2011年04月10日

下田街道(その4:北の沢〜下田)

蓮台寺から箕作までバスで戻り、さらにそこから先は一時間ほど歩いて前回の終着地、北の沢にたどり着く。

石の上の溝が蛇の形で、そこに溜まっている水が枯れると旱魃になるという蛇地蔵。幸いなことに水は枯れていない。

20110410蛇地蔵s-.jpg  20110410蛇地蔵溝s-.jpg


街道は長閑な景色を楽しみつつ稲梓川沿いに進み、箕作(みつくり)に戻り着く。

箕作という地名は、謂れがありそうだ。
案の定、礪杵道作(ときのみちつくり=大津皇子の家来)が、大津皇子事件の際に朱鳥元年(686年)に謀反の罪でこの地に流罪となり、その後、居住したことが由来してついた地名と。
途中、道作八幡宮もあったようだが、立ち寄らなかった。
伊豆は源頼朝、日蓮や文覚など流罪の地だが、礪杵道作は伊豆の国へ流罪を受けた最初の人。1300年前の流刑人が地名に蘇る。

20110410長閑な風景s-.jpg  20110410箕作s-.jpg


箕作を抜けると、行基の開山とされる米山薬師がある。
日本三大薬師の一つと謳っているが、とてもそのような気配は見えず、残りは越後と伊予の薬師というがこれも諸説ある。

20110410米山薬師s-.jpg


この辺に、廻国塔や巡拝塔が多い。
廻国塔は全国六十六箇国を巡り大乗妙典を奉納、巡拝塔は西国・四国・秩父・坂東の観音霊場を廻った記念なのでいずれにせよ、気楽な街道歩きとは違った苦労が偲ばれる。

20110410廻国塔.JPG


下田に近づくと、唐人お吉が身投げしたというお吉ヶ淵に御堂と、お吉を悼んで新渡戸稲造が建てたお吉地蔵がある。新渡戸稲造が何故、お吉を殊更に悼んだのだろうか。

 から艸の浮名の下に枯れはてし 君が心は大和撫子

20110410お吉堂s-.jpg  20110410お吉地蔵s-.jpg


向陽院は枝垂桜が美しく、風待ちの港として栄えた下田に全国の船頭が安全を祈願したという夥しい地蔵が奉納されている。

20110410向陽院s-.jpg  20110410向陽院地蔵.JPG


下田富士を眺めながら、街中に入り、下田街道の終着点の「みなと橋」で旅を終える。

20110410下田富士s-.jpg  20110410みなと橋s-.jpg


お決まりの、ペリーの碑や吉田松陰にまつわる史跡、唐人お吉の墓や坂本竜馬由来を売り物にするあざとい宝福寺など見て散策。
稲田寺の安政の東海地震の犠牲者を供養する津なみ塚が、東日本大震災後だけに心に重く響き、下田駅前は休日にもかかわらず震災の影響で火の消えたような寂しさだった。

20110410ペリー記念碑s-.jpg  20110410宝福寺s-.jpg  20110410津波碑s-.jpg


流刑の地の歴史を背負った伊豆半島は、たおやかな自然とは裏腹に、震災の影響ばかりではない温泉地の衰退は見るも無惨で、その中を貫く下田街道に拡がる光景は、震災の前と後で季節の歩み以外は何一つ変化のある筈もないが、見る者の心は大きく揺らぎ、刻み付けられる記憶も変転する。

春の陽光にもかかわらず、どこか冷めやかに見える光景は、行く末も決して同じものではあり得ず、その時の心はどう移ろふか。

移ろいは「うつろひ」であり、うつろひは「虚ろひ」でもあり「空ろひ」だ。
小野小町は花の色はうつりにけりなと詠い、藤原定家は本歌取りをするが、どちらも「身はいたずらに」だ。

 たづね見る花のところもかはりけり 身はいたづらのながめせしまに(藤原定家)

いたずらにでも、移ろいを確かめに、まだ少し先に進んでみる。


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2011年04月04日

下田街道(その3:水生地下〜北の沢)

水生地下からは、渓流を離れ林道となる。
程なく水生地に至り、氷室園地がある。ここに川端康成の伊豆の踊子の碑。
また、ここは松本清張の小説の「天城越え」の舞台でもあり、氷室が復元されている。

ここから分岐する道を八丁池まで歩いたことを思い出す。昔々の物語。

20110404川端康成碑s-.jpg  20110404氷室s-.jpg


天城山隧道を越える。

 走り水 迷い恋
 風の群れ 天城隧道

20110404天城山隧道s-.jpg

 
隧道を過ぎると寒天橋。さらに見返すと二階滝。

 わさび沢 隠れ径
 小夜時雨 寒天橋

20110404寒天橋s-.jpg  20110404二階滝s-.jpg


国道を渡り返して平滑の滝を過ぎると、130年ほど前植林された見事な宗太郎杉並木。

20110404平滑の滝s-.jpg  20110404宗太郎杉並木s-.jpg


河津七滝の上流にある猿田淵に下る。
観光客は足を運びにくいところだが、河津七滝の遊歩道と繋げる工事が行われており、せっかくの良質な自然にとっては迷惑な事だ。

20110404猿田淵s-.jpg  20110404遊歩道工事s-.jpg


河津七滝、まず釜滝。高さはあまり感じないが、柱状節理が見事。

20110404釜滝s-.jpg


えび滝、へび滝、初景滝、かに滝、出合滝と続く。かに滝はどれがそれなのかよく分からない。
伊豆の踊子の像もご丁寧に二組ある。

最後の大滝は温泉旅館の敷地の中を下ってゆく。あまり近づけないので迫力は今ひとつ。

20110404えび滝s-.jpg  20110404へび滝s-.jpg  20110404初景滝s-.jpg

20110404踊子像s-.jpg  20110404出合滝s-.jpg  20110404大滝s-.jpg


滝見物のあとは、巨大なループ橋。
1978年の伊豆大島近海地震で山腹の道路が寸断されて、その対応として作られたということだが、ここまでこれ見よがしにした意味が全く不明。
土木設計者がやって見たかったと言う事だろうが、自然な抗うような構造物はいずれ天罰が下る。

小さな集落の川横区は、風情のある光景が見られる。

20110404ループ橋s-.jpg  20110404川横区風景s-.jpg


小鍋神社には、髑髏木なる樫の木がある。
文覚上人が源頼朝に決起を促すため父の義朝の髑髏を見せ、その後この地に埋めたという。

20110404小鍋神社s-.jpg  20110404髑髏木s-.jpg


湯ヶ野温泉を左下に見つつ、小鍋峠への道へ入る。
この峠は標高290mだが、天城峠以南の難所とされていた。

道は荒れていて、あまり人の踏み跡がない。
峠の標識は朽ちて倒れていたが、野仏へのせめてもの供養と思い立ち起こしてきた。

20110404小鍋峠への山道s-.jpg  20110404小鍋峠1s-.jpg  20110404小鍋峠2s-.jpg


峠を下り北の沢に入ると、ハリスが見たという楠の孫木がある。

20110404くすの木s-.jpg


ようやく国道へ出て、下田まで残りの距離は僅かだが、都合よく来たバスで、北の沢バス停から次回の予習をしながら下田に出る。
二つの峠と、多くの滝と、時代を経た樹々と、そして自然を恐れぬループ橋と言う醜悪な人工物を見た一日だった。
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2011年03月27日

下田街道(その2:修善寺〜水生地下)

下田街道の一回目から、この二回目までに東日本大震災があり多くの人々の生活や考え方に変化が起きた。
千年に一度の災害は、千年前にはなかった原発災害をもたらし、震災発生から二ヶ月経つと意図的な情報操作でニュースの頻度も減少しているが事態は多分一層悪化しており、日本が元の姿になるのにまた千年かるのかもわからない。

そういう重苦しい気持ちと関係なく、伊豆の空は晴れており、透き通る若葉はあくまで清明で、渓流も滝も爽やかに日の光を反照し躍動するように煌き流れていた。

修善寺を降り立つと、レトロな姿の伊豆の踊子号のボンネットバスに遭遇する。このバスも現在は伊豆半島への観光客の大幅な減少で運行が中止されている。

20110327伊豆の踊子号s-.jpg


修善寺温泉への道を分ける湯川橋。川端康成の「伊豆の踊子」ではここで、一高生が踊子たちと出会うのだが現代の踊子はもちろん現れず。
修善寺のある地域は伊豆市で、伊豆市の隣接した北は伊豆の国市とこの近辺も紛らわしく節操の無い市名が付けられている。

20110327湯川橋s-.jpg


国道や旧道を縫いつつ、街道は柿木橋へ。ここには狩野城と狩野派発祥の地の案内標識がある。
狩野氏は祖が土地の豪族狩野維景で、狩野派の初代狩野正信は維景の十六代の孫という。狩野派発祥の地とはやや誇大宣伝か。

20110327狩野城看板s-.jpg


すぐそばに狩野ドームがある、これも以前は天城ドームといっていた筈。多分新天城ドームが出来たのでお株を奪われたようだ。これは新参者に旧家が争いに負けた構図。

20110327狩野ドームs-.jpg


月ヶ瀬で賽の神を見かける。ここ以外にも賽の神は散見した。
行事としてのどんど焼きも賽の神というが、街道の賽の神は集落の出入り口に設置されており、道祖神は道の神で賽の神は疫病神などを防ぐ神とされるが区分はかなり曖昧だ。

20110327賽の神s-.jpg


嵯峨沢で明徳院に立ち寄る。
ここは東司の神様である烏彗沙摩明王を祀っている事で有名で、建物の一角に昔風の便器と男女性器とがあり、それぞれおまたぎしておさすりするとご利益があると。
山門の横に応永の槇があり、樹齢600年で全国第二位と伊豆市のHPには出ているが、古いには古いがどこにでもありそうな槇でこの情報も胡散臭い。

20110327明徳院s-.jpg  20110327トイレの神様s-.jpg  20110327応永の槇s-.jpg


川端康成も好んだ湯ヶ島温泉に入ると震災の余波で客足が減っていることもあるが、その寂れ方は尋常ではない。
市営の立派な建物の天城温泉会館は2年前から温泉客の減少で閉鎖されており、隣の夕鶴記念館も殆ど開店休業状態だ。

20110327湯ヶ島温泉会館s-.jpg


この町が井上靖のゆかりの土地であることは初めて知る。町歩きの案内板を兼ねた「しろばんばの里」の看板があちこちに出ており、井上本家の上の家も健在だ。

弘道寺にはハリスが宿泊し、その記念碑がある。
日本滞在記の文章が彫られ、富士のことを「・・・私が1855年1月に見たヒマラヤ山脈の有名なドヴァルギリよりも目ざましいとさえ思われた。」と書いているが、ハリスがヒマラヤ近辺まで行っていたとは知らなかった。ドヴァルギリなるダウラギリの方が目覚しいと思える。

20110327上の家s-.jpg  20110327ハリス記念碑s-.jpg


浄蓮の滝で初めて踊り子に出会う。石川さゆりの天城越えの歌の碑がある。

 あなたを殺していいですか
 寝乱れて 隠れ宿
 九十九折り 浄蓮の滝

20110327伊豆の踊り子像s-.jpg  20110327浄蓮の滝s-.jpg


浄蓮の滝の前から、旧道は「踊り子歩道」の看板が建てられている。
道筋には島崎藤村や横光利一の文学碑もあり、横光利一は小説の「寝園」にちなむものというが、知らない。

踊り子歩道標識s-.jpg  島崎藤村文学碑s-.jpg  横光利一文学碑s-.jpg

街道は国道と交差して道の駅「天城越え」を過ぎると滑沢渓谷沿いに進む。
途中でハリスや吉田松陰が歩いた二本杉峠への道を分ける。そちらのほうも魅力的だが、最終バスに間に合わないので天城峠への道をとる。

20110327滑沢渓谷s-.jpg


大川端キャンプ場付近で国道に出る上り口が見つからずに迷い、一つ先の水生地下のバス停まで歩く羽目に。
着いたときはすでに最終バスは通り過ぎ、歩いたり走ったりと悪戦苦闘して何とか出発点の修善寺まで戻りつく。

伊豆半島の踊り子歩道、侮りがたし。
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2011年03月05日

下田街道(その1:三島〜修善寺)

東日本大震災といまだ全く終息の気配の見えない原発問題で、街道の記録も手付かずなままだったが、少し書く気力も戻り始めた。

何一つ解決しない原発問題だが、季節は巡る。

下田街道は東海道の三島宿の三嶋大社前から分けれて、下田まで68kmほどの街道で、富士を背に春先に歩くにはもってこいの街道だ。

三島は三島溶岩流の先端下から湧きでた富士山の被圧伏流水の湧水の町で、三島駅から三嶋大社への道は町の人々が協力して川をさらっている風物が見られた。
柿田川もそうだが、ここでも水に対する誇りが感じられる。

 富士の白雪ノーエ  富士の白雪ノーエ
  富士のサイサイ  白雪朝日でとける
 とけて流れてノーエ  とけて流れてノーエ
  とけてサイサイ  流れて三島にそそぐ

20110305三島湧水s-.jpg


伊豆一の宮の三嶋大社でまずは旅の安全祈願をし、珍しいたたり石を見る。この石は神社前の東海道に置かれていて、行きかう人の流れの整理をしていたと。
街中の下田街道は整備されており、歩行者に優しい道となっている。

20110305三嶋大社s-.jpg  20110305s- たたり石.jpg  20110305三島の下田街道s-.jpg


手無し地蔵の境内に唯念名号塔がある。何となく愛嬌のある書体だが下田街道では頻見し、唯念は生涯に一千を越す碑を建てたといわれている。

20110305唯念名号塔s-.jpg


大場川では振り返れば流麗な富士。

20110305富士s-.jpg


間宮の廣渡寺に侠客大場の久八の墓を詣でる。
久八は江川太郎左衛門が品川沖にお台場を造営したとき、東海一の親分として数千人の人夫を指揮して完成させた。今は臨海副都心の一部となっている台場も伊豆由来という訳だ。

原木駅付近で寄り道をして、「吾妻鏡」に出てくるという、頼朝が山木兼隆襲撃に際し通った道の牛鍬大路を見る。区画整理されて農道となっているがいかにもそれらしい道だ。

姫型道祖神を見つける。
これも唯念名号塔と同じで伊豆半島では数限りなく現れるが、なぜ姫型なのかは不明。

20110305大場久八墓s-.jpg  20110305牛鍬大路s-.jpg  20110305姫型道祖神s-.jpg


韮山では、街道を外れると江川邸、蛭が小島、反射炉などがあるが以前訪れたので今回は省略し先を急ぐ。

北条政子産湯の井戸、足利政知の伝堀越御所跡、北条時政の墓のある願成就院など韮山付近には見所が多い。親の時政と子の政子の生死の史跡が期せずして殆ど同じ場所にあるのは不思議。
政子の墓は鎌倉の寿福寺にあり、これは尼将軍として権勢を誇った政子のものとも思えない粗末なやぐらだが、ある意味産湯の井と対峙している。

20110305北条政子産湯の井s-.jpg  20110305北条時政墓s-.jpg


直ぐ傍の狩野川沿いには北条氏邸宅跡があるが、調査途上のようで荒れたまま放置されている。
「夏草や兵どもが夢の跡」の鎌倉幕府版だ。

20110305北条氏邸宅跡s-.jpg


田方郡は田方条里という条里制の痕跡が残っており、田京駅付近の六角堂跡では下田街道は不可思議に直角に折れ曲がり、現道と見事に45度で交差する。
これはこの条里そった道で、律令時代の痕跡を知るのも街道歩き。

20110305条里制の道s-.jpg


広瀬神社からは富士が美しい。

20110305広瀬神社からの富士s-.jpg


大仁駅を過ぎ、狩野川を渡ると大仁金山の看板が見える。この金山は昔は瓜生野金山で五街道を整備した大久保長安によって開かれ、金山奉行であり伊豆奉行でもあった長安のもう一つの顔。

立派な長屋門を過ぎ、暗殺された二代将軍源頼家縁の笠を被った横瀬愛童将軍地蔵を見て、狩野川を渡り返し、修善寺駅で初日を終えた。
鎌倉幕府に関係した史跡が多い一日だった。

20110305大仁金山s-.jpg  20110305長屋門s-.jpg  20110305横瀬愛童将軍地蔵s-.jpg
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2011年03月02日

川越街道(その2:大和田宿〜川越宿)

新座駅から歩き始めるとすぐに、新座市内では最古最大という鬼鹿毛の馬頭観音があり、鬼鹿毛という名馬が、主人小栗のために、亡霊となって走り続けたことを弔うためと言う解説がある。

鬼鹿毛と小栗といえば当然小栗判官だが、不思議なことにその説明はない。
さすがにここでは小栗判官と言わずに「昔、秩父の小栗という人、・・・」とちょっと遠慮した書き方になっている。伝承では小栗判官のモデルは常陸の国の在とされるので、秩父とはかなり違う。

この鬼鹿毛伝説はあちこちで同じような話があり、それを祀る寺も多いようだ。
小栗判官と照手姫の伝説も、東海道藤沢宿や中山道の青墓宿でも見受けられたことを思い出す。全国的な人気者だったわけだ。
ともあれ、三面六臂観音様は中々のものだ。

鬼にちなんだのか、隣に芭蕉の「花は賤乃眼にもみえけり鬼薊」の句碑がある。

20110222鬼鹿毛の馬頭観音s-.jpg  


大和田には鎌倉街道の枝道であり「奥州脇道」ともいわれた羽根倉道と言う道が川越街道と交わっている。
この道は、荒川を越え、武蔵一の宮、大宮の氷川神社に通じるとともに、一方は国分寺にあった国府に向かう往還道であったということだ。
少し見ると、いかにもそれらしい道で、川越街道で出会った三つ目の鎌倉街道。

英橋を渡ったところに煙り出しのある豪壮な農家がある。昔の庄屋だったのだろうか。

20110222大和田の鎌倉街道s-.jpg  20110222煙出し農家s-.jpg


跡見女子大学の手前左の小山に、「三国第一山」と書かれた大きな石碑がある。
富士塚といわれるが、合目表示もなく怪しんだが、調べると横を走る県道の改修時に山が削られとかで、多分移設されたのだろと納得。

20110222富士塚s-.jpg


竹間沢からは、立派なケヤキの植えられている中央分離帯が続く。川越街道の碑も重厚だ。
三芳町の説明板には川越街道の距離は、十一里三十四三町三十三間半と、えらく拘わった表示があり、この分離帯の右側が旧街道ということだった。
この辺は旧上福岡市、大井町が合併してふじみ野市となっているが、隣接して合併に反対した富士見市があり、同じような地名に対する行政の感度の低さを表すとともに、ややこしい。
三芳町も合併に反対して、入間郡三芳町と町制のまま存続している。
三芳町の地名は伊勢物語の「みよし野」から取られており、この地名が残存したことはうれしい事だ。

 みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる

広源寺では、山門でなくて本堂の前に仁王が据えられている。こういうスタイルはお目にかかったことがなく、立派だが、雨ざらしが気に掛かる。

藤久保交差点の先に、往時と思しき松並木が残る。

20110222川越街道碑s-.jpg  20110222広源寺s-.jpg  20110222松並木s-.jpg


大井宿の本陣跡は、家は建て替えられて標識だけが立っている。
大井の地名も大井戸から由来して井戸の跡が保存されているが、見逃した。
大井小学校敷地内に国の登録有形文化財の旧大井村役場は、入ることは出来なかった。

小公園に角の常夜燈がある。川越街道と大山道との分岐で、「大山 武蔵野地蔵 ところさわ 道」と彫られている。昔からの大山信仰の根強さが確認できる。

20110222大井宿本陣跡s-.jpg  20110222大井村役場s-.jpg  20110222角の常夜灯s-.jpg


国道との合流手前に神明神社があり、隣にかなり侘しい馬頭観世音堂がある。この堂にも大和田宿で見かけた鬼影毛伝説が残っている。

20110222馬頭観音堂s-.jpg


川越に入ると開明地蔵大菩薩があり、別称首切り地蔵。昔刑場が傍にあったのが由縁と。
地蔵信仰は日本全国どこにでもあるが、この街道はとりわけ地蔵が多いのが眼を引いた。必ず理由がある筈なのだが、不明。

20110222首切り地蔵s-.jpg


川越大橋手前の道が、気に掛かる名前の烏頭坂。
説明板に道興准行の「うとう坂越えて苦しき行末を やすかたと鳴く鳥の音もかな」の歌が記されているが、歌の意味も、烏頭坂の由来も書かれていない。
烏頭は善知鳥とも書いて、親子の情愛が深い鳥で親鳥が「うとう」と鳴くと、雛鳥が「やすかた」と応えるという。この知識がないと歌の意味もわからない。
これに関する能が世阿弥の「善知鳥」で、さらに藤原定家の「陸奥の外が浜なる呼子鳥 鳴なる声はうとうやすかた」が有名。道興准行の歌はこれを元にしている。
青森市発祥の地は安方といわれ、多くの善知鳥の伝説が残っている。

さて、なぜここが烏頭坂かと言うと、洞穴のことをウトといい、昔はこの付近に多くの横穴住居があったのではないか、だからウトウ坂と言う説を見かけた。
また、似たような説で「うとう」は「空洞」で空洞状地形、凹状地形を示して、道においては切通しの形状を呈する凹道、峡道を示すと言う推測もあり、現地を歩くとこの説はかなりそぐわしい感がする。

地名一つでも、いかようにも想像は膨らむ事ができる。

市街地に入る陸橋の上からは、歩いてきた関東平野がくっきりと見える。

20110222烏頭坂s-.jpg  20110222関東平野s-.jpg


きっとあるに違いないと思っていて、やはり見つけたさつまいも地蔵尊。まだ真新しいが妙善寺にある。
見事な枡形を過ぎて、レンガ造りの川越キリスト教会は質素だが、味わい深く国の登録有形文化財。
三位一体のシンボルの、三つ葉のクローバーがあちこちに隠されている。

20110222川越さつまいも地蔵尊s-.jpg  20110222川越キリスト教会s-.jpg  20110222川越キリスト教会内観s-.jpg


太田道灌の像のある、大手門跡で歩き終える。
迂闊な事に、太田道灌が川越城を築いたという事を初めて知る。

20110222川越大手門跡s-.jpg


歩き終えた後の街中は、見慣れた景色も心なしか春の気配を漂わせていた。

 おもしろや ことしの春も 旅の空 (芭蕉)

20110222川越s-.jpg  20110222時の鐘s-.jpg


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2011年02月09日

川越街道(その1:板橋宿〜大和田宿)

川越街道は日本橋から川越までの13里と言われているが、これは「栗(九里)より(四里)うまい十三里」の、川越名産サツマイモの宣伝から来ているとも言われ、実際には十一里程度らしい。
いずれにせよ、二日かけてのんびり歩くには手ごろな街道だ。

中山道でも歩いた板橋駅前で、近藤勇の墓を再見して出発する。
板橋宿は平尾宿、中宿、上宿で構成され、商店街も平尾宿のペナントが掛かっている。これ以降、板橋区内の商店街はどこもペナントがあり、これは板橋区の方針なのだろうか。

中山道との分岐の平尾の追分は風情はなく、首都高の下の四ツ又通りは少し前は四ツ又ワインロードと言い、Zを表現したペナントだったようだ。
今はアルファベットも180度変えて「Aロード四ツ又」とイメージチェンジした。

20110205近藤勇墓s-.jpg  20110205平尾宿s-.jpg  20110205平尾の追分s-.jpg  20110205四ツ又商店街s-.jpg


山手通りを越えると、遊座大山と名付けている大山商店街に入る。
道筋は賑やかさを増し、東上線を渡ると商店街はアーケードのあるハッピーロード大山になる。どちらも元気一杯で、今時の日本では珍しい地元に根付いた昔ながらの良さを持つ活気のある商店街だ。

大山の名称の謂れは、この板橋で大山詣でが盛んでそれが地名になったと言うことで、どこにでもありそうな平凡な地名に思えるが、実は奥が深い。

20110205大山商店街s-.jpg  20110205ハーッピーロード大山s-.jpg


商店街の外れにある、大山福地蔵尊を拝んで、しばらく行くと鎌倉街道中道が交差する。
変哲のない道に見えるが、一度歩いているので懐かしい。

20110205福地蔵s-.jpg  20110205鎌倉街道交差点s-.jpg


下頭橋通りに入ると上板橋宿になる。
東上線の中板橋駅付近が上板橋宿で、東上線の上板橋駅はまだ二駅先にあるので街道の宿場名と整合しておらず混乱する。

宿場の趣はないが、昔説教強盗に入られたと言う三春屋が古さを保っており、その向かいの鳶の会社の前に「日本橋二里二十五町三十三間」の私設標識がある。好事家の方のようだ。
消防団の資材置場も粋だ。

20110205三春屋s-.jpg  20110205道標s-.jpg  20110205消防団倉庫s-.jpg


色々な名前の由来の書かれている下頭橋で石神井川井を越えて少し歩くと、今度は上板南口商店街。
工事中の環八に、大山街道の道標が移設されている。

20110205上板南口銀座商店街s-.jpg  20110205大山道標s-.jpg 


街道は下練馬宿に入り、北一商店街、きたまち商店街、ニュー北町商店街とあわただしく名前を変える。

20110205北一商店街s-.jpg  20110205北町商店街s-.jpg


きたまち商店街のシンボルは馬のようで、なぜ馬かと言うと、これは商店街にある浅間神社の説明に
 ・・・下練馬宿は「川越道中ノ馬次ニシテ、・・・」と書かれているような事からだろう。
ボラードも鋳鉄性の馬だった。
浅間神社には富士塚があり、少し先の北町観音堂には良いお顔の聖観音、珍しい石製の仁王などが祀られている。

20110205馬のボラードs-.jpg  20110205浅間神社富士塚s-.jpg  20110205聖観音s-.jpg


大山から続いた長い長い商店街を歩き終えて、国道に出て地下鉄赤塚駅横ではこれも以前歩いた鎌倉街道中道のバリエーションルートの騎馬像を再見。この日二つ目の鎌倉街道だ。

20110205鎌倉街道碑s-.jpg


成増駅を過ぎて新田坂を下ると、白子川には半生を白子で過ごしたという清水かつら作詞の「くつが鳴る」の歌詞が刻まれている。この川を渡ると白子宿。

20110205白子橋s-.jpg


白子宿で鎮守の熊野神社に立ち寄る。
ここはまことに東京とは思えない異次元のパワースポットのような不思議な場所。
境内には富士塚があり、隣接した清龍寺不動院は伊賀忍者の監督を務めたとも言われ、乃木大将が日露戦争のときに参籠修行したという不動の瀧がある。当日も水垢離の修行をしている人が見受けられた。
更に開運利益洞窟めぐりというものもある。洞窟の中にはお稲荷さんが鎮座していた。

20110205熊野神社s-.jpg  20110205熊野神社富士塚s-.jpg  20110205清龍寺洞窟s-.jpg  20110205洞窟内稲荷s-.jpg


白子中宿本陣冨澤家は郵便局に変わっているが、大坂の途中には立派な旧家がありこれも冨澤家。
くらやみ坂を下ると、今度は代官だった旧家の柳下家。隣には場違いなデザインのアパートが建てられているがこれにはDaikanとプレートがつけられていた。

20110205白子宿旧家s-.jpg  20110205柳下家s-.jpg


白子の地名の由来は、新羅が変化したと言われる
奈良時代、武蔵国には高麗郡、新羅郡が置かれ、新羅は志楽・志楽木・志羅木、志木、新倉などとも表記し平安時代の頃には新座郡と記された歴史を持っている。
この辺はこれらの地名が様々な形で残っている。

膝折宿に入ると一乗院には、案内に今度は高麗由来の建立が記されている。

・・・716年駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野ノ7国ノ高麗人、1799人ガ武蔵国(現在の入間付近)ニ移住シ、高麗郡ガ置カレタ。ソノ後戦乱アリテ高麗ノ城陥レリ時、主将某ハ敵ノ為ニ討レ畢ヌ。家臣5人遁レテ落人トナリ此ノ膝折ノ地ヘ来レリ、其頃ハ只原野ナリ。彼ノ5人ノ者力ヲ合ワセテ遂ニ家ヲ作リ居住ノ地トセリ、高麗氏ヲ家号トセル者アリ、ソノ時乱世ノ平和ニ立チ還エル事ヲコイ希イ、且世ノ人々ノ後生ト縁者ノ菩提ヲ願イテ守リ本尊タル11面観世音菩薩ヲ勧請安置シ一宇ヲ建立ス・・・

膝折宿には現在も高麗の姓を名乗る人が多く、脇本陣跡の村田屋も高麗姓だった。
隣接した二つの宿が、一方は新羅由来、一方は高麗由来と言うことになるのがまことに不思議で、調べると疑問が次々沸き起こりそうだ。

20110205一乗院s-.jpg  20110205村田屋s-.jpg


宿場を抜けると野火止に入り「横町の六地蔵」を過ぎると、紅葉を見に来た事もある名刹平林寺の寺号石がある。

20110205六地蔵s-.jpg  20110205平林寺寺号石s-.jpg


比較的短い距離だったが、元気な商店街、新羅と高麗の渡来人の今に繋がる歴史の深さなど噛み締めながら、これも新羅由来の新座駅で打ち止めた。
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2011年01月04日

佐倉・成田街道(その2:前原〜成田宿)

年が明けて、成田山新勝寺へ初詣。

前原駅から進むと街道は薬園台駅を通り過ぎ、住居表示は薬園台と薬円台が混在する。
そもそもは江戸時代の薬草園があったことから、薬園台だが、住居表示実施の時に地名の由来を抹殺した薬円台に簡略化され、それに反対する人々が住むところが住居表示未実施地区の薬園台として残っている。
地名ひとつでも、色々ある。

船橋市立郷土資料館の敷地には、明治天皇駐蹕之処の碑がある。
次は自衛隊の習志野演習場の延々と続くフェンス。
昔は陸軍演習場で、明治天皇駐蹕の元、演習が行われ、篠原国幹少将による指揮に感銘した天皇の発言(「篠原を見習え」→習篠原→習志野原)が元となり、習志野と名づけられたと言われるが、篠から志野への転移はかなり怪しげだ。

習志野の名前が有名になったのは、日露戦争での司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも描かれた秋山好古の率いる騎兵隊の活躍だが、その史跡はあまり残っておらず、駐屯地内に秋山の揮毫した軍馬慰霊碑がある程度らしい。

20110104明治天皇碑s-.jpg  20110104習志野自衛隊s-.jpg  20110104習志野自衛隊基地s-.jpg


新木戸交差点のガソリンスタンドの角に、その名もおどろおどろしい血流地蔵の道標がある。
一見すると、名前を除いてはどうという事のない道標だが、以前は埋もれていたものを郷土史家の方たちが発掘して日の目を見せたもの。このような活動に敬意を表したい。

20110104血流地蔵道標s-.jpg


この辺は二十六夜塔が多い。比較的目新しいものも多く、いまだに風習が残っていることを窺わせる。
牛魂碑も新しく、街道沿いに昭和50年代まで牛の放牧場があり、その供養と。

20110104二十六夜塔5s-.jpg


大和田宿の長妙寺には八百屋お七の墓がある。お七は今の八千代市で生まれ、母親が遺髪をひそかに運び出して長妙寺の預けていたとか。
中山道沿いの白山の圓乗寺にも墓があり、御成街道の本郷・吉祥寺にも比翼塚がある。
歴史上の有名人なのであちこちに墓があるのは良いのか、悪いのか。

2011010お七の墓s-.jpg


ユーカリが丘の手前には、昔林屋という茶屋があり近くの加賀清水の水で茶を入れて茶屋を商った。
その場所に七代目の市川団十郎が寄贈した常夜灯、道標がある。加賀清水は親水公園となっていた。
初代市川団十郎が成田山に子宝を祈願し無事成就、それ以来団十郎は成田屋の屋号を称したのは人の知るところ。
七代目団十郎は八代目の襲名の後、海老蔵を名乗ったが、天保改革の奢侈禁令に触れ,江戸十里四方追放となった。
昨年マスコミを賑わし今は蟄居している海老蔵は11代目だが、この遺伝子を受け継いでいるようだ。

20110104林屋常夜灯s-.jpg  20110104加賀清水s-.jpg


ユーカリが丘は名前と異なり、中心部は低湿地となっている。
ここはデベロッパーの山万が一手に開発運営している不思議な町で、山万ユーカリが丘線という日本で唯一の純民間による新交通システムも運行されている。
自治体の佐倉市も手出しが出来ない、ひとつの王国だ。

20110104ユーカリが丘s-.jpg  20110104モノレールs-.jpg


手繰橋を渡ると道は、国道から逸れて臼井台へ上って行く。これも何故わざわざ上るのかと不思議な経路となっている。
印旛沼の洪水が再々起こり、この付近が水没することが多かったのでそれを避けるためだろうか。

妙覚寺で雷電為衛門の碑を見る。
雷電は臼井宿の甘酒茶屋の娘おはんを見初めて結婚し、その縁で碑が建てられている。
雷電は善光寺街道の牧家に生まれ、そこには佐久間象山による顕彰碑が建てられている。雷電の力にあやかろうと碑が欠き取られていたが、こちらのほうはまだ無事のようだ。

甘酒茶屋の跡は自動車会社となっていた。

20110104雷電碑s-.jpg  20110104甘酒茶屋跡s-.jpg


京成の踏切を越えたところに道標が集められていて、さくら道と刻まれたものと成田道と刻まれたものがある。
説明板には、佐倉道が古くその後成田街道、成田道と変遷したと記されていた。

20110104道しるべs-.jpg


鹿島川を渡ると、右手が佐倉城址で今は国立民族博物館となっている。2007年8月16日に日本の最高気温が更新されたとき、この博物館を訪れたことを思い出す。
佐倉道はここで終わり、これからは完全に成田街道となる。

海隣寺坂の頂上に見たことのある黒川紀章の佐倉市庁舎があり、見学。(詳細はこちら

20110104佐倉市庁舎s-.jpg


佐倉の総鎮守の麻賀多神社はまだ初詣の人が多い。珍しい名前だが「麻の国で多氏が賀す神の社」ということらしい。
佐倉宿の街道沿いには高札場も復元され、比較的古い建物も残存し、宿場町らしい雰囲気を味わえる。

20110104麻賀多神社s-.jpg  20110104高札場s-.jpg  20110104三谷家s-.jpg


蘭学通りの終わりに佐倉順天堂記念館があるが、休館日で外から眺めるだけ。順天堂は蘭医佐藤泰然が開いた蘭医塾が始まり。
麻酔を危険として用いずに、無麻酔で手術したそうで、背筋が寒くなる。

20110104順天堂記念館s-.jpg


酒々井戸宿に入ると、名前の由来の伝説酒々井の井碑などを見て先を急ぐ。

荷車を後押しする押し屋が活躍したという大坂の竹薮を過ぎると、伊篠の松並木となる。
松喰虫の影響でかなり枯死しているが、この街道で初めての松並木らしい松並木。
ここには成田山参拝の碑や供養塔も林立する。

20110104大坂s-.jpg  20110104大坂s-.jpg  20110104供養碑s-.jpg


とっぷり日も暮れた中を、ようやく成田山のにぎやかな門前町へ。
成田山新勝寺はライトアップされていて、善男善女がまだまだ大勢参拝していた。

20110104成田山門前s-.jpg  20110104成田山山門s-.jpg  20110104成田山本堂s-.jpg

成田街道は本来は、少し先の寺台宿が終着だが新年に免じて許してもらい、交通安全のご利益著しいこの寺に、これからの道筋の安全その他諸々を精一杯祈願して旅を終えた事は言うまでもない。
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2010年12月29日

佐倉・成田街道(その1:新宿〜前原)

成田街道は、佐倉・成田街道とも言われ、水戸街道の亀有宿先の新宿から分岐して成田まで54kmほどの手ごろな街道だ。

成田山新勝寺への初詣を兼ねて、年末年始に歩いてみた。

亀有宿から一度歩いた水戸街道を行き、新宿の出口で細い道に入る。
この辺は、道路の軸線が二つあって、直交しておらず分かり難い。早速道を間違えて柴又帝釈天の参道にご挨拶。

江戸川区にはいると「さくらみち」の碑が立てられている。佐倉道だが、桜に掛けたのか桜の木が多い。

20101229帝釈天s- (1).jpg  20101229さくら道碑s-.jpg


道は江戸川に突き当きあたり、江戸川沿いに辿ると上小岩遺跡通りが現れる。
この道は一度歩いた鎌倉街道下道で、東山道の名残とも言われている。
何の変哲もなくみえる道だが、由緒正しい旧道で、懐かしい。

20101229江戸川s-.jpg  20101229上小岩遺跡通りs-.jpg


京成江戸川駅を越えると昔の御番所町になり、一角に苔むした道標がある。
正面に「左リ 江戸本所ミち 右 せんじゅ 岩附志おんじ道」、岩槻の慈恩寺は御成街道のそばにあり、ここから道しるべがあったほど信仰を集めていたということだ。
傍の宝林寺には、小岩市川の渡しにあった常夜灯が移築保存されている。

江戸川を渡ると、堤防上に市川関所跡の碑が建っている。

20101229慈恩寺道道標s-.jpg  20101229常夜灯s-.jpg  20101229市川関所跡s-.jpg


市川は、繁華な商業都市だが、真間の手児奈を忘れる訳にはいかない。
霊堂や所縁の井戸があるが、街道から少し離れていて歌だけ思い出す。

 吾も見つ人にも告げむ葛飾の 真間の手児名が奥津城処 (山部赤人)

御柱のある諏訪神社を見て、八幡宿に入り葛飾八幡宮。
新年の準備に忙しそうだが、ここには国の天然記念物の見事な千本公孫樹がある。

20101229御柱s-.jpg  20101229葛飾八幡宮s-.jpg  20101229千本公孫樹s-.jpg


葛飾八幡宮の向かいには、水戸黄門も藪に入って神の怒りに触れ失神したという、不知八幡森。

20101229不知八幡森s-.jpg


木下街道の入り口に、初めて旧家らしい旧家の中村邸が現れる。

20101229中村邸s-.jpg


迂闊にも知らなかった、日蓮宗の霊跡寺院大本山の中山法華経寺に立ち寄る。
中山にあるから、中山寺でなくて、中山寺があるので地名が中山。
境内の祖師堂、五重塔、法華堂は見事な造りで、奥まったところに日蓮の自筆の聖典を保存している聖教殿がある。何とこれは伊東忠太の設計で思いもよらぬ所でお目に掛かった。
五重塔は本阿弥光室が両親の菩提を弔うために建立。光室は光悦の甥なので光悦が扁額を書いている理由も納得。

20101229法華経寺祖師堂s-.jpg  20101229法華経寺五重塔s-.jpg  20101229法華堂s-.jpg  20101229聖教殿s-.jpg


光悦の筆になる扁額は祖師堂、法華堂、山門にある。現在のものは復刻しているようだが、見事な筆捌きを見ることが出来る。

20101229山門扁額s-.jpg  20101229法華堂扁額s-.jpg


葛飾湧水群の「二子藤の池」などを見て船橋宿に入ると、古い商家が残っている。
船橋というと、歓楽街のイメージだが昔は成田詣での行き帰りの泊り客のための遊郭があったので、その伝統とか。
船橋の地名の由来は、古代東征の英雄が、海老川を渡ることが出来なかったとき、地元民が小舟を並べて橋の代わりとし無事向こう岸に送り届けたことからと。
この橋は、欄干に船のレプリカが設けられている。

この付近には、他にも海神とか鬼越とか由来が面白そうな地名も多い。

20101229船橋旧家s-.jpg  20101229船橋s-.jpg


船橋宿の出口に船橋大明神があり、ここには木造灯台が残っている。昔はすぐ傍が海で船橋湊の象徴だったわけだが、今は海は遥か彼方に遠のいた。

20101229船橋大明神s-.jpg  20101229船橋大明神灯台s-.jpg


しばらく歩いて、成田街道入り口のT字路には立派な輪宝を載せた道標がある。
今日も思い掛けなく見所が多くて、この辺で短い冬の日もとっぷり暮れ、前原駅で歩き止めた。

20101229道標s-.jpg
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2010年11月28日

鎌倉街道中道(その6:上北沢〜赤塚城)

丁度二年前も歩いていた、鎌倉街道中道の都内のバリエーションルート。
今回は、上北沢付近から、大宮八幡を抜けて練馬城へ北上、更に赤塚城への経路を歩いて見た。

上北沢付近の甲州街道に、鎌倉街道入口の交通標識がある。
道筋が鎌倉街道と認識されているのは、少し嬉しい。

直ぐに真新しい庚申堂があり、中の庚申塔、馬頭観音が街道の面影を伝えている。

20101127鎌倉街道交通案内s-.jpg  20101127庚申堂s-.jpg


神田川の横にある塚山公園には縄文時代の復元住居があり、川に掛かる橋は鎌倉橋の名称と鎌倉街道の碑も設置されている。

20101127塚山公園復元住居s-.jpg  20101127鎌倉街道碑s-.jpg  20101127鎌倉橋s-.jpg


西永福駅を越えると人見街道の終着点だった大宮八幡で、最後の七五三に公孫樹の黄葉が彩りを添える。

松ノ木遺跡では、こんどは時代が新しい古墳時代の復元住居。
この辺は遺跡のメッカ。

20101127大宮八幡s-.jpg  20101127松ノ木遺跡復元住居s-.jpg


阿佐ヶ谷の、スズラン通りとパールセンターというアーケード街が鎌倉街道。
今はアーケードを撤去している商店街が多いが、1999年に竣工したここはまだ元気なようだった。

20101127スズラン通りs-.jpg  20101127パールセンターs-.jpg


鷺宮の地名の由来となった、鷺宮八幡。この辺は白鷺と言うような美称の地名もあって名前はゆかしい。
「日本で最初の交通の地蔵尊」と碑に刻まれている地蔵尊が妙正寺川の横にあり、昭和12年建立。
この頃から交通事故を悼む人が増えたのか。

20101127鷺宮八幡s-.jpg  20101127交通安全地蔵s-.jpg


いかにも古道らしい雰囲気の残る道を辿ると、いきなり豊島園の入り口に出る。
豊島園は昔の練馬城だが、勿論遺跡は殆ど残存しない。

20101127練馬道s-.jpg  20101127豊島園s-.jpg


街道から少し外れて白山神社の大欅を見に行く。
都内最大の欅のといわれ国の天然記念物だが、指定された1940年から時が過ぎ、樹勢は無惨に衰えて痛々しい。
この程度のものは、地方に行くと幾らでも見られるので、どういう理由で国の天然記念物なのかもかなり疑問。
それでも、樹齢800年と言われる樹の存在感は残存する。

20101127白山神社欅s-.jpg


光が丘の団地で道を見失うが、地下鉄赤塚駅の横に鎌倉古道の碑が設置されている。
何の説明も無いが、練馬の教育委員会が設置したものか。同じ像が赤塚中央通りにも見受けられ、騎乗の武者は誰かが気に掛かる。

脚を伸ばして、日本で三番目の大きさを誇るという東京大仏で有名な乗蓮寺に行く。残念ながら拝観は4時までで、大仏を遠望するだけ。
千葉自胤が築城した赤塚城も遺構は見受けられないが、夕暮れの中子供達が楽しげに遊ぶ場所に生まれ変わり、豊島園には負けてしまうが城跡も本望だろう。

20101127鎌倉古道碑s-.jpg  20101127東京大仏s-.jpg  20101127赤塚城址s-.jpg


更に辿れば、荒川の早瀬の渡しに行き着くが、日もとっぷりと暮れたので初冬の街道を終えた。
都内の鎌倉街道も奥が深い。
posted by 遊戯人 at 21:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 鎌倉街道中道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月29日

岩城相馬街道(その12:新地宿〜岩沼宿)

明けやらぬ太陽のもと、新地駅へ戻り最後の行程へ。

名前の謂れが気にかかる十三奉行溜池で県境を越え、宮城県へ入る。
この辺は溜池が多く、これも二宮尊徳士法の影響か。
上平集落では、建売でもないのに全く同じような外観を持った家が軒を連ねている。分家だろうか。

20101024日の出s-.jpg  20101024十三奉行溜池s-.jpg  20101024上平集落家s-.jpg


坂元宿は各家が全て火の用心の旗を出してるのが珍しい。他の町でも見受けたのでこの地方の伝統かとも思われる。

20101024坂元宿s-.jpg


山下宿の当護稲荷神社の鳥居の傍に、江戸浜街道についての説明があり、宮城県ではもっぱら江戸浜街道と呼ばれている。

この神社には沢山の石碑が集められており、珍しい蛇の姿が彫られていた。蛇神か。
この町も古いものはなく、唯一旧検断屋敷跡が残っている。

20101024江戸浜街道説明碑s-.jpg  20101024当護稲荷神社碑s-.jpg  20101024山下宿検断s-.jpg


間の宿といわれる横山は、また例の火の用心。
町の外れに一里塚跡があるが、ゴミ置場となっていて何の説明もなく打ち捨てられている。

20101024横山宿s-.jpg  20101024横山一里塚s-.jpg


亘理町立郷土資料館が国道越しに見える。
お門違いの城郭風だが、亘理には臥牛城といわれた城があったので、その雰囲気だけでもという事か。

亘理宿入り口の称名寺で、国の天然記念物のシイを見る。
相馬地方以北、数々の巨樹を見たがその中では存在感が圧倒的に一番。姿かたちが少し山代の神代桜にも似ているようだ。

20101024亘理郷土資料館s-.jpg  20101024称名寺シイs-.jpg


亘理宿は珍しく、町名などの説明碑が立っている。古い建物も散見され、漁港を控えているせいか、この地方では珍しく町に活気がある。
たまたまこの日は「商人祭り」が開かれていて、若い人も多く、寂れた街ばかりを見る事が当たり前だった目が驚いた。

20101024亘理宿建物s-.jpg  20101024山田屋s-.jpg  20101024商人祭s-.jpg


逢隈を過ぎると、阿武隈川越しに奥州街道を歩いたときも目にしたダイナミックな日本製紙の工場が見えてくる。
橋の手前に333kmと分り易い道路標識がある。

橋を渡って、終着点の岩沼宿に入るが、排水機場の傍にある藤場の渡跡と言われる場所に立ち寄る。
何の標識も無いが、確かに人工物の石積の跡が残っている。
江戸時代のものが水流にも押し流されずに、この姿で残っているとも俄かに信じがたいが、これも街道の夢として記憶に留める事にした。

20101024日本製紙s-.jpg  20101024排水機場s-.jpg  20101024藤場の渡しs-.jpg


岩城相馬街道は竹駒神社寺手前で、鍵の手に曲がってくる奥州街道と合流し、ここが今回の旅の終着点という事になる。
ここも何の標識もないのは真に残念だ。

交差点の角にある店の方に伺うと、以前は標識が立っていたが、8年前に道が拡幅された時に撤去されてしまったとの事。

20101024追分s-.jpg


日本三大稲荷の一つの竹駒神社を再訪し、奥州街道を歩いた時は修復中だった唐門を確認。
勿論、旅の無事をお礼参り。

直ぐ傍に、名所の武隈の松があり、ここも再訪。
芭蕉は「桜より松は二木を三月越し」と詠んだが、三月どころでなく十ヶ月も掛かった街道だった。

20101024竹駒神社唐門s-.jpg  20101024竹駒神社s-.jpg  20101024二木の松s-.jpg
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