの雁木は、寛文5年(1665)に高田が大地震に襲われた時に、復興工事として本格的に建設されたと言われているので、もう350年の歴史があることになる。
平成雁木は何時まで持つだろうか?せいぜい20年ではないかと思いながら、ホテルに入った。

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2012年09月11日

羽州街道(その3:上山宿〜山形宿)

上山宿は昔から温泉で名を成して、競馬場もありバブルの頃は賑やかだったらしい。
こういう宿場は、得てして街道は陽の目を見ずに放置されている。

町一番の繁華な交差点にポケットパークがある。
通常こういう場所には街道の説明版が設置されている事が多いが、当然のごとく無視されて何の説明もない。
傍にある本陣跡は島津酒店となっている。

上山城は土岐氏の時代奥州の名城と謳われたが、転封に伴い1692年に跡形もなく破壊された。
今のものはコンクリートの模擬天守で、歴史資料館となっているが、多分姿形も往時と全く違うものだろう。

20120911上山宿本陣s-.jpg  20120911上山城s-.jpg


上山藩主松平重忠が1624年に庶民に公開したといわれる浴場は、現在もレトロで懐かしい姿で下大湯公衆浴場として存続している。
その向かいに鶴泉園があり、上山藩と山形藩の境界石が復元されて設置されている。
下大湯公衆浴場の直ぐ先の小高い所ところにあるのが観音寺で、下大湯を管理していたところから湯の上観音とも言われる。
温泉を管理していた寺と言うのは他にあるのだろうか?甲州街道の下諏訪手前に温泉寺と言う寺があったのだが。

20120911下大湯公衆浴場s-.jpg  20120911鶴泉園s-.jpg  20120911観音寺s-.jpg


上山宿を抜けて花立て坂を上ると、蔵王連峰が良く見える。
藩境の峠に地蔵が立っているが、この付近はUR都市機構が「山形ニュータウン蔵王見晴らしのおか」として大規模開発しており、その為に旧道の道筋は全く消失し、地蔵も移設されていた。
鎌倉街道を歩いた時の多摩ニュータウン、木下街道を歩いた時の千葉ニュータウンも道筋は消失し同じ状況だった。

20120911蔵王連峰s-.jpg  20120911花立坂地蔵s-.jpg  20120911山形ニュータウンs-.jpg


ひたすら、新しく出来た無味乾燥な道を下りニュータウンの外れに辿り付くとUR都市機構の現地事務所があり、そこで職員の方が親切に開発区域のもてなしの広場という所に新設された歩道として残存している道筋を教えくれた。
しかし、昔のよすがを示す看板一つ設置されていないのは残念だ。

20120911ニュータウン内旧羽州街道s-.jpg


間の宿の黒沢宿、松原宿は単調な一本道だが、問屋を務めた渡辺家の黒塀等が残る。一里塚などの史跡は真新しいが黒御影の碑で判りにくい。

20120911黒沢宿渡辺家s-.jpg  20120911黒沢一里塚s-.jpg


山形宿に入ると湯殿山の行者宿として栄えたという八日町、一番の繁華街の十日町には比較的古い建物が残るが、山形市は空襲には遭わなかったものの明治44年の大火で消失したものが多いと言う事を初めて知る。

十日町にかつて紅花商人であった長谷川家の蔵が「山形まるごと館 紅の蔵」として活用されている。
特産の紅花にちなんだのか赤瓦が使われて折り、一際を眼を引く建物だ。

20120911旅籠?s-.jpg  20120911紅の蔵s-.jpg


本陣の跡は現在は山形銀行本店となっているが、それを示す碑等は設置されていなかった。
突き当たりに旧県庁・県議事堂で現在は資料館となっている文翔館があり、イギリスルネサンス様式の雄姿を見る事ができる。
ボランティアガイドの方が内部を丁寧に案内説明してくれたが、山形と言う町を誇りに思っている事が言葉の端はしに見てとれて、自分自身も道筋を歩きながら程よいスケール感と、新旧建物の混在の心地よさを感じ、さもありなんと思えた。

20120911文翔館s-.jpg  20120911文翔館中庭s-.jpg


遠雷が聞えるなか、足早に山形駅に戻り着き歩き終えると、待ち構えたように夕立がやってきた。
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2012年09月09日

羽州街道(その2:滑津宿〜上山宿)

羽州街道を滑津大滝から歩き継ぐが、山に分け入っていく道筋は歩く期待を高めてくれる。

20120909街道風景.JPG


部分的に旧道が残り、わらじ街道と名付けられている。
その名称の故か、街道の名前があとか不明だが、昔の親子松があった跡に 旅人の安全祈願として巨大なわらじが設けられている。

滑津小滝も水が少ないが、蕎麦の花が美しい。
この街道は、七ヶ宿そば街道とも名付けられている。どう街道名を付けようが勝手だが、見かけた名称はそば街道、わらじ街道以外にも、みちのくおとぎ街道や、部分的ではあるが滑津花街道などもあった。
夫々つけた名称の由来は意味はあるわけだが、想像力の貧困さが残念だ。

20120909親子松s-.jpg  20120909滑津小滝s-.jpg  20120909蕎麦の花s-.jpg  


滑津宿から先は、一里一尺と言われたほどの雪の量だった。
峠田宿あたりから、北国では当たり前の二重玄関が現れるがかなり簡易な作りのものが多い。
藩境最後の宿の、湯原宿の東光寺の薬医門が味がある。

二位宿街道との追分に七ヶ宿街道最大といわれる庚申塔を兼ねた道標がある。
「右ハもがみ海道 左ハ米沢海道」

20120909二重玄関s-.jpg  20120909東光寺山門s-.jpg  20120909追分道標s-.jpg


間の宿千蒲を過ぎると、白石川源流の鏡清水までの旧道が残っているが殆ど踏みあとがない。
街道では、時々源流の史跡に遭遇する。奥州街道を歩いた時に、北上川源流の弓弭の泉を見た事を思い出した。

20120909鏡清水への旧道s-.jpg  20120909鏡清水s-.jpg


鏡清水を過ぎると金山峠、ここを越えると出羽の国に入る。
峠から東北自然歩道として旧道が整備されて筈だが、降り口を見過ごして自動車道を歩く羽目に。
カーブが多く退屈な自動車道を、ブユに悩まされながら下る。

20120909金山峠s-.jpg  20120909峠道s-.jpg


峠道を下り終わり、何気なくある金山宿を過ぎると楢下宿。
この町は、川を渡る二つの橋でコの字型の町の作りとなっている珍しい道筋で、旧家も数多く残っており興味深い宿場となっている。
宿場の入口に一里塚の石碑があり、羽州街道12番目の一里塚との記述がある。
この街道では、一里塚跡は桑折で見ただけで、あとは旧跡や標識としても一切見かけていないのが不思議だった。
移築された脇本陣滝沢屋が一里塚の傍にある。

20120909楢下一里塚s-.jpg  20120909脇本陣滝沢家s-.jpg


道筋に沿って、旧武田家、遠藤家、現役の佐藤家、アーチ状の石橋の眼鏡橋を渡り、庄内屋、大黒屋などが次々現れれ、見学して飽きる事がない。
再びアーチ状の石橋の覗橋を渡って街道は続く。
この町の極端な形状は、藩の防衛上の理由なのか自然の地形からそうなったのかは不明。
会津で有名な大内宿のような観光地ではないが、移築もして無住の旧家を維持している町の努力に頭が下がる。

20190909旧武田家s-.jpg  20120909眼鏡橋s-.jpg  20120909脇本陣庄内屋s-.jpg

20120909大黒屋s-.jpg  20120909覗橋s-.jpg


楢下宿からは、退屈な一本道で暑さに閉口しながら気息奄々。
雨水側溝のグレーチングに、ユーモラスなプレートが付いているのに慰められる。

上山宿手前の、三本松の追分に板碑があり道標を兼ねている。
「右ハよ年さわ 左ハ江とみち」と彫られているというが、磨耗していて読めない。

上山宿に近づくと、スカイタワー41と言う名前の異様な超高層マンションが眼にはいる。
1999年に竣工して、既に13年も経ているが山形県一高い建物らしい。
周辺環境に全くそぐわない白日夢のような建物が、どういう経緯で建てられれて、どういう人が住んでいるのだろうか。
山形と言うと、美しいアルカディアと言う売り言葉があるが、そういう事とは無縁のようなこの超高層はかなり薄汚い経緯を踏んでいるようだった。

20120909グレーチングプレートs-.jpg  20120909道標s-.jpg  20120909高層マンションs-.jpg

ここまでの所、13の大名が歩いたという羽州街道に見るべき史跡は比較的少なく、晴渡った空の下の自然が一番のご馳走だった。

9月9日の重陽の日に歩いたが、菊の節句の菊を愛でる余裕なく、気恥ずかしくなる平仮名の名前の「かみのやま温泉駅」で歩き終えた。
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2012年09月08日

羽州街道(その1:桑折宿〜滑津宿)

何時になっても暑さが収まらない今年の夏、秋が来ないので痺れを切らし、羽州街道に乗り出した。
この街道は奥州街道の桑折宿から分岐し、山形、秋田と続いて青森の油川宿でまた奥州街道に合流する500km程度の街道だ。
奥州街道を歩いた時に、この二つの追分を通過し、いつか間を結んで歩くつもりだったがようやく思い立って出かけて来た。

上ノ山宿から先はイザベラ・バードが歩いた道筋と重なるので、明治に女性が一人で旅した時から、何が変り何が変らないのかを確かめるのも興味の一つ。

桑折宿は2007年9月に通過しており5年ぶりだ。
追分は道標、柳の木、御休所等などがこの年に復元され、手づくり郷土賞を取っているが、5年間の時間の経過を感じさせずよく整備されていて町の人々の思いが伝わってくる。

直ぐに一里塚跡の碑があるが、追分からほんの僅かで基点がどこかが気にかかる。

20120908羽州街道追分1s-.jpg  20120908k羽州街道追分s-.jpg  20120908桑折宿一里塚s-.jpg


生野銀山、佐渡金山と並んで日本三大鉱山の一つとして江戸時代に隆盛を極めたという半田銀山跡がある。周辺には坑道も多数残存しているようだが、生野や佐渡のように観光施設として売り出す気配は皆無。
僅かに、明治天皇行幸碑や女郎橋と言う名の橋桁跡等が残る。

20120908女郎橋s-.jpg


道筋にある旧名主の早田家などを眺めながら、追分から最初の宿の小坂宿に入る。この宿は坂道にあり少し古い雰囲気も残している。

20120908早田家s-.jpg  20120908小坂宿s-.jpg


県道に萬歳稲荷の鳥居が超法規的に建てられており、意味不明の水車などもある。水車は隣の小屋に休憩所という文字が見えるので、町が何か補助金で作ったのだろうが、良くある無駄使いの典型的パターン。

20120908万歳稲荷鳥居s-.jpg  20120908水車s-.jpg


奥州山脈を横断する道筋の最初の峠が小坂峠。
登るのが産みの苦しみと同じほどと言う事から名付けられた、産坂の旧道登り口で喉を潤して、山道に入っていく。
途中小坂峠古道と慶応年間以降の小坂峠新道に更に分岐する。新道の方が緩くて上り易いようだが踏み跡が少ない。
峠は441mとさほどの高さでもないが、眼下の信達平野の景観が美しい。

20120908産坂分岐s-.jpg  20120908小坂峠s-.jpg


峠からは、また自動車道になり、ほど無く萬歳稲荷神社。萬歳と言う信仰深い馬方が建てたという。
境内は狭いが、鳥居の連なるアプローチが長い。

20120908万歳稲荷鳥居s-.jpg  20120908万歳稲荷-.jpg


上戸沢宿に入る。
羽州街道の小坂峠から金山峠までの間を七ヶ宿街道と呼び、上戸沢、下戸沢、渡瀬、関、滑津、峠田、湯原の七つの宿があったことから名付けられた。この名称は数ある街道の中でもかなり魅力的。
しかし渡瀬宿は今はダムで出来た七ヶ宿湖の水の底。

上戸沢宿に七ヶ宿街道が日本の道100選に選ばれたという碑があるが、既に25年も経っているので、街道の姿も大きく姿が変っていることは間違いない。
それでも僅かに残る茅葺屋根。

I20120908日本の道百選碑s-.jpg  20120908茅葺農家s-.jpg


上戸沢宿から下戸沢宿までは退屈な道が続く。蒲の穂が眼を和ませる。

20120908蒲の穂s-.jpg


下戸沢宿の方が上戸沢宿よりも規模が大きく、昔の姿が多く残っているようだ。
ヒダリマキガヤという国の天然記念物のカヤがある。確かに左巻き。

20120908上戸沢宿s-.jpg  20120908上戸沢宿1s-.jpg  20120908ヒダリマキガヤs-.jpg


七ヶ宿ダムのために街道は湖底に沈み、新しく出来た湖岸の道の方へ高巻いて大きく迂回する。
ダムは今年の渇水で、平年よりも10mも水位が下がっているが、それでも十分山の緑を映し、30分毎の噴水の演出なども行われて、眼を楽しませる。
しかし、渡瀬宿の標識が「湖底」と記されているのに心が痛む。

20120908七ヶ宿湖s-.jpg  20120908噴水s-.jpg  20120908渡瀬宿看板s-.jpg


湖周辺には、水源地域対策特別措置法による金をばら撒くためだけの目的で作られたような、広大な公園や施設、更には補償金で建てたのかお城のような住宅があり、違和感を感じるのはいつもの事。

20120908七ヶ宿公園s-.jpg  20120908水と歴史の館s-.jpg


関宿に入るが、特段宿の名前のような関の跡はない。
東海道の名ある本陣に比べても遜色なかったと言う本陣跡は、庭園の一部が侘しく残るのみ。

20120908関宿本陣庭園s-.jpg


滑津宿に初秋の残照が美しい。
ここは立派な茅葺の本陣安藤家が残っているが、当主は残念ながら今年家を出て今は無住の空き家となっている。

20120908滑津宿看板s-.jpg  20120908滑津宿s-.jpg  20120908安藤家s-.jpg


滑津宿には振袖地蔵がある。
秋田藩の殿様佐竹氏が参勤交代の折、地元の娘を見染めて帰国の時に召そうとしたが、娘はすでに病に倒れ、それを惜しんで供養のために建てたという。
関宿には関の地蔵があり、これは殿様の身代わりといわれ、この二つは相対しているという。

振袖地蔵の傍に、ほんの僅かな間、旧道がわらじ街道の名称で石畳で復元されている。こういう事業は無意味ではないが、ここでは全く的を得ていない。
滑津宿の滑津大滝で、歩き終える。この滝も渇水で本来の姿ではないようだった。

20120908振袖地蔵s-.jpg  20120908旧道s-.jpg  20120908滑津大滝s-.jpg


初日の羽州街道の七ヶ宿街道部分の印象は、史跡が少なく、どの街道でも止むを得ない事とは言え、思ったほど宿場の古い景観も残っていないのが残念だった。
後日に期待したい。
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2012年06月15日

大山街道柏尾道

大山を目指す大山道は数多くあり、関東近辺の街道を歩くとその名残にしばしば遭遇する。
柏尾道は、その中でも比較的メジャーで、東海道戸塚宿手前の柏尾の不動坂で東海道から分岐して下糟屋で矢倉沢往還と合流する。

取り掛かって放置状態の大物の北国街道や、三国街道をひとまず置いて、この大山街道のバリエーションルートを歩いてみた。

柏尾道に入る前に、東海道沿いの益田家のモチノキに再会する。ここを歩いたのは既に11年も前になり一際懐かしい。

直ぐに柏尾不動堂が現れ、多くの道標が残されている。
堂の前には休憩のための桟敷が設けられているのが有難く、カラーコーンに「柏尾町大山年参講」とあり、町内にまだ講中が残っている事を窺わせた。

20120615モチノキs-.jpg   20120615柏尾不動堂s-.jpg  20120615柏尾町カラーコーンs-.jpg
 

東海道線を大山跨線橋で越えるが、付近には大山と言う地名はなく、この名前は道が大山街道であった事を示しているに違いないが、それに気づく人は殆どいないだろう。

20120615大山跨線橋信号s-.jpg 


阿久和川沿いの旧道は、車の入らない緑道となっていて気持ちが良い。
不動橋で向導寺裏の富士塚に立ち寄る。結構立派な塚だが残念ながら手入れされている気配は全くなく、雑草の生い茂るにませていた。

20120615阿久和川緑道s-.jpg  20120615富士塚s-.jpg


不動橋を渡った永明寺別院の前には、不動明王を戴いた道標。
大山街道では有名な三軒茶屋の道標を始めとして、不動道標はありふれているが、他であまり見た記憶がないので大山街道独特のものだろうか。

20120615永明寺別院前庚申塔s-.jpg


中川地区センターの駐車場に、石碑群が集められている。この街道はとにかく石碑が多い。
道は泉区総合庁舎付近で長後街道と合流し、その付近に珍しい蚕御霊神塔がある。。
蚕神碑は結構あちこちで見かけるが、蚕御霊神塔は霜害で桑が枯れて蚕を育てられなくなり、蚕を埋めてしまったことの供養と言う。

20120615石碑群s-.jpg  20120615蚕御霊神塔s-.jpg


道端の空き地の中に庚申塔がある。
元々は街道沿いにあったものが移設されたのか、そもそもこの庚申塔の前が街道だったのか。

20120615空き地の庚申塔s-.jpg


境川手前で鎌倉街道上道と交差する。鎌倉街道上道を歩いた時のおぼろげな記憶が蘇る。
境川はその名の通り相模と武蔵の境の川で、この辺は横浜市と藤沢市の行政境となっていて、河岸は瀬谷駅付近から江の島まで辿る事が出来るサイクリングロードがある。
どうという事のない川だが、自転車でも走っているのでここも懐かしい。

20120615境川s-.jpg


小田急江の島線を越えると仙元塚がある。仙元塚は浅間塚で、富士塚とされている。
富士塚自体は、宝永の噴火の灰を集めて造ったと言われるが、今は笹に覆われ、富士塚とは言いがたい低さとなっている。

少し歩くと長後市民センターで、ここにも多くの石碑が集められている。

20120615仙元塚s-.jpg  20120615石碑群1s-.jpg


引地川を渡って棚を上り返し、旧長後街道に入ると工場の塀の一部が透明になっていて、内部に御所見塚の説明版と石碑がある。何故説明版を道路に出さないのかは不思議。
本来は桓武天皇の桓武天皇の第二皇子、葛原親王が葛原の地に下向された際に造られた御所を眺める事が出来た円墳があったと言うが、今は整地されて跡形もない。

20120615御所見塚跡s-.jpg


中原街道と交差する用田の辻に不動道標がある。ここがこの日に出会った歩いた事のある街道三つ目。
不動は良い表情だが、道標の「右大山道」と言う文字は落剥して殆ど判別出来ない。

20120615用田の辻不動道標s-.jpg


居合橋への道筋には、光背が赤く彩られた不動道標や美しい苔に囲まれた道祖神がある。

20120615赤の大山道標s-.jpg  20120615苔の道祖神s-.jpg


相模線を越えると渋谷神社がある。神社と言いながら鐘楼があり、神仏混淆の名残りだろう。
海老名市の重要文化財の本殿は彫刻が部分的に彩色されており、異彩を放って見える。

20120615渋谷神社鐘楼s-.jpg  20120615渋谷神社本殿s-.jpg


道は相模川の戸田の渡しに向っていく。
河川敷に入る手前に銀杏の木に守られるように、道路の真ん中に不動道標があり、交通の邪魔この上ないが移築されずに良く残ったものだと感激する。
さがみ縦貫道が建設中の相模川を渡ると大山も間近。

20120615戸田の渡し不動道標s-.jpg  20120615戸田の渡し不動道標1s-.jpg  20120615さがみ縦貫道s-.jpg

渋谷川沿いからは大山が良く見える。
小田急を越えた下糟屋で、矢倉沢往還と合流する。
矢倉沢往還を歩いて、大山阿夫利神社まで登ったのは5年前になる。この道はいつか来た道、もう一昔前の感慨が新た。

20120615大山s-.jpg  20120615下糟屋青山道合流点s-.jpg

流石に一日で大山に登るのは難しく、下糟屋の追分から、矢倉沢往還を逆に辿り愛甲宿まで歩いて今回の街道を終えた。
5年前は、何のために阿夫利神社に行ったのかと思い出しながら。
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2012年06月07日

鎌倉三十三観音巡り(その1:金沢街道付近)

観音巡りは街道歩きとは趣旨が異なるが、道を辿りながらの仏を参るのは、街道歩きにさも似たり。
鶴岡八幡から一番札所の杉本寺さらに光触寺への道は金沢街道で、朝比奈切通しを越えて六浦へ続く。
これは取りも直さず、鎌倉街道下道そのもの。

■杉本寺(第一番札所)
一番札所の杉本寺は天平6年(734)建立で鎌倉一の古社といわれるが実際は坂東三十三観音巡りの札所第二番の岩殿寺のほうが古いらしい。
開山は行基、本尊も行基、慈覚大師円仁、恵心僧都源心の三人が作った言われる三体の十一面観音でいわゆる三尊同殿。その有難さは言わずもがな。
行基のものは、寺の前を不信心者が乗馬したまま通ると、必ず落馬するので、それが十一面観音に覆面をさせることで収まったという言い伝えのある覆面観音でお顔を御拝むことは出来ない。
本堂内は撮影禁止。

杉本寺は坂東三十三観音霊場の発願寺でもあるので、信心深い方々が今も巡礼装束に身を固めてお参りしている姿が見うけられた。

本堂横に五輪塔群があり、南北朝時代、南朝側の北畠顕家との戦乱で敗れた足利側の斯波一族の供養塔と。
今はもう上る事の出来ない、苔生した階段がいつも美しい。

20120509杉本寺1s-.jpg  20120509杉本寺2s-.jpg  20120509杉本寺3s-.jpg


ご朱印には「鎌倉最古佛寺地杉本寺」と捺されているが、どうだろうか。

20120509杉本寺御朱印s-.jpg


■報國寺(第十番札所)
永享の乱で足利持氏の嫡子、足利義久がここで自害し関東足利公方終焉の悲劇の寺とされるが、今は昔の歴史は忘れ去られ、竹の寺として有名だ。
真新しい薬医門を入ると、整えられた庭と苔が迎えてくれ、宝暦七年(1757)創建の茅葺の鐘楼が見事な存在感。
呼び物の竹の庭では、中に茶席休耕庵があり御抹茶も頂けるが、以前その風情をじっくりと拝見したので今回は遠慮した。

20120509報国寺本堂s-.jpg  20120509報国寺鐘楼s-.jpg  20120509報国寺庭s-.jpg


ご朱印が、報國寺でなくて報国寺と記されていたのは、少し残念だ。

20120509報国寺御朱印s-.jpg


■浄妙寺(第九番札所)
鎌倉五山の一つで七堂伽藍を備えた大寺院だったが、今はその面影はない。
だが、周辺の地名は文字は異なるが、この寺にちなんだ浄明寺で昔日の勢力が窺える。
今は江戸中期に再建されたむくりの美しい本堂があり、つい最近復興された茶室の喜泉庵には枯山水の庭もある。
本堂裏手には、足利尊氏の父の足利貞氏の墓とされる宝篋印塔。

この寺の裏山に藤原鎌足が鹿島詣での際に鎌槍を埋めたという事が、「鎌倉」の地名のいわれという説もある事を後で知った。

20120509浄妙寺宝篋印塔-s.jpg  20120509浄妙寺s-.jpg  20120509浄妙寺御朱印s-.jpg


■明王院(第八番札所)
杉本寺と同じに古びた茅葺のお堂が本堂だ。
寺域は小さいが風情がある。以前訪れた時は、境内は撮影可能だったが、今は禁止となってしまっていた。
話を伺うと、マナーをわきまえないアマチュア写真家が処かまわず踏み入って、三脚を立てるので住職が禁止にしたとの事。
浄妙寺でも中高年の男女のグループが本堂前の石段にどっかりと腰掛けて弁当を広げており、常識のない行動に驚いた。
こういう方達は遊園地も社寺仏閣もその差はなく、多分ビジネス以外の世界の常識を知らずに仕事から引退したのだろう。
団塊の世代の本格的なリタイアが始まっているので、宗教の世界もおちおちしていられない。

鎌倉幕府の鬼門を守り、鎌倉将軍発願によって建立された市内に残る唯一の寺とされる。
鎌倉三十三観音札所の事務局のお寺とも言うが、どのような事をしているのかは不明。

20120509明王院s-.jpg  20120509明王院御朱印s-.jpg


■光触寺(第七番札所)
本尊の阿弥陀如来は、盗みの疑いがかけられた法師の身代わりになり、顔の左に火印があるという「頬焼阿弥陀」という由来があるそうだが、確認は出来なかった。

境内に塩嘗地蔵がある。
これはもとは金沢街道沿いにあったものが移されたということで、六浦の商人が鎌倉に塩を売りに来た時に塩を地蔵にお供えしていたところ、いつも帰りにはなくなっていたという。
塩の道とも言われる、金沢街道の歴史を伝えている。

20120509光触寺-.jpg  20120509光触寺本尊s-.jpg  20120509塩嘗地蔵s-.jpg


ご朱印は住職ご本人が書かれ、このような寺は余りないという事を仰っていた。

20120509光触寺御朱印s-.jpg


■永福寺跡(番外)
瑞泉寺へ辿る二階堂の道筋に永福寺跡がある。
頼朝が義経や藤原泰衡らの供養のために建て、平泉の中尊寺二階大堂を模した大寺され、二階堂の地名もそれに由来する。

応永12年(1405)に焼失し、ここもつわものどもの夢のあとだったが、発掘調査がされ復元整備の準備がされている。
池と橋、基壇が復元されるようで、そのための新しい礎石が準備されていた。
鎌倉は世界遺産への登録を目指しているので、作業の進捗が楽しみだ。

20120509永福寺跡碑s-.jpg  20120509永福寺礎石s-.jpg


■瑞泉寺(第六番札所)
二階堂の奥、錦屏山を背景に紅葉ヶ谷にある瑞泉寺は、その取り巻く地名だけでも風雅の極み、山門を入っての参道の美しさもおそらく鎌倉随一ではなかろうか。

夢窓疎石により開山され花の寺として有名だが、今は残念ながら花は端境期。
本堂裏の庭は夢窓疎石の作庭で、国指定の名勝。鎌倉に残る鎌倉時代唯一の庭園とされるが、この庭は旧来のものではなく、昭和になって発掘復元整備されている。
祠のある凝灰石の岸壁を背景とし、池も岩盤を刳り抜いた岩の庭だが、緊張感や構成の妙を感じる事はなく、感慨を与えるものは少ない。

20120509瑞泉寺参道s-.jpg  20120509瑞泉寺本堂s-.jpg  20120509瑞泉寺庭s-.jpg


この寺は鎌倉公方足利家の菩提寺でもあり足利基氏の墓などがあるようだが、見る事は出来ない。
寺には多くの人が足跡を残しており、吉田松陰もその一人。
寛永6年(1853年)の六月、ペリーの一回目の浦賀への黒船来航を見た後に伯父の住職竹院和尚を訪れている。二人は何を語らったのか。
翌、安政元年(1854年)にペリーの再訪時に密航を企てその結果獄死したのは周知の事実。
境内には「松蔭吉田先生留跡碑」がある。

20120509吉田松陰碑s-.jpg


水戸光圀も関連が深く、札所本尊の千手観音を奉安しており、確かお手植と言われる冬桜もあった筈。
本堂は僅かに開かれており、千手観音は阿弥陀如来の左に安置されていた。

20120509瑞泉寺千手観音s-.jpg


鎌倉は協定があるのか、御朱印料はどこでも300円だが、瑞泉寺は志納となっていて爽やかだ。

20120509瑞泉寺御朱印-.jpg


■来迎寺(第五番札所)
くわしい寺史不明とされ、真新しく新築された本堂はコンクリート造でやや味気ない。
本堂は閉ざされており、北条政子の持仏とされる如意輪観音は拝むことは出来ない。

20120509来迎寺s-.jpg  20120509来迎院御朱印-.jpg


■宝戒寺(第二番札所)
萩の寺として有名だが、今はその季節ではない。
北条氏が九代に亘り屋敷を構え、その滅亡後、後醍醐天皇が菩提を弔うために足利尊氏に建立させたという。

札所本尊は准胝観音像で、このような観音を初めて知る、十一面観音と混同されることも多いという。
ここは鎌倉二十四地蔵第一番でもあり、本尊の地蔵菩薩は坐像でこれも珍しいが、本堂内は撮影禁止。
本堂の隣に聖天堂があり、ここには秘仏で日本最古の木造聖天といわれる歓喜天像が安置されている。
さほど大きくない境内に、興味深い仏様が横溢している。

20120509宝戒寺s-.jpg


参道には大振りな八角形の石が敷かれており、豪快なデザインだ。萩の頃もう一度訪れてみたい。

20120509宝戒寺参道s-.jpg  20120509宝戒寺御朱印s-.jpg

この日に訪れた寺は来迎寺と宝戒寺以外は再訪だが、勿論見えてくるものは異なって、知らざる事のみ多かりき。
御朱印の裏に透けてくる寺の姿も様々だが、次の観音巡りが楽しみだ。
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