2010年10月28日

岩城相馬街道(その11:中村宿〜新地宿)

中村宿では、銀行の前にある道路元標を確認してから歩き始める。
説明碑が併せて設置されていて、日本橋まで73里17町、福島県庁まで15里11町。
道路元標に親切に説明が行われている例は比較的少なく、相馬市の余裕が感じられる。

この銀行もそうだが、この通りは切妻に建物が統一されていて、町に景観規制があるようだ。
これも町の余裕。

20101023相馬宿道路元標s-.jpg


川沿いの、のんびりした道を歩くと黒木宿。
入り口に石仏群があるが、町自体には何も残っておらず街並みも極平凡だ。

20101023黒木宿への道s-.jpg  20101023黒木宿石仏s-.jpg


長い付き合いだった相馬藩と別れ、まだ福島県だがいよいよ仙台藩の領域に入る。
このあたりは昔は相馬藩領、安土桃山時代以降は仙台藩、そして明治の戊辰戦争で仙台藩は相馬藩に破れ、今はそのまま福島県に復した。
街道は藩境のある国道の下を抜けてゆく。

20101023藩境s-.jpg


中村宿から駒ヶ嶺宿へは、なぜか黒木宿を経由してぐるりと時計回りに大回りする。
特段避けるべき山川がある訳でもなく、どのような理由か不明のまま。
こういう大曲は、蛇行切断地形の中山道大桑地区とか奥州街道の船迫宿でも見受けられた。

駒ヶ嶺宿も見るべきものはない。
駒ヶ嶺城跡があるが、これはパスして先を急ぐ。

20101023駒ヶ嶺宿s-.jpg


新地宿では、旧家の黒澤家の庭にある歌碑道標を見学。
東西の二つの碑があり、西は
 右なかむら 左津るし 志ら菊や松し満道を・・・と刻まれている。
東は 
 東都八十里 仙城十三里 
  陸奥の束稲山佐久良ばな吉野之外に可ゝ留べしとハ 西上人
  木の茂とに汁も鱠も桜可な 翁

と西行と芭蕉の歌が彫られている。どちらも桜がらみで、東の碑には慶応三年三月と刻まれているが、何故この歌かも語る人はいない。
しかし、どこにでもある道標と違って、歌が刻まれているだけで街道歩きの物好きが訪れるので、この道標も本望だろう。
たまたま庭におられた旧家のご夫妻が、親切に碑がここにある経緯などを説明してくれて感謝。

話が尽きないが、秋の陽はつるべ落とし。
予定の坂本宿は諦めて新地宿を足早に歩き過ぎ、新地駅で歩き終える。

20101023西歌道標s-.jpg  20101023東歌道標s-.jpg  20101023新地宿s-.jpg


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2010年10月22日

岩城相馬街道(その10:小高宿〜中村宿)

この日は小高宿から所謂相馬の中村宿まで。

街角に蔵造りの旧家を見て、相馬家の居城だった相馬三妙見の一つの小高神社に脚を運ぶ。
この城は紅梅山浮舟城と言う、雅な名前をも持っている。
相馬氏は鎌倉時代から明治維新まで700年以上の長きに亘ってこの地を支配し、世界でも珍しい長期統治者という事を知る。

相馬野馬追の最後を飾り、多くの馬の中から神の思し召しにかなう馬を捕らえて奉納するという神事の野馬懸はこの神社の敷地で行われるという。
馬が駆ける様が目に浮かぶ。

20101012小高宿旧家s-.jpg  20101012小高神社s-.jpg


次も街道から少し離れて、相馬三妙見の一つの太田神社に向かう。
杉の巨木の参道が心を鎮め、長い階段の上にある神社は、680年の由緒を誇り、ここも野馬追いの出陣式が行われる。
鈴の緒が、どういう謂れか真に凝った造りになっていて眼を引いた。

20101012太田神社s-.jpg  20101012鈴の緒s-.jpg


原町宿に入ると広大な野馬追祭場があるが、何とこの場所は相馬三妙見の小高神社、太田神社、中村神社の飛地境内と案内板が立っている。
確かに、馬場の入り口には結界としての柵が設けられている。

街中には昔の高札場跡に、復元した三階蔵が建てられている。特に相馬藩に特徴的なものでもなく、わざわざ「上方風」と謳っておりやや意味不明。

20101012相馬馬追祭場s-.jpg  20101012三階蔵s-.jpg


道端の稲はすっかり刈り取られているが、短い秋の陽の中で二度目の穂をつけようかという緑が、いかにもけなげに且つ美しく見える。
山の中の五本松茶屋付近に巨大なクレーター状の土地があり、東北電力の廃棄物捨て場のようだ。
人の眼に触れにくい所に、忌避される施設がいつの間にか作られる。

塩崎一里塚があるが、南相馬市の扱いは冷淡で、消えかかった文字の標識杭があるだけで、それも殆ど何も読み取れない。

20101012稲s-.jpg  20101012廃棄場s-.jpg  20101012塩崎一里塚s-.jpg


日吉神社の樹齢800年の杉を見て、坂を下り鹿島宿に入る。
鹿島宿では今度は鹿島神社の樹齢1000年の大欅。何かと巨樹が多い街道だ。
次は、またしても打ち捨てられた横手一里塚。

20101012日吉神社杉s-.jpg  20101012鹿島神社欅s-.jpg  20101012横手一里塚s-.jpg


相馬藩は二宮尊徳の二宮仕法に取り組み、「二宮御士法を伝える土樋」が今も健在だ。
これも珍しい名前の鬼越迫では、旧道の幅そのままの松並木が部分的に残存している。

20101012二宮土樋s-.jpg  20101012鬼越迫松並木s-.jpg


日下石川を渡って、しばらく行くと高根沢地区でこの街道随一と思われる立派な松並木が続き、足の疲れも癒される。
宇多川を渡ると、相馬氏の居城中村城のあった中村宿。
町はこれも電力会社関係か、かなり豊かに整備されている。

20101012松並木s-.jpg  20101012中村宿s-.jpg


今は相馬神社が建っている中村城跡と、相馬三妙見の最後の一つ、中村神社を見学。
中村神社は相馬三妙見の中で一番勢いがあり、野馬追いの元締めらしく多くの馬が飼われており、境内に馬の像が溢れている。
階段の手すりも馬ずくめだが、これもご愛嬌。

20101012相馬神社s-.jpg  20101012中村神社s-.jpg  20101012中村神社手すりs-.jpg


もっぱら、巨樹と野馬追いと相馬三妙見が主題になったこの日の旅だった。
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2010年10月11日

岩城相馬街道(その9:大野〜小高宿)

大野駅から街道に戻り、ほどなく五郎四郎の一里塚。
不思議な名前だが、五郎から生まれた四郎が住んでいた土地だろう。

前田に入り、浜通りで尤も大きい杉と自称している稲荷神社の前田の大杉を見物。
目通り幹周り7.7m、高さ22mと。然しこの後これより大きな杉を沢山見かけたので、看板にかなり偽りあり。

20101010五郎四郎一里塚ss-.jpg  20101010前田の大杉s-.jpg


新山宿に入ると、モトケンダンという名前の雑貨屋がある。勿論モトケンダンは「元検断」で、とにかく屋号として残っているのは嬉しいところ。
合宿の長塚宿に入り双葉駅前に鄙にも稀な、美しいプロポーションのヴォーリス風の建物が眼を引く。旧三宮堂田中医院で昭和4年建築と。

20101010モトケンダンs-.jpg  20101010旧三宮堂田中医院s-.jpg  


鴻草集落に江戸時代の豪商大黒屋の屋敷がある、何故このような土地にという疑問が残る。
街道を少し外れて薬師堂の磨崖仏を見る。鎌倉時代のものとされているが、かなり明瞭な輪郭を残しており、お顔も微笑んでいるように見える。

20101010大黒屋-.jpg  201010鴻草磨崖仏s-.jpg


浪江宿手間で西行も訪れた高瀬の清水に立ち寄る。判りにくい場所にあり、入り口には何の標識もなく、小さな屋根が掛かっている。

 陸奥の高瀬の清水 来て見れば あほいのくきの下にこそあれ(西行)

その風情は感じられなかった。

浪江宿は度重なる火事に懲りて高野宿から水に因んだ浪江宿に改称したが、その甲斐なく安政にまた大火にあって全焼。
ためにこの宿は二つの街道筋が残っているが、見るべきものは殆どない。

20101010高瀬の清水s-.jpg


浪江宿を過ぎると、西陽にコスモスが美しく、程なく出口一里塚跡。

20101010コスモスs-.jpg  20101010出口一里塚s-.jpg


陽も落ちてきて先を急ぎ、大悲山の石仏群に着いた時はほぼ闇の中。
ここには薬師堂石仏、観音堂石仏、阿弥陀堂石仏がある。

阿弥陀堂の石仏は剥落してよく分らない。肝心の薬師堂石仏は大杉に眼を奪われて見逃した。
大悲山の大杉は目通り幹周り8.6m、高さ45mと解説されていたので、前田の大杉の比ではない。

20101010阿弥陀堂s-.jpg  20101010阿弥陀堂石仏s-.jpg  20101010大悲山大杉s-.jpg  


観音堂石仏はかなり巨大で保護のためか鞘堂が掛けられている。しかし、闇の中で十一面観音坐像とされる姿は定かではない。

20101010観音堂.JPG  20101010観音堂石仏s-.jpg


目にはさやかに見えねども、仏様に様々祈願をして闇の中を小高宿に辿りつく。
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2010年10月02日

人見街道

人見街道は東京都府中市と杉並区大宮の大宮八幡神社を結ぶ街道で、甲州街道の裏街道にもなっている。
思い立ってぶらりと歩くには、手ごろな街道だ。

東府中駅からジェット戦闘機が展示されている航空自衛隊府中基地の横を抜け、新小金井街道との交差点が、街道の起点。

歩き始める前に、そばの浅間山に足を伸ばす。
この付近は南北朝時代の足利尊氏と新田氏の古戦場で、浅間山には浅間神社と人見街道の名称の謂れともされる戦国時代の武将、人見四郎の墓跡がある。

20101002浅間神社s-.jpg  20101002府中戦闘機s-.jpg  20101002人見四郎墓s-.jpg


街道沿いは大きな家屋敷が連続する。長い参道を辿って、人見稲荷神社へ。
勿論人見氏の氏神で、大宮の氷川神社の御旅所で、他にも色々な謂れがあるとか。

20101002街道沿い家屋敷s-.jpg  20101002人見神社s-.jpg


三鷹に入ると近藤勇の生家跡、娘婿の近藤勇五郎の道場の撥雲館などがある。そばの龍源寺には近藤一族の墓があり、近藤勇の墓も祀られている。
近藤勇の墓は日本あちこちにあり、中山道の板橋駅前、東海道の岡崎の法蔵寺でも見かけ、これで三つ目だ。

20101002近藤勇生家跡s-.jpg  20101002近藤勇墓s-.jpg  20101002撥雲館s-.jpg 


野川沿いには都指定の有形民俗文化財の峯岸家の茅葺の水車経営農家があるが、内部整備のためか閉鎖中だったのは残念。
川のほとり水車で我慢する。
不思議な名前の相曾裏橋の近くでは、今頃都内では珍しい川遊びをしている子供をみかけた。

川の反対側にほたるの里とうたった湿性花園と、崖線沿いに出山横穴墓がある。七世紀頃のものとか。 

20101002水車農家s-.jpg  20101002水車s-.jpg  20101002横穴墓s-.jpg


大沢あたりには街道沿いに欅が残り、往時を思わせる。
戦時中に焼夷弾によって被災した家の再建のために、多くの欅が切り出されてしまったという、つらい説明板があった。

20101002欅並木s-.jpg


三鷹市役所は良き時代のダイナミックなピロティで驚かされる、誰の設計だろうか。
三鷹の地名の謂れは、ここが徳川家の鷹場で世田谷領・府中領・野方領にまたがっていたことに由来するとか。
市役所敷地内に、移設された御鷹場の標石があり「従是東西北尾張殿御鷹場」。南以外は全て鷹場と言う事か。
これを見ると、御鷹が三鷹に変ったとも考えられるが。

20101002三鷹市役所s-.jpg  20101002御鷹場碑s-.jpg


下連雀に地名の解説があり、振袖火事とのあと火除地とされた神田連雀町から移ってきたそうだ。
連雀は昔は連尺で物を背負うときに用いる荷縄で、それを取り付けた背負子をつくる職人が多く住んでいたことから、「連尺町」の名前が付けられたと。
なるほど。

牟礼二丁目の交差点に道供養之塔がある。
橋供養碑はあちこちで見かけるが、道供養は甲州街道の笹塚で見た以外はあまり記憶にない。
街道歩きをする者としては何時も道に感謝。

秋祭りの季節で、そこかしこで祭礼が行なわれていた。牟礼の神明神社の祭りはやや寂しげだ。

20101002道供養塔s-.jpg  20101002牟礼神明社s-.jpg


玉川上水を渡る牟礼橋の横に、古いレンガ造りの橋が残っている。
ドンドン橋と言い、ここには橋供養碑があった。

20101002橋供養碑s-.jpg


神田川を越えて久我山を過ぎると、見所はあまりなく、程なく杉並の大宮八幡に着く。
ここは、鎌倉街道中道の一つが通っており、その探訪はまた次の楽しみとし、思いのほか時間が掛かってすっかり日が落ちた大宮八幡をあとにして、この日の街道を終えた。

20101002大宮八幡1s-.jpg  20101002大宮八幡2s-.jpg
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2010年09月19日

岩城相馬街道(その8:木戸宿〜大野)

酷暑の夏が終わり始め、ようやく岩城相馬街道の続きに。

木戸宿は建設省が選んだ24箇所の歴史国道の一つという事で、楽しみにしていたが期待外れ。

国交省の四国道整備事業とは「・・・本事業は、歴史上、広域的な道路として利用され、国として特に重要な歴史的・文化的価値を有する道路について、その整備保存、復元及び活用を図るものです」
と示されており、尤もな選定基準も幾つかあるようだが、他の宿場と比べて何故木戸宿が、感は否めない。

若干の古い建物が残り、用水路もあるにはあるのだが。
あまり見かけた事の無いピンクの彼岸花が、道端を飾る。

20100919木戸宿s-.jpg  20100919木戸宿水路s-.jpg  20100919彼岸花s-.jpg


季節は巡って、豊葦原の瑞穂の国。街道沿いには稲掛けも稀に見受けられる。

20100919稲s-.jpg  20100919稲掛s-.jpg


稲の実りを見る以外はあまり史跡や、見所もなく、そういう時は一里塚が目標物だが、井出一里塚、清水一里塚と現道と離れていたり、生繁る草に足元を阻まれたりした為に諦めた。

20100919清水一里塚への道s-.jpg


富岡宿はこの地方の中心的な町だが、ご多分に漏れず人気の無い町並みで、悲しくなるくらい衰退する地方都市の典型だ。
町を抜けてしばらく行くと松並木も少し残存し、さらに今度は現道に面して江戸から66番目の新田町一里塚が残っていて、少し街道らしい雰囲気を見ることが出来る。

20100919富岡1s-.jpg  20100919松並木s-.jpg  20100919新田一里塚s-.jpg


富岡宿を抜けると夜ノ森という珍しい地名があり、気に掛かった。
そのあたり一帯を岩城氏と相馬氏が領有権を争って「余(=我)の森」を主張し、その境界線となったことに由来するとか。
街道も岩城氏の領土から相馬氏の領土に入ったわけだ。

更に進むと熊川宿。6号線に面しているが、往時の建物がかなり残っている。

6号線の250kmの標識を越え、大野駅でこの日を終えた。実りの秋の稲穂を見る旅だった。

20100919熊川宿s-.jpg  20100919250km道路標識s-.jpg
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2010年09月04日

中山道・日光御成道-本郷追分

本郷追分は言わずと知れた東大の前にあり、中山道の最初の追分で、昔は駒込追分といわれていた。
丁度日本橋から一里の距離になり、一里塚があった訳だが、今はひっそりとその事を示す案内坂だけが建っている。

今は由緒正しく文京区向ヶ丘一丁目一番地。

角にある高崎屋酒店は、極ありきたりのお店に見えるが、初代の高崎屋長右衛門が宝暦年間(1751〜64)に創業したそうなので、その歴史は驚くほど古い。

20100903本郷追分s-.jpg  20100903本号追分一里塚碑2s-.jpg  20100903本郷追分一里塚碑s-.jpg


ここも歩けば歴史が見えてくる。

写真の右側が幸手宿に続く日光御成道、左が中山道。
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2010年08月23日

中山道・甲州街道-下諏訪宿の追分

下諏訪宿というと、中山道よりは甲州街道の終着点のイメージが強い。

また江戸の方から歩くと当然、追分というよりは合流点のイメージだ。

「綿の湯」前広場が「甲州街道と中山道の合流点」となっており、合流点の碑と、もう一つ問屋場跡の碑を兼ねた甲州街道終点の碑が建てられており、甲州街道として「右江戸より五十三里十一丁」中山道として「左江戸より五十五里七丁 正面京都へ七十七里三丁」の文字が刻まれている。

20060503下諏訪合流碑2s-.jpg  20060503下諏訪追分碑s-.jpg

追分宿とは言われているが、甲州街道が終着点のため分岐の場所自体はそれぞれ先に行く道を暗示するようなY字路でなくて、中山道のほうが京都方向には分岐点から直角に曲がってゆく。

中山道はここから江戸へは和田峠、笠取峠、碓氷峠と三つの峠越えがあり、甲州街道は笹子峠と小仏峠の二つでその厳しさも中山道のほうが大きい。
勿論距離も、甲州街道のほうが短い。
皇女和宮は中山道を使ったが、昔の旅人が京都から下諏訪まで中山道を歩きそこから甲州街道で江戸に出たという記録をあまり見かけないのは何故だろうか。
街道の整備状態が中山道よりも貧弱だっただからという説もあるが、やや頷けない。

分岐点自体の写真を撮っていなかったのは残念だ。
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2010年08月14日

中山道・倉賀野宿−日光例幣使道との追分

中山道には幾つかの目ぼしい追分があるが、これは日光例幣使道との追分。
写真の左側が例幣使道、右側が中山道。

20070515倉賀野追分s-.jpg  20070515倉賀野追分常夜灯s-.jpg


日光東照宮は初め東照社と呼ばれていたが、正保2年(1645)朝廷から宮号を賜り、東照宮と改称され、このことを伝えるため勅使が京都から日光へ派遣された。
以後これに習い、家康の命日の祭礼に「金の幣」を奉じる為に、例幣使が京都の朝廷から毎年一回明治維新まで221年間途切れる事無く続いた。

京を立ってから草津で中山道を経由して、倉賀野で日光例幣使道に入り日光の鉢石宿までを十四泊十五日で行う旅だった。

例幣使は街道で暴虐の限りを尽くしたといわれるが、街道ものをよく手がけていた平岩弓枝の「はやぶさ新八御用旅・日光例幣使道の殺人」などはその辺の事情がよく表されていて面白い。

倉賀野宿の追分には文化10年(1814)建立の立派な常夜灯があり、側面には寄進者として相撲の雷電為衛門、歌舞伎の団十郎の名も彫られている。
なお雷電は善光寺街道の牧家に生まれ、そこには佐久間象山による顕彰碑が建っていた。
何故か街道に縁のある相撲取りだ。

20070515倉賀野追分常夜灯s-.jpg  20070515倉賀野追分常夜灯名前s-.jpg
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2010年08月13日

中山道・追分宿の分去れ

追分の第一回目としてはやはり、その名も中山道追分宿の追分だ。
追分といわずに、分去れというのも格別の風情がある。

ここには分去れ道標や、子抱き地蔵などがあるが、「さらしなは右 みよし野ハ左にて 月と花とを 追分の宿」と刻まれた碑がある。

20070120分去れ1s-.jpg  20070120分去れ2s-.jpg


右は田毎の月の名所の更科を抜けて行く北国街道、左は中山道を経由して花の名所の吉野へ繋がる道となる。

誰が作った歌だろうか、別れを惜しむ追分にその先の景色を「月と花」だけで示しきった見事な歌だ。

中山道を歩いた時は春先で、牛に引かれず歌に惹かれて善光寺街道(北国街道)を歩いた時は冬だった。
その間に5年経っているが、北国街道も善光寺から先の直江津までがまだ残っている事を思い出した。

写真は一枚目:左側の道が中山道、右側の道が北国街道(善光寺街道)
二枚目:北国街道側
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2010年08月10日

追分解題

街道歩きをしていると、知らず知らずのうちに沢山の追分を通り過ぎる事になる。

追分の先には新しい街道があり、その街道はもとの街道に繋がり、もしくは別の終着点へ辿りつき、はたまた次々に分岐、枝分かれして山に入り込み海辺に消えて行く。

これから歩いた街道を振り返って、少しづつ書いてゆくこのカテゴリーは、その数は限られている。

しかし、追分は通り過ぎただけで決して辿られることの無い街道の道しるべであり、同時に辿りたい街道の道しるべでもある。

ある意味では追分は終着点であり、一つの結末なのだが、殆どのものは新しい出発点であり、その先に未知の世界が存在しているように見える。

そう感じ始めて、追分から新たな街道を歩き始めている。
ラベル:街道 歩く 追分
posted by 遊戯人 at 15:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 追分 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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